操られる可能性

2020年12月10日

「GoToキャンペーン」は、2020年の新語・流行語大賞のトップテンに選ばれました。政府が、新型コロナウイルスで閉塞的となった経済情況を活性化されるために始めた政策のことです。
 
一万円とか二万円とかいう旅行費用の、政府からの援助だそうで、なるほど、お得感が与えられ、人々が飛びついたのも、分からないではありません。なんでそれに飛びつくのか、私には解せないところがありますが、私も先日、もっていたクーポン券の存在を忘れ、5%割り引くチャンスをみすみす失って靴を買ったことでそうとう凹む経験をしましたので、手に入るものを見過ごすことのもったいない感は、よく分かります。
 
けれどもこのキャンペーンでは、自分や他人を危険に陥れる可能性のある行為が推奨されているわけで、誰しも旅行をすることには迷いを覚えるものではないか、と思われます。いま挙げたのは「GoToトラベル」ですが、同様に「GoToイート」もありますが、こちらも、会食を促すとなると、やはり危険性を伴うものであるわけです。もちろん、観光地や旅行業者、飲食店とそこへ提供する食材関係者の苦労や不安の解消のためとなる目的も分かるし、経済とはお金が回ることですから、ウイルスとは別の危険性で、ひとの命が失われる可能性が大であることも、懸念しなければならないことは理解できます。だからこそ、なんとか知恵がないか、策がないか、と「賢い」人々が考える必要があったのです。
 
いま考えたいのは、このキャンペーンの是非ではありません。
 
人々が、このキャンペーンにどっと動いた、という点です。
 
新型コロナウイルス感染症の蔓延に対して、強烈なロックダウンを強いた国の中には、その後感染を断ったと見られるところもある一方、欧米ではそれをなしつつも経済を回そうと出たことで、一層の感染拡大を煽ってしまうことになった悲しさもあります。欧米諸国では、政治がもたらす強権に対して、個人の自由というものが対立していたものと思われます。
 
それが日本では、強権発動に対する警戒感がありました。それで非常事態宣言という名ではあっても、強制的な措置は見送られていた建前になっています。政府は強制はしないよ、という呼びかけではありましたが、多くの国民は、良い子を演じ、素直にそれに従った恰好になりました。これは欧米から見れば脅威でした。こうした国民性は、五人組のように、周囲の目を気にし、互いの監視の中で行動が制限されるという社会性と関係するもののようにも見えました。「自粛警察」などが生まれたのも、この範疇の出来事であるように見なし得るだろうと思います。
 
そこへ、このキャンペーン。一万円や二万円が小さいとは申しませんが、言うなればいくらかの金銭の提供、しかも旅行するとなると、この範囲で収まるはずがなく、結局手出しで自分の金を使う方向に動くわけで、そもそも旅行に興味がない人がこれに手を出すとなると、本来使わなかったお金を使うことになります。バーゲン品だから、と不要なものを買ってしまうのは私もよくあることですが、いわばそうした行為ともなりえます。
 
自分の意志で自由に選択したつもりでいながら、実は操られている。この12月、Eテレの「100分de名著」では、ブルデューの『ディスタンクシオン』が取り上げられています。趣味だの選択だのというのが、実は社会により制約されているということを考察した社会学者ですが、元々哲学者であった故に、これを人間の「自由」の問題として捉えていくことになるようです。私たちはそうした実例を、マインド・コントロールという言葉でマスコミからかつて学びました。統一協会やオウム真理教の事件で、この問題は世間でもよく知られるようになりました。これは、私たち誰もが陥る可能性のある事態ですし、現にすでに何かに操られているのかもしれません。
 
しかし見渡せばこうしたことはいくらも見出せます。何かに取り憑かれたように、喚き、急かし、怒るSNSの記事。誰かを一刀両断に糾弾する投稿。個人でもそれはなされているし、時に組織がやってもいます。いったい何を求めてそのようなことをするのか、と分からないほどに、おぞましい感情の嵐が吹き荒れていないでしょうか。
 
真理はあなたがたを自由にする。神の言葉を懐いていたとしても、事はそんなに簡単ではありません。キリスト者もかつて、歴史の中で、おぞましい仕打ちを幾多も繰り返しています。国家が残虐なことをすることを正当化するために、教会がいくらでも手を貸しています。私たちのいまの時代、自分はキリスト者としてそんなことはしていない、と言い張るその心が既に、危ないということを、歴史から学ばなければなりません。
 
自分でよく考え、自分で決断した。自分が選択した。いやいや、それがすでに何らかの別の条件によりそう促されていたり、決定されていたりすること、一歩立ち止まって考えてみませんか。また、このようにして、キャスティングボートがなされ、シーソーの一方にどっと民意が動いていくということの危険性を、まずは知ることから始めませんか。知ったところでなかなか止められないものですが、少なくとも、それに加担することは、避けられるかもしれません。自分で意識しないままに、悪に手を染めるということも、世の中にはいくらもあるのです。
 
自分で選択したかのように思い込んでいながら、実は操られている。その可能性を疑うことは、忘れないでいたいものだと思います。いや、この瞬間も、自分はまた、どうであるのか、自信はないのですが。



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