娑婆の空気よりもなお

2020年12月16日

新型コロナウイルスの感染者が身近に現れて、濃厚接触者と認定されてしまった。
 
いえ、私ではありません。あるラジオのパーソナリティでした。そのため、スタジオに行くことができなくなりました。長時間の番組でしかも夜中の生放送なので、その全部をリモートで制作することができず、スタジオではピンチヒッターがこなしました。しかし短時間であればなんとかなるとして、リモートで自宅から声を聞かせて、ファンを安心させるというコーナーもありました。
 
それが先日、指定の期間が空けて、スタジオに3週間ぶりに復帰しました。幸い発症もなく、陽性認定もなかったということで、ご当人はほっとしたわけですが、番組に再登場するとたちまち、この自宅での期間について話すところから始まりました。
 
食事は宅配してもらうも、ドアの外に置いてもらうなど、いろいろな人を気遣いながら、じっと籠もって生活していたそうです。それから、とても感慨深く話したとき、「ついに外に出たとき、もう嬉しくて」と気持ちが弾けていました。まず空気がうまい。それから、世界のすべてが眩しくて、人を初めて見たとき、「人が生きてる」と感動したのだと言いました。ふだんなら、ゴミ出しの日じゃないのにゴミを棄てている人を見ると憤りを感じることがあるのに、この日ばかりは、「ゴミが出ているということは、人が生きているということなんだ」と嬉しく思うほうが先立ったというのです。人の声がする。人が生きている。それが感動的だった、と幾度も繰り返して話すのでした。
 
確かに初夏に、非常事態宣言期間があり、巣ごもり生活が強いられたことがありました。だからこのパーソナリティの気持ちが分からないとは言わないのですが、やはり幸いなことに、私は分からないわけです。というのは、あの宣言期間も、散歩に出たり、買い物に出たりすることはできたからです。とにかく感染させる可能性が高いと認定されている立場にあるために、散歩すらできないわけです。これが2週間強いられるというとき、私が感じていた生活とはまるで違うものであることくらいは、想像できると言ってよいでしょう。
 
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:4)というあたりを引用するのはお門違いでしょうが、「艱難汝を玉にす」くらいならよいでしょうか。いま辛い立場にある人に、安易に無情な声をかけることは控えますが、なんとかその辛さが超えられる、その時が少しでも早く来ることをと願っています。
 
新型コロナウイルスの感染力は、ほんとうに脅威です。また、とくに高齢者の命を奪う力をもつことについては、恐怖を覚える人も多いでしょうし、悲しい中にある方へは言葉のかけようもありません。そして職務とはいえ、その中に飛び込んで以下成ればならない医療従事者の方々は、終わりの見えない暗闇の中で光として働き続けてくださっています。それにさらに重い荷物を負わせかねないようなことを、私たちはわざわざしてはならないと戒めます。口先と行動とが合わないような報道を聞くと、憤ってよいのか悲しんでよいのか分からなくなります。こうした闇路は、まだこれからも続くことになりそうです。コロナ後だとか、コロナと共にだとか、慰めの言葉も、実のところ根拠のないものです。元のように戻った時には、という仮定も、果たして、あの元に戻れるのかどうか、分からないというほうが適切であるようにも思えてきます。
 
ネット上では、自己顕示欲と共に誹謗中傷を繰り返す、自称クリスチャンも見かけますが、聖書の言葉はひとを生かす、ということを私は信じる者です。あのパーソナリティが感じた、娑婆の空気がうまいという感動以上に、聖書の言葉がもたらす喜びというものを、運ぶ仕事が少しでもできるなら、と望んでいる者です。



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