悪い言葉を知らないのはよくない

2020年12月28日

幾度か触れましたが、古文の授業で「ののしる」という基礎単語を教えるとき、思案します。これはいま使っている「ののしる」の意味とは違い「大騒ぎする」という意味なんですよ、などと王道を行く説明をすると、子どもたちの目が点になります。何を言っているのか分からない顔です。
 
いまの中学生の多くは「ののしる」という言葉を知りません。「罵る」の漢字が「罵倒する」に使われているなど、もう知識の蚊帳の外です。
 
先日は「いやしい」が通じませんでした。「卑しい」が「卑俗」や「卑近」などと繋がることで、語彙が増えることが期待されるのですが、そもそもの「卑しい」を知らないわけです。
 
子どもなんだから、言葉を知らないとはあたりまえだ、と思われるかもしれません。語彙の少なさの問題は当然ありますが、そればかりではないような気がするのです。つまり、上の例では、ざっくり言えば「悪い言葉」を挙げたわけです。人を攻撃する言葉、差別的な言葉、こういった言葉が、子どもたちの世界には存在しないことがあるのです。
 
親が、そして学校が、こうした言葉を排除しているのは確かです。教育現場で、差別語を教えていたら、きっとクレームが舞い込むことでしょう。なんて酷い言葉を教えるのか。教えなければ知ることがなかったのに、差別的な語を子どもが知っているのはけしからん。そんな声が、いかにも聞こえてきそうな気がします。
 
しかし、悪い言葉についてはボキャブラリーが貧困であるということは、たとえばSNS上でも「死ね」「バカ」のような言葉を直接的にぶつけることと、無関係ではないような気がしてなりません。それらの言葉が、ひとを傷つける、誹謗中傷になっていることを意識することがなくなっていく傾向があるように見えるのです。
 
確かに、差別的な言葉は規制がかかり、公的には出てこなくなりました。古い文学作品や漫画などに使われている場合、わざわざ巻末に断りを入れて、作者が故人であることや、当時の時代に基づくものであることなどを告げ、差別を促す意図ではないことを理解してほしいと求めているのを度々目にします。私などはもちろんその言葉の意味は分かりますが、もしかすると新しい読者は、聞いたこともない単語が本の中で出てくるというふうに捉えるかもしれません。とにかく、ただ未知の言葉である、として。
 
他人に差別的な語を用いることが望ましくないことは当然です。他人を罵ることが快いとは思えません。しかし、こうした言葉を用いないということと、その言葉を知らないということとは、同じことではないように思われます。
 
差別的なその語を知っている人は、それを使うことはよくないという理解の上で、その語を使うことがなくなることが期待できます。現在の上の世代の人はそうしているだろうと思います。しかし、差別的なその語を知らない人は、知らないが故に差別的な発言をしない、ということはない、という気がするのです。
 
人の心の中には、差別的な思想が皆無であるとは言えない。この前提でお話しします。差別語を知る人は、差別をその語で意識するが故に、少なくともその語を使わないようにブレーキがかかります。しかし、差別語を知らないということは、どのような語がどのような差別を生むものかということを知らないが故に、心の内にある差別的な思想が、何らかの形でブレーキなく外へ出て行く、と考えられるわけです。
 
語を知らないということは、その概念を知らないということになります。しかし私たちの中に悪いものがあるとして、その悪いものを指す語を知らない、つまり自分の中の悪を意識していないとするならば、私たちはその悪を簡単に外に出してしまうのではないでしょうか。
 
聖書は、人の悪を、これでもか、と指摘します。それにより、私たちは人間の中にある悪を知ります。それを物語により、あるいは言葉により自覚し、意識するとき、自分の外からの神の光に気づき、受けることができるようになります。人間の中にそもそもあるその悪を意識することで、他人の中にもそれがあることを認めますが、その故に、その人の本質に悪を帰せることなく、むしろ憐れんだり思いやったりする心を懐くことができるような気がします。
 
悪を言葉で意識することは大切だと考えます。悪を、いわば言葉で封じる可能性を備えるのです。自分だけの力ではなかなかそれを封じることはできませんが、少なくとも封じる必要性を意識することはできるようになるのです。
 
自分の中の悪に気づかないでいると、実に無邪気に、他者を攻撃したり、傲慢に自分を神としたりします。子どもに悪を、言葉で教えることは大切だと思うのです。自分の中の悪を意識することなく、ほんとうの善を知ることはできないと私は考えるからです。



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