【メッセージ】イエスはキリスト

2020年12月6日

(マタイ1:1-17)

ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。(マタイ1:16)
 
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 
大日本帝国憲法の第1条でした。耳で聞くと分かりませんが、漢字とカタカナで書かれています。平仮名はありません。
 
サイタ サイタ サクラ ガ サイタ
 
小学国語読本など、戦前の教科書もカタカナから始まりました。いまの私たちからすれば読みにくいものです。カタカナの羅列には慣れていないのです。もしかするとロシアの小説がお好きな方であれば、そんなことはないかもしれませんが、ドストエフスキーの小説登場人物一覧を見ると、舌を噛みそうな名前と、それぞれの判別が実に大変で、しかも同一人物が小説内では愛称で呼ばれることもありますので、私などは「誰やったっけ」と呟くこと数多です。
 
聖書を一度読んでみませんか、と言って、新約聖書がいいですよね、などと手渡したところ、とんでもないことが起こります。では、と相手が1頁目を開いたとたん、このカタカナの羅列です。どう見てもカタカナが一番多い。見た瞬間、これは自分の読む本ではない、という気持ちを懐かせるのに十分で、聖書に背を向けさせることになりかねない初めの頁となっています。
 
これは知らない国の人物の、人名索引なのか、とまで考えてくれる人がいたら、まだ良い方なのかもしれません。 
 
と、悲観的なことばかり言ってもいらません。せめて、教会に集う私たちは、このカタカナの洪水に立ち向かわなければなりません。どこが面白いのかと思いがちなこの冒頭ですが、まずは、しばしば指摘される謎、あるいは読むポイントというのを、少しばかり挙げてみることにします。
 
どうして新約聖書の冒頭に、このような味気ない系図が掲げられたのでしょうか。ユダヤにおける歴史の考え方が関係しているのでしょうか。
 
イエス・キリストの系図は、ルカによる福音書にもあります。でもこちらは、イエスから歴史を遡り、アブラハムのほうへ向かいます。さらにそれを突き抜けて、アダム、それから神に至ります。またその人名もこのマタイのものとはいろいろ違います。どうしてでしょう。
 
新約聖書の書簡の中には、系図のことで議論したり文句を言ったりすのは愚かなことだ、というような叙述があります。つまりこの福音書の系図は、ケチをつけられていたということなのでしょうか。
 
このマタイによる系図は、せっかくアブラハムから、父とその子へと脈々とつながってきた血筋が記されているのに、ヨセフまで来たあと、マリアからイエスが生まれたと言っています。マリアはご存じの通り、ヨセフとの間にイエスを孕んだのではありません。系図は遺伝的には切れているように思われるのですが、これでよかったのでしょうか。
 
系図の中に、4人だけ女性の名があります。しかしこれらの女性は、ユダヤの考え方からするととんでもない女性ばかりです。姦淫や娼婦、外国人といった、いわばユダヤの黒歴史です。それがわざわざことさらに挙げられているということについて、どうしてだろうかと考える余地があるだろうと思います。
 
系図は、記されているとおり、14代で三度区切っています。ちょっと区切り方にもケチをつける余地がありますが、主旨は、イスラエルの歴史の中でも重大な事件や人物を示すことだったでしょう。すると14という数字にも何か関心が湧かないでしょうか。
 
その区切りにあるのは、アブラハム・ダビデ・バビロン捕囚・キリストとなります。恐らくマタイにしても、そしてようやく教会として成り立った共同体において、これはきっと意味あるメッセージであったと思われます。マタイによる福音書の読み方を示しているのではないでしょうか。
 
7つほど挙げてみました。これは私の思いつきです。もっといろいろ気にすべきこともあろうかと思います。そしてこうした点に、関心をもたれたならば、ものの本を開くか、インターネット検索をしてみると、何かしら情報が得られることでしょう。尤も、ネットの情報には、嘘偽りも多々ありますから、くれぐれもご用心ください。
 
1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
 
新共同訳は日本語で「メシア」と訳しました。これは大きな変更点であり、物議を醸しました。まずはこの言葉について共通理解をしておきましょう。「メシア」はヘブライ語の表現であり、「油注がれた者」という意味の語ですが、それは後の歴史での「王」の戴冠式のようなものでした。つまり王として認められた者を意味しますが、後に究極の王として現れることを期待された、「救い主」のことを指すようになりました。
 
ヘブライ語「メシア」を、新約聖書が書かれたギリシア語に訳したものを「キリスト」といいます。指している内実はどちらも同じです。しかし問題は、ここにある訳語の違いです。
 
1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
1:17 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
 
16節の「メシア」と17節の「キリスト」は、全く同じ語なのです。それを、最初はヘブライ語に戻し、次はギリシア語の表現のままに訳した。ここに、新共同訳の訳者たちの思い入れがあったということが言えるわけです。また、新しい聖書協会共同訳においても、この区別は保たれていますから、日本聖書協会は、この訳し分けの路線を既定のものとして続ける意思を示したことになるでしょう。
 
「ティーチャー」と呼ばれる田中さん、と挙げながら、直後にこの田中さんのことを「先生」と称して説明しているのですから、どうにも不自然な文脈にならないだろうか、と困惑します。ユダヤ人にとり待ち焦がれていたメシアなのだよ、と伝えようとしているのかもしれませんが、マタイが「メシア」と記していないものをそう訳すのは、ずいぶんと世話焼きな話であるような気がするのですが、きっともっと深い意味をこめているのでしょうね。
 
いずれにしても、ここに「キリスト」という語が新約聖書の中で初めて登場します。もちろん、第1節から「イエス・キリストの系図」という言葉が出ていますから、この系図全体が「キリスト」を示していることになるのですが、この「イエス・キリスト」という語、いま一度確認しておきたいことがあります。
 
それは、これが「イエスはキリストである」という告白になっている、ということです。日本人ならば、どうしても「イエス・キリスト」を姓と名であるかのように感じてしまいます。しかし個人の名は「イエス」しかありません。「イエス」というのはいわばありふれた名でしたから、「ナザレのイエス」と、土地を付けて区別するか、「ヨセフの子イエス」のように父と並べて呼ぶようなことを当時はしました。日本でも「青田村の弥吉さん」などと呼んだと思われますが、そんなものだろうということにしておきます。
 
「キリスト」は、先に申し上げたように「救い主」のような意味合いでここでは使われている語です。これではピンと来ませんが、たとえば「大統領」に喩えてみましょう。2020年のアメリカ大統領選挙は混乱し、投票後もトランプ大統領は、バイデン候補の得票について納得しない様子を示し続けていました。公的には投票の結果「バイデン大統領」が確定したことになっているのですが、トランプ氏からすると「バイデン大統領」と呼ぶわけにはゆかない、ということです。「バイデンは大統領である」と認めることができないからです。
 
つまり、「イエス・キリスト」は、イエスがキリストであると認めている呼び方になるわけであって、イエスは救い主ではない、と考える人にとっては、決してそのように呼ぶことはできないということになります。現にいまのユダヤ人にとって、救い主メシアはイエスだとは考えませんし、これから先に出現すると期待していることになりますから、イエスがメシアである、という意味の「イエス・キリスト」という言葉は決して使わないことになるはずてず。まるで姓名のように気軽に「イエス・キリスト」と口にする日本社会での捉え方は、信仰告白なしに、イエスをキリストだと認めているように聞こえる言い方をしていることになります。
 
1:16 このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
 
「呼ばれる」というのが受動態であるのか中動態であるのか確定できないところではありますが、ともかくイエスはキリスト、ないしメシアと呼ばれる存在であることがこの系図の結論でした。受動態であることにしておきましょう。キリストと「呼ばれる」のでした。では、その主体は誰でしょう。誰がイエスをキリストと「呼ぶ」のでしょうか。
 
しばしば聖書では、主語のない受動態は、隠れた「神」が想定されていると言われます。日本語でも大体判断できますから、試してみる価値があると思うのですが、意味上の主語が記されていない受動態は、実は「神」がそのようにする主体である、という暗黙の理解がなされていたことが多く、また、そのように読むと言おうとしていることが理解できる、という場合が多いとされています。「神的受動態」などと言う人もいます。
 
「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」(マタイ17:22)のように、自分が十字架の予告をするような言葉の中にも「引き渡される」という受動態がありますが、一体誰が「引き渡す」のでしょうか。そこに隠れた神の手を読者に感じさせる、というのが聖書の記し方のひとつだと言われています。これは、神の名をみだりに称えてはならない、という十戒の規定を踏まえているのかもしれません。
 
ああ、でもいまの難しそうな話、忘れてください。無視、無視。聖書の表現にもう一度注目しましょう。悪いけど、メシアというのは原語のキリストに戻させてもらいますよ。キリストと呼ばれるイエス。誰かが、イエスをキリストと呼ぶわけです。これは神でしょうか。そうかもしれません。でもそれで終わるのでしょうか。誰か人物でしょうか。世の中が、でしょうか。はたまた神学者でしょうか。ここが、今日一番注目してみたい点です。
 
イエスをキリストと呼ぶ。誰が? 改めて呼びかけてみますよ。誰がイエスをキリストと呼ぶのですか? ――ほら、そこの、きょろきょろ周りを見回している人、どうですか。見つかりましたか、その誰とかが。教会に長いこと来ていそうなあの男性ですか。後ろでにこにこ笑っている優しそうな女性でしょうか。あの人だったら、きっと信仰があるんだろうなあ、と思えるような人の顔を探していたんでしょうか。
 
あなたです。あなたが、イエスをキリストと呼ぶのです。
 
いやいやいやいや。首を横に振るかもしれません。もしあなたが、偶々今日初めて教会に来たとしても、そして神を信じているなど言えるものではないと考えていたとしても、あなたはこれまで、「イエス・キリスト」と口にしたことが、きっとあるだろうと思います。その呼び名を知っていたというのが何よりの証拠です。すでにあなたは、イエスをキリストだと呼んでいたのです。
 
いや、偶然だし、知らなかったんだよ、と弁解するかもしれません。そう、知らなくて、そう口にしていたのだと思います。しかし、知らなくても、イエスはキリストである、という告白をしていました。信仰の言葉を使っていました。だから信仰がある、などと申し上げるつもりはありません。また、口にしちゃったんだから、もうあなたは教会に通わなければなりませんよ、などと下手な詐欺師のような言い方もするつもりはありません。
 
このイエスという方は、あなたが知らないときに、聖書に書かれてあるような生涯を送っていました。この地上に実際にいたということについては、かなり疑い深い人も、否定することができないでいます。
 
しかし、阿弥陀仏が歴史の中の何年にどこで生まれて何をした、というような歴史は、誰も認めることができません。仏陀あるいは釈迦については、歴史的に実在したことは確実でしょう。すばらしい教えを口にし、弟子たちに受け継がれました。しかし、口で説明したその尊い教えも、いわば理論ではあるけれどもそれだけであって、釈迦自身は入滅と言おうが、とにかく亡くなりました。その骨が遺り、仏舎利などと言われています。
 
イエスの骨は、どこを探してもありません。復活したからです。復活の後、やがてその姿は私たちからは見えないようになっているのですが、ともかくイエスは実在したのに、亡くなってはいません。空理空論ではなく、身を以て示した教えを私たちに遺しました。
 
しかも、一度死んだことも確実です。十字架という、世にも忌まわしい、最高に残酷な死に方をさせる死刑台の上で、この上なく惨めな姿を晒して、死んだというのです。
 
そんなことは話には聞いているよ、けれども私とそれがどう関係があるのか、私はその経緯について何も知らないのだ。そんなふうに思う人もいるでしょう。いえ、教会に来ていなかった多くの人が、そのような感覚でいるのだろうと思います。そう、あなたも、イエスが十字架で死んで蘇ったことを、聞いてはいたのです。ちょうど、「イエス・キリスト」という名前を口にしたことがあった、知らないうちに、イエスがキリストである、と言っちゃったことがあった、というのと同様に、十字架や復活のことは、ある程度聞いたことがあり、知っていたのです。しかし、この十字架の死が、あなた自身と関係があるということについては、考えたことがなかった。まさか二千年前の出来事がいまの自分と関係があるのかい、というほど、無縁のものとしか思っていなかったのだろうと主生ます。それは、深い意味でイエスがキリストである、と呼んでいなかったこととパラレルです。
 
キリストを信じている、という人は、キリストが実際にいることを信じている、というわけではありません。この十字架の死とそこから蘇ったこと、それが、イエスがキリストであるということと関係がある、それを信じているのです。それが、紛れもない、この自分の心の中で結びついたとき、信じたと言えるようになるのです。
 
けれども、それは自然に結びつくというものではないとされています。この自分の心の中で結びつくというためには、少しばかり条件が必要となります。自分の無力さや、何かしら悪なることを自覚することです。自分の中には、岩のように確かなものはないのだ、と知ることです。それでも強がって、落ち込んでもまた自分を信じて頑張るぞ、と言う元気のある人がいるかもしれません。でもよくよく見つめてみれば、自分のダメさ加減が見えてくるでしょうし、自分の中の間違いを痛感し、どこか不安で怯えているような心に気づくことがあるでしょう。
 
信じるために、何か立派なことをする必要もないし、立派な人になる必要もない。お金を差し出す必要もないし、修行のような条件が伴うわけでもありません。ただ自分が神ではないということを認め、福音書や聖書の中に書いてあるイエスと向き合ってみませんか。何か知り尽くして、納得してから信じたい、そういう人もいます。それもアリだろうとは思います。けれども、知り尽くす必要はありません。信仰は行動です。
 
口に出してみたいのです。「イエス・キリスト」と。知らない間に「イエス・キリスト」と言っていたときには、その意味を知りませんでした。けれども、こうして意味を知ってからは、同じ言葉を言うことに、ためらいが出たのではないでしょうか。「イエス・キリスト」と言ってしまったら、イエスがキリストであるという意味だから、信仰を告白したことになりかねない、そう思って躊躇した人がいるのではないでしょうか。それもいいのです。躊躇するということは、イエスがキリストであるという言葉に心が引っかかったからです。今までのように、何も知らない故にいくらでも言えていたことが、意味を知ってしまったら、口にしてよいのだろうか、などと思うようになるでしょう。それでよいと思います。
 
そんな意味深さを感じた上で、「イエス・キリスト」即ち「イエスはキリストである」と言うことができたなら、私は拍手を贈り、祝福しましょう。このクリスマスを迎える期間の中で、イエス・キリストの系図という、味気ないカタカナの羅列を眺めたこの礼拝の中で、クリスマスを本当の意味で迎えるための、良いスタートができたことになると強く信じるからです。クリスマスのスタートに相応しいひとときを、感謝します。



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