【メッセージ】王は誰

2020年12月20日

(マタイ2:1-12)

ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。(マタイ2:2)
 
「王様ゲーム」と聞いて、意味が分かる世代と、分からない世代とがあるのではないかと思います。くじか何かで役割を決めますが、王様に決まった人がしもべたちに命令してそれを実行させるというお遊びです。
 
どうも中世あたりから、考えようによっては古代からこの手のゲームはあったともいいます。西洋の昔話に、よく王様が出てきます。お伽噺ではわがままだったり愚かだったりすることが多いのですが、庶民のささやかな抵抗だったのでしょうか。他方、アーサー王伝説のように、ちょっとイカした物語もありますから、王家への敬意は当然あったことでしょう。日本では天皇家がそれに中るでしょうか。しかし王様というイメージは、いまはイギリス王室が一番分かりやすい実例であるかもしれません。
 
王様とくれば、絶大な権力をもち、なんでも言うことを人にきかせるような気がします。絶対王政の時代の印象が強かったのか、あるいはまたローマ教皇との関係が世界史で取り沙汰されることも関係しているのか、王様というのは私たちにとり、いろいろ捉え方もあるでしょうが、それなりに一定のイメージというのがあろうかと思います。
 
イスラエルで王制が敷かれたとき、最初の王になったのは、サウルでした。このあたり、かなり詳しく旧約聖書の歴史を記すところに書かれています。イスラエル民族がエジプトを出てカナンに入ってしばらくは、士師と呼ばれるリーダーが現れて、緩くイスラエル民族を統率していた様子が記録されていますが、カナンの地では先住民族との争いが優先事項でしたから、王というのは戦いに勝つための存在と見られていたように思います。
 
しかし現れるのが偶々であったり、戦争のためにリーダーになってくれと頼んだりする士師の存在は、不安定です。特にペリシテ人という、いまのパレスチナ人に匹敵するようなライバルに対しては、ライバル意識とでも言いましょうか、戦いに苦労することがありました。民は、当時士師でもあった預言者サムエルに、イスラエルのために王を立ててくれと頼みに来ます。サムエルは、王なんかを立てると、君たちは税を絞り取られ、戦いに駆り出されて損をするぞと脅しますが、人々はそれでも、王を求めました。こうして、初代の王としてサウルが立てられることとなりました。
 
サウルはペリシテ人と、とにかくよく戦いましす。しかし、信長の下に入り出世した秀吉のように、サウルの下にいたダビデが、戦闘に関しては頭角を現し、イスラエルを次々と勝利へ導いていきました。イスラエルの王たる者は、戦いの統帥者権を有する最高指揮官だったと言えるでしょう。その後、北イスラエルと南ユダとに分かれて、互いに戦うこともあり、周辺諸国とついたり離れたりしながらも、戦いに明け暮れていた様子が列王記に書かれており、ヨシヤ王のように戦死するシーンも描かれています。
 
さらにその後、特にバビロン捕囚の後には、大帝国の支配下に入り、戦うということがなくなると、イスラエルのリーダーには、戦闘技術よりも、経済や外交の手腕が求められるようになります。結局大祭司など宗教権威の持ち主が、政治的な働きをすることにもなりました。サドカイ派はこうしてひとつのグループを作ります。
 
後にローマ帝国の支配下に入ると、抵抗もありましたが、祭司階級のリーダーによる団結があった後、ユダヤを穏やかに治めていたハスモン朝の隙間に、ローマ側から任命されてユダヤの王となったのが、ヘロデ大王でした。ローマ帝国の傀儡政権ですが、建築に才覚を発揮はしたものの、戦いに出るようなことはなくなりました。ただ、王位を狙われることに異常に反応し、妻子をも処刑するなど残忍さを呈し、そうした一面が、このマタイの伝えるクリスマスの物語にも描かれています。
 
イエスは、このヘロデ王の時代に生まれました。神が、世界を新たに創るためにこの一瞬を選んだとしか思えません。マタイは、ルカのようにマリアの事情については沈黙し、専ら父ヨセフの立場を描きます。
 
ヨセフが、不義で死罪となりかねないマリアを、天使の知らせにより、聖霊によるものと受け止め、マリアを迎え入れました。そうしてイエスが生まれた、という事実だけをマタイは伝えます。問題は、そのとき外国人たちが訪ねてきたということで、ユダヤのヘロデ王が関わってくることでした。
 
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
 
以前から「東方の博士たち」と言い習わされていたこの場面の主役は、新共同訳聖書で、なんと「占星術の学者たち」に替えられてしまいました。最新の聖書協会共同訳では、再び「東方の博士たち」に戻されています。占星術だと単なる星占いのように思われてしまいます。しかし天体観測の技術と天体の運行の計算は非常に高度なもので、暦をそれに基づいて決めていたほどです。時を支配しなければならない権力者は、暦の制定にはナーバスでした。これは古今東西、どんな文明文化でもそうです。それを、私たちのワイドショーや雑誌のおまけのような星占い(失礼)と同じように呼ぶのは、次元が違います。
 
いまなら、科学マジックと呼ばれるものがあり、科学的な性質を用いて不思議な現象を示すことができますが、確かに一定の知識が伴わなければ、科学的現象は魔術のように見えるかもしれません。天体の運行の計算も、魔術のように見えた可能性はあります。天動説を古代人の妄言のように私たちは見下すかもしれませんが、天動説に基づいて惑星の運行を説明するには、周転円のような非常に高度な計算が伴うものです。
 
この高度な専門職である科学者集団が、イスラエルに現れます。彼らはエルサレムに来たとあるだけで、ヘロデ王の前に現れたとは書かれていません。まずは、エルサレムに迷い込むようにやってきたのでしょう。その言及に基づくならば、東方から特別な星を見出し、ユダヤに王が生まれたことを知ったというのです。このあたりは、ただの科学ではないような気がしますが、ともかく、不確実な情報とは考えず、何らかの根拠を以て、はるばる命懸けで訪ねてきたのです。やってきたのはユダヤのエルサレム。そこで、自分たちの推測に確信を懐きつつ、人々に尋ねます。ユダヤの王はどこにいるか、いま生まれたはずだ、と。
 
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
 
突如現れた外国の学者たち。それが、ユダヤの王が生まれたという。こんな珍しい話が、世の中に伝わらないはずがありません。ヘロデ王の耳にもそれは入りました。そして、ヘロデ王は胸騒ぎがします。自分の王位を脅かす者が現れた、などという噂は、自分が殺されるという不安を呼びます。また、自分に不満をもつ市民が、ますます自分に不信感をもつ原因ともなりかねません。
 
さらに、ヘロデ王にこの話が伝わったという話は、市井の人々にもさらなる不安を与えました。王位が狙われると思うや否や、妃も息子も殺したヘロデ王です。新たな王の誕生の話は、物騒な話のほかの何ものでもありません。またユダヤに血の雨が降る。もしかすると自分たちに腹いせが及び、何をされるか分かったものじゃありません。
 
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
 
王はまだ、博士たちと面会はしていないだろうと思います。まずは調査にかかります。ユダヤの王と聞いて、ヘロデ王は、それを、民が待ち望んでいるメシアだと直感したのです。それは、旧約聖書の預言者たちに由来し、主の日になるとメシアが来る、との信仰が人々の間にあったことに基づいています。それが本当なら、自分は一掃される先頭にあるということを、ヘロデはよく理解していました。そこへ、ミカ書を根拠として、ベツレヘムだという回答を、祭司長や律法学者など、ユダヤの知者たちの口から受けたので、探す範囲が狭められたことを知りました。この預言書の引用は、マタイのよくすることですので、今日は細かく見ることなく、通りすぎることにします。
 
よし、小さなその町にいると分かった。ならば、見つけ出して、殺してしまおう。メシアとはいえ、さすがに生まれてすぐでは自分の方が勝つ。殺すのは赤子の手を捻るだけのこと。しかし、エジプト王のように怒れば、逆に隠そうとするだろう。これは秘密裡に見つけ出したほうが得策だ。ヘロデも頭脳的です。まんまとやってきたこの東方の知者たちに、その王とやらを探し出させてみよう、と考えました。
 
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
 
ひさかに呼び寄せたのです。新たな王を探しているということは、秘密裡に遂行するつもりです。星が現れた時期、それははるばるユダヤまで来るより以前です。それを理由として、後にヘロデは、2歳以下の男児を虐殺したのではないかと推測されます。博士たちから情報を得ると、居場所が分かったら知らせよと頼みます。まさかその子を殺すためだと怪しまれないように、フェイクの言葉をかけるのです。「わたしも行って拝もう」というのは策略のためですが、これは私たちがどんなに救い主に刃向かっても、拝むことになるという、逆説的な預言を示しているのかもしれません。
 
そうとも知らぬ学者たちは、無邪気に出かけます。すると、また特別な星が現れたので、「喜びにあふれた」のでした。この語は、もう跳び上がって大喜びだというほどの、ものすごい喜びようであることを伝えます。今度は、その星が博士たちを導くように動いたといいます。占星術的にか、私たちは「そういう星の下に生まれた」などという言葉を使いますが、本当に星の下に生まれたイエスのところへ、博士たちを導いたのでした。
 
博士たちはその家で、幼子を見ます。星の出現から一定の時間が経っているとすると、イエスは生まれたてではなかったかもしれません。しかしまた、マリアが以前としてベツレヘムにいるとなると、イエスがそこで生まれ、なおかつそこにいたのですから、案外生まれてすぐであったのかもしれません。そしてここには「母マリア」という表現がとられています。まだヨセフと結婚していなくても、あのとき「母マリア」(1:18)と先取りして書かれていたのでしたが、時を経ていま名実ともに「母マリア」となりました。
 
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
 
博士たちは献げものをします。これが三つ書かれてあるので、博士たちは3人いたのだという伝説が生まれました。ひれ伏して礼拝した、そして献げた、ここに教会でかくあるべきという礼拝の基本を見ることも必要でしょう。私たちは、ひれ伏しているでしようか。拝しているでしょうか。献げているでしょうか。そんな問いを投げかけられたような気がします。
 
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
 
博士たちは、ヘロデに言われたことを忠実に守ろうとしたことと思います。お人好しというか、無邪気というか、あるいは権力者の頼みですから断る理由がないと考えるのか、その詳細は知りません。ただ、ヘロデのところに戻って、うっかりこのイエスのいる場所を教えてしまうと、神の計画が曲がってしまいます。イエスを殺しにヘロデが出向くと、厄介なことになります。博士に対して神は、夢という形で告げます。「ヘロデのところへ帰るな」、それは私たちの耳に残ります。何度も聞いてみてください。「ヘロデのところへ帰るな」「ヘロデのところへ帰るな」
 
私たちは、どこか戻ってはならない場所を感じていると思います。私なら、聖書も神も知らなかったころ、自分を信じ、自分に根拠をおいて生きるようなかっこいいことを言い、それでいて足元がぐらぐら揺らぎ、愚かな状態でいることに気づいていないものでした。あの場所に、再び戻ってはいけないし、戻る気持ちにもなれないわけです。
 
だのに、キリスト者となってから、信じた自分がさも偉くなったかのように錯覚して、どうだ偉いだろう、世間の人々は愚かで滅びるのだ、と豪語するような態度に出る人が、現実にいます。私もそういうことがあったような気がします。元の道に戻るということは、自分で意識していなくても、やってしまうことがあるのです。そして元の道を戻っていることに、なかなか気づかないものです。この声を、私たちも日々聞いていたいと思います。「ヘロデのところへ帰るな」
 
さて、こうしてテクストを読んできて、私はふと気づきました。「王」とは誰か、ということです。お手許に聖書が開かれていたら、目を落として戴ければよいかと思いますが、この時代は「ヘロデ王の時代」(2:1)と書かれ、不安を抱いたのも「ヘロデ王」(2:3)でした。祭司長たちや律法学者たちを集めたのは「王」(2:4)ですが、実はここはす原語では主語がありません。日本語が補っているだけです。しかし、ミカ書の預言が開かれた後、博士たちを呼び寄せたときには「ヘロデは」(2:7)と書かれており、「王」という称号がありません。博士たちは「王の言葉を聞いて出かける」(2:9)のですが、ここは「王」と書かれています。ヘロデのことが「王」と呼ばれているのですが、博士たちから見ればあくまでも王ですから、これはこれで結構です。しかし夢で主が告げたのは「ヘロデのところへ帰るな」(2:12)でした。
 
預言が開かれてからは、マタイは、もうヘロデを「王」と呼ぶことを止めているのです。ユダヤの「王」たる身分を、ヘロデからイエスに移しているように見えてしまうのです。
 
私たちは、「ヘロデのところへ帰るな」との思いで、もうすでにイエスという王に出会っています。信じている者にとっては、紛れもなくイエスが王でしょう。イエスを王として褒めたたえ、賛美している、それが毎週の礼拝です。また、いまそのような信じ方をしていない方もここにいらっしゃるかもしれませんが、その時にも、イエス・キリストには何か力があるのだという感じ方をしている方は多いだろうと思います。自分は拝まないが、信者にとっては「王」なんだろうな、くらいの想像はしてくださるでしょうか。この場面でもイエスのことは、「ユダヤに王として生まれた人」、「メシア」、「指導者」、「牧者」と呼ばれています。生まれたイエス自身はす人間として、「その子」、「幼子」とも呼ばれます。軍事的な指導者でもあるのでしょうし、経済や政治を司る王の立場もそこには含まれていると見ることが可能でしょう。
 
そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。(ヨハネ18:33)
 
イエスの十字架を目前にしたあの裁判の席で、総督ピラトは被告人イエスに尋ねました。この後、鞭打たれたイエスは兵士たちに「ユダヤ人の王、万歳」(ヨハネ19:3)とからかわれます。
 
ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。(ヨハネ19:19)
 
期せずして、ピラトは正当な称号を掲げたことになりますが、教会は、このようなイエスを本当に王だと受け止めています。権力を手にせせら笑うような王ではありません。人が痛めつけても抵抗せず、弱さと忍耐の中で疲れ果て、ついになぶり殺しにされたその方を、王と呼ぶのです。このとき、すでにイエスは「ユダヤ人だけの王」ではなく、異邦人にとっても、とにかくすべての人の王になっているはずです。
 
それでもなお、この世の王の前に跪いていることがある、そんな私たちを意識したい。それが私のひとつの感想です。金や名誉をわざわざ拝むような人は、教会には殆どいないだろうとは思いますが、それも分かりません。そこは、一人ひとりの霊の自覚の問題です。イエスでない、何かのものを、地位を、賞賛を、王としてはいませんでしたか……。
 
でも、それだけでこの問いかけを終えてよいかというと、私は決してそこに留まりたくはないと答えます。金や人や、名声などを王としてはいないとしましょう。でも、ほかに王はいないのですか。本当に王はもう誰もいませんか。
 
クリスマスの物語です。それは美しい絵本の中のお話です。でも、ただのお伽噺ではありません。本を閉じればもうその世界は現実ではなくなるような、別世界だというわけではないのです。聖書を、そのように読む人もいます。けれども、読む私が、本の中に引きこまれるか、あるいは本の中の世界がこの現実に溢れ出てくるのか、感じ方はいろいろあるでしょうが、どちらにしても、聖書という本は、リアルなものとなる必要があります。いえ、すでにリアルなものなのです。
 
ヘロデ王は、建築に長けた才能を発揮したそうです。また、ユダヤを支配する王として、またローマから治安を任された者として、贅沢な暮らしができたことは確かでしょう。しかし、ヘロデはスマホを持っていませんでした。スイッチひとつで暖房が始まる器具も持っていませんでした。ビールや冷凍の肉、レトルト食品で、いつでも好きなものが食べられるような食生活をしていたとは思えません。指先ひとつで洗濯が完了するような装置もなかったはずです。
 
私たちの生活は、かつての王侯貴族、西欧の王様たちより、贅沢で楽ちんな暮らしができるようになっていないでしょうか。これを当然のことだとして、ちょっと包装の開け方が面倒なおにぎりのパッケージに不満を漏らし、鍋で煮るラーメンを面倒だと考えるような私たちの生活を、どう顧みればよいのでしょうか。
 
そして、私たちのちょっと気にくわない人のツイートに、精神的にダメージを与えるような返事をしたり、おまえはバカだと書き込んでいく。世界を窓の向こうに見渡しつつ、自分が世界で一番偉い者になったように錯覚し、世界を支配した気分になっている。そんなことはないでしょうか。
 
私が王になっているということは、本当に、ありませんか。もしあるなら、私の中にヘロデがいるのです。「王」の文字の取れたヘロデが、私の中に生きていることになるのです。自分の都合のよいように嘘をつき、人を利用して、邪魔な者を陥れようとする残酷なヘロデが、私の中にいないでしょうか……。
 
ベツレヘムで生まれたのが、ルカの伝えるようであるなら、そこで出産したマリアの心細さとリスク、いったい誰が産婆となったのかもよく分からない、危ない出産、少し想像そただけで、とんでもない出来事であったように思えます。だのに、私たちは救い主が生まれた、と、ただの絵本を外から眺めて、それで神を称えたつもりになっている。ああ、生まれたんだってね。この一言ですべてを済ませようとしている。偉そうな王として、絵本を眺めているとは言えないでしょうか。
 
王とは誰か。そうです。私が自分で自分を王としているのです。私は王になりすましています。これをフェイクといいます。フェイクはただの嘘ではありません。嘘の一種ですが、なりすましです。フェイクの本当に怖いところは、自分が相手を騙しているだけのようでありながら、実は自分が自分を偽っていること、自分が自分でなりすましたその嘘を、本当のことだと思い込んでしまうところにあると言えます。自分が虚像であることに気づかず、自分は偉い、特別だ、と思い込んだまま、暴走してしまうのです。
 
でもそれは、傍から見れば、井の中の蛙に過ぎません。山椒魚です。独り善がりの、自画自賛、自己賛美をしている、裸の王様です。
 
これに気づくには、目を覚まさなければなりません。王は誰か。王はどこにいたのか。ユダヤの王として生まれた方は、ベツレヘム、つまりいちばん小さな町にいました。大きく膨れ上がった傲慢さの中ではなく、小さく謙遜なところにいました。
 
その王をこそ、拝みに行きましょう。聖書の知識を集めて謎を解いたような気分になり、それを得意気に説明して知識を誇るような真似をせず、この聖書から証言していること、聖書を通じて神が伝えたいと命懸けでなさったことを証言していることを聞きましょう。そうして真の王に出会い、ひれ伏すのです。そこに王がいます。あなたの王です。あなたの王として、このキリストが、お生まれになったのです。今日もまた、生まれるのです。



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