手話通訳者の立つところ

2020年12月20日

さる14日に「手話通訳者と説教者」ということでずいぶん長い記事を公開しましたが、うれしいことに、ろう者や手話通訳に理解のある方々などから、共感の声が寄せられました。私が全くの勘違いで狂った叫びをしていたのではないように思われ、支えられました。
 
その後のことについて、少しご報告します。と言っても、個人を非難するのが目的ではないと考えていますので、できるかぎり一般的な問題としてご理解くだされば幸いです。
 
手話通訳者に提供する説教原稿を、事後直ちに処分せよ、との指示が、手話通訳者あるいはろう者に無理解である、という指摘を前回しました。これに対して、教会の代表たる仲介者が、手話通訳者には非礼を詫びるとしきりに言うものの、むしろその説教者を擁護するだけの返答しかせず、ますます手話通訳者を傷つけている、というのが今回の要点です。
 
その詳細を記そうかと最初思いましたが、やめることにしました。手話に対する無理解の一つひとつを責めても仕方がありません。それはよくあることだからです。しかし、通訳者側のお願いや立場への共感や理解をひとつとして示さず、執拗にかの説教者を庇い、自分たちが手話通訳に理解があるようなことをさらに言い続けるとなると、むしろこちらのほうが問題の本質なのだと分かってきました。思えば最初から、「事後処分せよ」との要望を右から左に手話通訳者に伝えてきたのがこの仲介者でした。そもそもそこで、信頼と理解があるのであれば、そんなことを伝えるはずがなかったのです。しかも、何の説明もなしに、ただ処分せよだけでした。ここからすべてが始まったのであり、すべての問題はそこに収束するものだったのです。説教者のように、手話通訳に理解のない人は世にいくらでもいます。しかし、ふだん理解しているように振る舞っている人が、実は何も理解していなかった、しかも幾ら通訳者のほうが言葉を重ねて訴えても、肝腎なところをすべて無視して、さらにまた説教者の思いやりを――それがもう開いた口がふさがらないほどの的外れな無理解に基づくものなのですが――熱く説明し続け、ますます通訳者の傷を深めていくことを止めなかった、ということで、通訳者は立ち上がれなくなってしまいました。
 
誤解のありませんように。私は聴者ですから、それらの的外れな無理解をする心理を、必ずしも分からないわけではないのです。考えてみるならば、自分がろう文化についてどれほどのものを知っているつもりになっているのだ、と自分こそ偽善者であるようにさえ思えてきます。また、説教者の心理もいくらかは分かりますので、そちらの論理をけしからんと言っているわけではありません。だからいまはその説教者自身の原稿に対する(私は賛成できないが)考えを非難するような思いはないのです。
 
手話通訳者は、先に「手話通訳者と説教者」で私が記したようなことを、頑張って伝えようと努力しました。が、原稿を破ったというところまで伝えたことにも、仲介者は何も心を動かされた反応はなく、擁護をまた繰り返すばかりでした。原稿を破る、このショッキングさ、それに心を留めないというとは、なんと鈍感なことでしょう。悔しくて、情けなくて、そして誇りに思うべき、神の言葉として伝えようとしたその原稿を、直ちに破り捨てなければならなかったという屈辱感と失望感を、信仰をもつ者が自ら行わねばならなかったということ、その重みに、気づかないということが、あるのでしょうか。これはまるで、破り捨てたということで、説教者の依頼が実現したのだからほっとした、ああよかった、とでも思っているかのようではありませんか。すべてのこれまでの理解していたような顔が、偽りだったとは。
 
その仲介者が忙しいことは存じております。また、その忙しさから、という言い訳により非礼を詫びるとは言いました。とりあえず謝る態度をとればいいのだ、とでも考えているかのように見えました。通訳者の訴えに何一つ反応せず、擁護しかしないのですから。忙しいから何を言ってもいい、そんなことはないでしょう。この手話通訳者はそれに勝るとも劣らぬほどに忙しいのです。医療の現場において上に立つ者として、緊張の必要な職務を連日続けています。しかし忙しさを理由に、通訳に手を抜いたことは一度もありません。もちろん、これまで渡してもらった説教原稿を横流ししたようなことは一度もありません。それを信頼できない発言に気づいているようには見えませんでした。気づいていたなら、気づいてなお、手話通訳者の傷口に塩を塗り、刃を深く差し込んでいたことになります。礼拝式直後に破り捨てたあの原稿は、そのまま、教会で手話通訳をすることを破り捨てなければならなかったことの象徴でもあったように後で思えたのでした。
 
何も理解されない。理解される気配もない。手話通訳者は悲しみました。心が折れました。私はまず、伝わらない人にはいくら説明をしても伝わらない、と考えていますので、ここはひとつ分かってもらおうという気持ちを保留しよう、と考えました。対話をしようとしていくらもちかけても、同じことしか繰り返さないとなると、もう住んでいる世界が違うとしか思えません。そして私は、手話通訳者に寄り添いつつ、さらに自分の立場を振り返ることを勧めました。もちろん、それは何よりもまず私自身のことでありました。
 
手話通訳者は、この仲介者からは、ついに理解されませんでした。このとき、相手が別の側にいるのだということを、通訳者は実感しました。そして私は、そもそもろう者は、そのような思いをこれまでずっと抱えてきたのだし、いまもそういう社会で生きているのだということを胸に刻むべきだと思いました。理解されない、無視される、主張しても聞いてもらえない。さすがに今では言われないものの、かつては人間扱いされず、手話を使えば手真似と軽蔑され、法的にも一人前扱いされていなかったのです。何をどう説明しても、聴者は聞いてくれない。その悔しさたるや、私たちどころではないのです。
 
でも、今回、本気でそのろう者のための通訳という立場で、聴者の論理が全く受け付けてくれないことが分かった。もしかすると、私たちは、いま少しだけでも、ろう者の側に立つことが許されたのではないか、そう思ったのです。
 
いえ、日本手話が分かるわけでもないし、ろう者の生活の何が分かると言われれば、何も分からないとしか答えられません。呼び鈴も非常時のマイクも、災害サイレンも、駅の運行案内も何も気づくことなく、コンビニで店員のマスクで口話も閉ざされた中で分からないでいると釣り銭を投げつけられるような体験をする、というようなことがないからです。私たちは、聴者が作った社会の中で、聴者として生きていける、狡い立場です。聴者としての逃げ場がある、狡い手話通訳者です。とてもとても、ろう者の立場になど、立つことができるわけがないのです。
 
沖縄の歌を歌いヒットした歌手がいます。その人は、ヤマトの出身でしたが、それはまるで沖縄の気持ちを代表するかのような歌でした。けれども、沖縄の人々に受け容れられなかったと告白しています。ウチナーンチュからすれば、いくら琉球の旋律を真似て方言を歌詞に含んだところで、ヤマトの人間でしかないのです。沖縄戦が何であったか、米軍占領下の生活と精神状態がどうであったか、何も体験していない、ヤマトでしかないのです。さすがにその後、若者を中心に受け容れられるようになっていきましたが、そうなるとなおさら、沖縄のために何かをしたいのだという思いが強くなっているのだそうです。
 
手話通訳者も、所詮は聴者です。いくら気張ってみても、ろう者ではありません。けれども、なんだかろう者の立場に立っているかのように、今回本気で怒りがこみあげた。理解されない悲しみを真底味わった。手話通訳者のことを理解したような言葉はこれまでかけられていたものの、実は何にも分かっていたのではなかった、そのことが明らかになったからです。先ほどの口話の件のように、ろう者の礼拝についても何も理解がなされていないことは悲しかったけれども、それを聞いたとき、自分たちが、ろう者の立場に立つことを、ちょっと許されたのかもしれない、という気がしました。まだそうじゃないかもしれないけれど、本気でろう者の側から、聴者の無理解というものと対立した体験をした、ということです。そちらからの景色が見えた気がした、ということです。
 
向こう側の人に、説明をして説得をしようとしても、それは無理な話。政治の世界を見れば、そんなことは当たり前だと分かります。だとすれば、こちら側に、ちょっとだけ許されたのかもしれない、と思いました。いえ、それもまた傲慢な話で、ひとり分かったような気になっているだけかもしれません。お叱りは受けるつもりです。でも、これまでもいくらかでも考えてきたろう者に対する社会の冷たい仕打ちというのが、言葉や知識ばかりでなく、ささやかながらも体験して感じられたということで、きっとまた、いろいろ見えるものが違ってくるのではないか、と期待しています。街にいても、報道を見ていても、これではろう者はたまらない、と感じることが、増えるのではないかと、期待したいのです。偉そうなことばかり申し上げましたが、やはり嘘だけは告げていないつもりです。刃のような言葉であったことかと思いますが、誰かが何か大切なものに気づく機会となることを願っています。そしてまた、自分が謙虚になるための、一歩となれるようにと望んでいます。



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