コロナ禍の中のクリスマス

2020年12月2日

12月。アドヴェント・カレンダーの窓が開かれ始めました。子どもたちは、一日ひとつの窓を開け、そこに隠れたプレゼントを愉しみにします。わが家では、チョコレートの入った商品を、毎日のおやつとしていました。さすがに成長すると、興味を示さなくなりましたが、小さなころは、3人ともそれが12月の日常でした。
 
教会暦としてのアドヴェントは、12月25日に近い直近のクリスマス礼拝から四週間前を以て始まります。カレンダーとは別物ですが、これを混同している人もいるようです。
 
2020年のクリスマスがどうなるか、予断を許さない状況になっています。欧米のこの時期は、(信仰者の立場からはあまり推奨されませんが)クリスマス商戦に活気が出て、賑やかな笑顔と人々の交流があるはずでした。また、クリスマスは家族で共に過ごすということで、ふだん離れている人も、ひとつところで和やかなひとときを迎えるはずでした。しかし今年は、ひっそりとした街と、交わりのない人々の社会が当たり前とされています。お店も大変ですが、精神的にも皆さんは辛いだろうと思います。
 
日本でも再びリモート礼拝が検討されるようになってきました。韓国での感染拡大に教会での集会が関わったことで非難を浴びたことがありましたが、確かにそれも気になるところです。見極めの難しい昨今です。
 
2020年はイースターも、共に集うことができないところが大多数だったかと思います。クリスマスを迎えるこの時期、あの時よりはいくらかよいような気がしていますが、感染者と重症者についてのデータは、実はあの時よりも多く深刻だとも言えます。違うのは、僅かながら経験をして、少しばかり様相が判断しやすくなったこと。春の頃には、何がどうなるのか、見当もつきませんでした。
 
クリスマスに人を招くということも難しい状態です。しょせんそのもイベントだよと言い切る人もいるでしょう。根本には信仰というものがあるのですが、確かにどこか派手な催しとなっていた観もありましょう。
 
宗教的な営みとして、ムスリムのほうでも何かと大変なのでしょうが、なかなか情報が入ってきません。日本のムスリム協会では、金曜の礼拝はやはり集まらないようにしている、という話もあります。仏教寺院も苦しいものがあると聞きますが、これももう少しオープンに情報を共有し、互いに知恵を求めることがあってよいのではないかとも思います。
 
かつてのペストなどの、感染症や疫病といったものに見舞われた時代は、確かな予防策や原因の究明を欠いていたと考えるべきでしょう。ウイルスという実態も分からなかったわけですから、とにかく恐怖で気味が悪かったことだろうと思います。こうした感染症の歴史について、ようやく私たちも認識を新たにし、真剣に知ろうとすることを始めました。そして、それが歴史を大きく変えてきたことにも気を払う必要が出て来ました。
 
人間の移動が、どうも世界中へ拡散する要因となったようだ、と見る向きもあります。悪辣な労働条件が蔓延させる一因となっていた、との指摘もあります。いまはリモートワークも可能になり、さすがにウイルスも回線を使って感染はせず、感染するのはコンピュータ・ウイルスだけとなっています。しかし、このネットワークを支えるのは電力であり、石油を初めとした化石燃料に頼る中で、持続可能な社会との関係がどうなるのか、懸念されるものがあるのも事実です。何にしても、手放しで喜ぶ方法はありません。
 
言えるのは、私たちが大きく変わらなければならないだろうということ。「元に戻る」ことを求めたり、安易に「ポスト・コロナ」を口にしたりする声がありますが、全く同じに戻ることができるのかどうか、それは期待しないほうがよいのではないかと思われます。デマが流れ、安直な思いこみで他者を断罪し、ひとを見下すような声が、ネット上に散在しています。他人事ではありません。私を含め、良かれと思って語ることが、被害甚大な情報となって他人や社会に襲いかかるような現実があるのであり、誰ひとりとして例外はないのです。
 
キリスト教会は、近年、なんらかの意味で変わらなければならないと自覚されていました。ならば、これはひとつの機会です。ひとつのカイロスです。クリスマスはそもそも集えるのか、キャロリングはどうか。単純に中止なのか。その意義を見直すのか。そもそもクリスマスとは何か。礼拝とは何か。形式が信仰なのか。そこにいるそのひとの心を教会という共同体の一人ひとりが、大切にしているのかどうか。
 
私も、ある本を通じて、ずいぶんと自分勝手に特定の立場のひとを傷つけていたことを痛感させられました。そんな気づきが、きっと必要なのでしょう。私も、さらに。そして、教会を形成する、一人ひとりが。



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