【メッセージ】祈りのロープ

2020年11月29日

(マタイ6:9-13)

わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。(マタイ6:12)
 
これは、主の祈りと呼ばれる、伝統的な祈りの言葉です。とりあえず、と言っては不謹慎でしょうか、この言葉を覚えて祈れば、立派な祈りとなるというので、礼拝毎にキリスト者はこれを称えて祈ります。声を合わせられるように、しばしば古い文語が使われています。古語となると、意味が分からない世代もあるということになるのでしょう。
 
主の祈り。考えてみれば、変なネーミングです。主イエスが教えた祈り、ということなのでしょうか。とにかく教会で毎週この言葉で祈るなどということがあると、いったい世界中でどのくらい祈られているのか、計り知れません。また、この祈りを称えるばかりでなく、その一言一言に思いを巡らせ、しばし空想めいた世界に浸る人もいます。
 
一日に何十億回と世界中で口にされていることでしょう。どれほど多くの黙想がそこに示されているか、想像を超えるものがあります。日本人が海外で宣教することがありますが、そのある方が、主の祈りに従って想像を巡らし、一つひとつの言葉を吟味していると、一時間すぐに経ってしまうと聖会で話していたのを思い起こしました。
 
主の祈りの一節だけでも、一時間では語れない内容があるはずですのに、今日は主の祈り全体を扱うことになっています。これは無理です。その道の本を読んだり、ここからの説教に馴染んでいる方は、よくご存じでしょうけれども、ここから何か話すにしても、話題は事欠くことがありません。
 
ルカにも同じような主の祈りがありますが、どう違うのか。それはどうしてか。
 
それから、教会の礼拝のプログラムの中で唱える主の祈りは、文語体である点が違うのですが、聖書に掲載されている祈りに、最後のほうに少し付け加えられている言葉があります。それは何故か、も教会史に関わる大きなテーマになりうるでしょう。
 
中央のところに「必要な糧」とありますが、教会で祈る主の祈りではここは「日用の糧」と訳されています。パンのことですが、その修飾語は、聖書では主の祈りにしかないため、正確な意味がこれでよいかについては実は解決していないのだといいます。
 
「悪い者から」というのは、教会の祈りでは「悪より」で、少し印象が違いますね。
 
しかし、何といってもこの主の祈りで一番引っかかるのは、「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(6:12)の部分ではないでしょうか。主の祈りをただ唱えるのは簡単ですが、意味を考えながらこの言葉を口にすると、この箇所だけはどうしても、一瞬息が止まるような気がしません。だって私、いまあの人を許してなどいませんから。許せるように、と祈っているのではないのです。すでに許しました、と言っているから、どうにも居心地が悪いのです。
 
ほかにも一つひとつの言葉について、いくらでも説教できるような深みがあるのですが、今日はこうした知識について検討しようとするのではありません。むしろ、こんな角度から迫ってみましょう。
 
そもそも「祈り」とは何なのでしょうか。
 
祈願という言葉があるように、祈ることの基本的な部分が「願うこと」のように一般的には思われているかもしれません。「神さま。〜してください」と祈ることが悪かろうはずがありません。
 
この聖書箇所の直前には、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」(6:5)、「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない」(6:7)のように、「〜してはならない」の形で祈りについての教えが並んでいました。けれども最初の場合はその直後に、隠れたところにおられる神に祈れ、と言い、後者の場合は神は願う前から必要なものは知られている、と慰めています。しかし、ここには、「祈りとは何か」という問いかけについての回答はないように見えます。私たちは、今日問うてみたいと思います。祈りとは、何でしょうか。
 
恐らく、聖書にそれは答えられていないのだろうと思います。それは、聖書が、「神は存在するか」という問いを出さないのと同様です。あたりまえすぎて、大前提なのだから、神は存在するか、という問いかけを聖書はすることはありません。そのように、その神がいるのならば祈ることはあたりまえすぎて、祈りとは何かということについて、とやかく問題にするようなことがない、そのように感じます。
 
日本語で考えることは、聖書の解釈としては相応しくないかもしれませんが、ものの本(『日本語をみがく小辞典』)によると、「願う」という語は、「ねぐ」+「ふ」から成り立っており、この「ねぐ」が「祈」のことだといいます。神仏に祈る、神仏の心を慰め和らげることなのだそうです。「ねぎらう」とも言いますから。この「ふ」は継続を表す助動詞だということで、この行為を続けることに違いない、としています。神仏に、どうか配慮を頼むというふうなことだろうと説明していますが、さて、自分のためにそれを求めるということもある一方、私たちは、他人のために求めることがあることも知っています。
 
誰かほかのひとのために、祈る。そう、それを私たちは「とりなし」と呼んでいます。「とりなす」というのは仲介をするという意味です。神とその人との間をとりもつ、ということなのでしょう。この「とりなしの祈り」は、自分の目的のために祈ることよりも、美しく見えるような気がします。祈りの重要な要素であるはずですが、今日はこの「とりなしの祈り」をも特に区別することなく、同じ「祈り」として捉える方向で探っていきたいと思います。しかも、願うことよりもさらに基礎的なところに、祈りの本質があるのではないか、というところを目指してみたいと考えています。
 
キリスト教に関する悩み相談の場で、「人々の前で祈れない」というものを時折聞きます。教会では礼拝のプログラムの中で「公祷」などと呼ばれる、皆を代表して祈りを捧げるというものがあります。教会によっては、事前の依頼もなく、その場でいきなり当てるということもあります。その教会ではそうした訓練ができていて、日常的な営みであるのでしょうが、慣れない人は、そんなに急に指名されてもできません、ということがあるでしょう。礼拝司会担当の方も、その場で祈る人もいれば、予め家で原稿を考えて読み上げて祈る人もいます。何が良いとか悪いとかいうつもりはありませんが、その悩みの場合には、恐らく原稿タイプではないのではないかと思われます。
 
その悩みに対する答えはいまここで期待しないでください。その「公祷」は間違いなく、声に出す祈りです。しかしそれに対して、声に出さない祈りというものもあるかと思います。あるいは、ぶつぶつ、と呟くという祈りでしょうか。祈りを、他人に魅せるためにこれ見よがしにするというのは、イエスが山上の説教でずいぶんと叱責していました。しかし、神に向けてぶつかっていくような祈りというのはダイナミックでよいかもしれません。
 
ユダヤでの公の祈りは、天を仰ぎ、手を挙げて堂々とした姿を示すそうです。福岡に昔、恋の浦というロマンチックな場所に屋外の公園があり、彫刻作品が公園内に置かれていました。その中で、確か「祈り」という題ではなかったかと思いますが(間違っていたらすみません)、修道士のような恰好の男が、天に向けて両手を上げて祈っている作品がありました。これを見上げた次男、当時は2歳か3歳くらいではなかったでしょうか、こんなことを口にしました。
 
「このひと、『だっこして』っていってる」
 
祈りは神に向けて、「だっこして」と願うようなもの。自分の全身を預けるようなもの。親バカというわけではありませんが、いたく教えられたものでした。
 
元に戻りますが、祈りは堂々としたものが清々しいように見えますが、全くひとに見せるためにするのものではありませんから、それが優れているというわけではありません。口に出さない祈りというのもあるでしょうし、小声であってもよいはずです。サムエルの母ハンナは、子どもが授からないのを気にして苦しい立場にありましたが、サムエル記上でハンナが祈っているシーンが描かれています。
 
1:12 ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。
1:13 ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、
1:14 彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」
1:15 ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。
1:16 はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」
 
やはり当時から、祈りというものは、声に出すものであった、という理解があったということなのでしょう。
 
滔々と祈る人が、ある教会にいました。そこでは礼拝の中の祈りは司会者が使命せず、神から示された各自が順に二三人祈るということになっていたのですが、その人は毎回のように率先して立ち上がり、祈り始めるのです。それはよいのですが、実に長い。数分間、淀みなく祈りの声を出し続けます。家でもそうなのでしょう。立派なことですが、どうも礼拝出席者は、その長さにだいぶくたびれていたようながします。
 
祈りの調子も内容も、申し分のない祈りを何分間も続けることのできる人でしたが、その後事件が起こります。自分の理想の牧師像を押し付けることにこだわって、ある問題に関する考え方が違うというだけなのに、牧師に対して激しい非難を浴びせ、ついには厳しい処罰を強い調子で求めたため、教会員もその迫力に屈してか、過半数の信徒がそちらの側に就きました。そして牧師を追い出してしまったのです。
 
祈りの言葉が立派で長く長く祈り続けることができるこらといって、それが聖書に生きるということとはまた必ずしも一致しないものだということを、私は実感しました。
 
確かに、祈りが立派だなぁと思う人がいます。それを聞くと、自分が代表して祈るだなんて、と気が引ける気持ちも分かります。人前で祈れないんです、という先ほどの悩み相談については、すぐれた対処法があるのでしょうか。言葉巧みに祈るのを聞くと、自分の祈りがなんて子どもっぽいんだろう、とがっかりする気持ちにもなるでしょう。
 
但し、語彙の豊富さ云々は、その人の置かれた環境や、ふだんからの話し方などにも関係しますから、語彙の多少が決定的な問題となるわけではなさそうです。また、お見事とも言うべき語彙や口調の祈りがあったかどうかに拘わらず、ひとの祈りを聞いていて、心にぐっと突き刺さってくるような気持ちになることがあります。感情の問題というでもなしに、「霊で祈る」という言葉が頭に浮かびます。立派な言葉で祈るからそう感じる、というようなものでもないのです。
 
「4分33秒」、このタイトルに思い当たる方はいますか。有名なピアノ曲です。ジョン・ケージが1952年につくりました。ピアニストがピアノに向かって座り、4分33秒の間、じっとしている。ピアノの音ではない、別の音をその間聴くことになります。ですから、必ずしもそれは沈黙ではない、という意義があるようです。まるで「0」もまた数字なのだ、という感じなのですが、サムエルの母となったハンナの祈りが、言葉の音として他人に聞こえることがなかったのも、それはそれでよいというふうにも思えます。声になっているかどうかに拘わらず、神に振り絞って訴えるその魂の思いは、霊により神に届くのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(6:8)とある通りです。
 
声に出そうが出すまいが、私たちは祈るということで、神に自分の願いを届けるのが普通です。ハンナもそうでした。先ほど挙げた「とりなし」も、ある意味で自分の願いを届けていると言えます。「祈願」というこの要素は、祈りの大切な部分であろうと思われます。でも、それだけでしょうか。それだと、初詣に手を合わせるのと同じにも見えます。苦しいときの神頼み、で済んでしまうような気もします。何か、別の要素があるはずです。もっと本質的な、祈りの核心に迫りたいと思います。
 
そんなことを考えているとき、ステキな本に出会いました。『手の倫理』(伊藤亜紗)という新しい本ですが、私はすっかり惹きこまれてしまいました。美学を専門とする著者ですが、目の見えない人が世界をどう見ているか、など、人間の感覚について、非常に具体的で実際的な調査と考察を重ねている方です。道徳と倫理の関係や、多様性の安易な翼賛への警告など、私にとり拍手したい指摘が多々ありましたが、完全に私の知らないことで驚かされたことがありました。視覚障害者のランナーの話です。
 
視覚障害者がマラソンに挑むことができるようになりました。さすがにコースを見えないままに走るというのは危険なので、伴走者が必要となります。どんなふうに二人は走るのでしょうか。ただ横を走るだけではありませんし、肩を組むようなこともできるはずがありません。ただ歩くならば、晴眼者が相手の腕をがっちりと抱きとめるようにし、盲者のほうは相手の肩に手を置くなどしますが、走るときにそれはできません。
 
ロープを使うのだそうです。さほど長くないロープや好みの紐やバンドでよいのですが、形を輪にして、その輪の両端を二人で握り、走るのです。すると、相手の動きが、まさに手に取るように分かるのだといいます。相手の動きはもちろんのこと、面白いことに、相手の考えていることも伝わってくるのだそうです。これから上り坂だ、と晴眼者が思ったら、その心の緊張が、ロープを通じて相手に伝わるというのです。
 
私は晴眼ですから、こちらの意志を相手に伝える側に、この場面ではいることになるわけですが、ここでふと気づかされました。人間というのは、この先どうなるか分からないし、自分の立ち位置すら実はよく見えていないもの。対して、神は摂理をお持ちで、すべてをご存じです。この関係は、私が視覚障害者の側にいて、これからどう走って行けばよいのか分からず、神は先を見通しており、私を導いてくれる伴走者に喩えると、イメージが豊かに湧いてくるような気がしたのです。
 
神はつながったロープを通じて、私に、さあいまからこちらに曲がるよ、危険があるから注意せよ、などの情報を伝えてきます。私は、最初はぎこちないかもしれませんが、伴走経験が多くなると、その意志をよく知ることができるようになります。そうして、神と共に進むコースを安心して行くことができます。
 
神はそのように私を導いてくださる方です。伴って導いてくださる方です。しかし問題は、このロープです。ロープがないと、それは伝わりません。私もこのロープを握っていなければならず、手放したらもう行く先をまさに見失います。神とつながるこのロープ、そこに祈りというものを理解することができないか、そう考えるのです。
 
祈りがこちらの願いを届ける、それも確かにあります。しかし、このローブの喩えは、より私にはしっくりくるように思えました。祈りというロープが、神との間に渡されていることが重要です。神との関係が結ばれているということです。神とつながっている意識です。信仰とはそういうことではないでしょうか。神の意志や動きを感じとり、祈りの中でそれを知ると、こちらに行くべきだと分かります。よく見えないくせに、自分の思いこみや勘だけでコースを分かったふうに思い、コースを決めてしまうことは、実は危険極まりないことであるはずです。ロープという祈りによって、私は、神の「みこころ」を感じとることができるように、備えられているのではないでしょうか。
 
視覚障害者の伴走ロープ、それが祈りだ、と理解しようとしました。悪くない説明ではないかと思いました。でも、何かもうひとつ足らないような気がします。伴走ロープという祈りを通じて、神と私がつながる。神と私とが、祈りというロープでつながっている、それだけのものなら、これもやはり他の宗教とそんなに違わないことになりはしないか。それでいいのか。
 
ロープを輪にするのは、互いに握りやすくするため、離れにくいようにするためだと思われます。走るときには、その輪は丸い姿を呈するのではなく、一本の棒のようになります。私はそこに、十字架の杭を重ねて見る必要があるように感じました。ただの祈りがロープなのではない、そのロープは杭となって、神が用意してくださった、イエスの十字架なのではなかったか。そしてそこからの復活があるから、走ることができるのではないか。私たちと神とをつなぐものは、イエスの十字架しかないのではないか。これは他の宗教や素朴な信仰心には決定的に、ないと言えるものに違いありません。
 
イエスは十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と言ったとルカは伝えています。マタイのこの「主の祈り」の直後には、このようなことをイエスが言ったと記されています。
 
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。
 
ひとの過ちを赦すことが、「主の祈り」の後押しをしていました。「主の祈り」の説明として、この赦しを指摘して終わらなければならなかったのです。「主の祈り」の中央にも「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように」(6:12)とありました。私たちはこれを口にすることをためらいがちだと思いました。しかし、聖書ではしばしば、述べているまとまりの中央に、最も大切な事柄が置かれており、ここでもそうなっているとすれば、正確には「糧」のほうが真ん中ではあるのですが、この赦しこそ、神の望むみこころであると捉えて間違いないように思えます。
 
わたしたちの負い目、あるいは負債とも言えましょうが、これを赦してください、と願うその前に、わたしたちがすでに赦したということを挙げる。これが生身の人間には恥ずかしい。そんなに自分は赦してなどいないのではないか、と誰もが口に出すのを憚るような言葉なのですが、それでも、「赦しました」と言い切ってしまう、そこに、神が救うことへの信頼を表しましょう。これあってこその「主の祈り」です。
 
私たちが自分はどうのこうのと言う前に、神のほうが、イエス・キリストの血によって、私たちをすでに赦していた。神の側が、もう「赦した」と宣告したのです。これを信じなくて、何をどう信じるというのでしょう。ですから、これを信じるのであれば、言い切りましょう。「赦しました」と。
 
十字架と赦し、そのロープに、神の思い、腸がちぎれそうなほどの痛みが、響いてきます。私たちはそれを心に、あるいは魂に感じとることができるように備えられています。分かりました、神よ、その通りです。こちらからも、それを伝えましょう。祈りというロープをしっかり握り締め、そこから手を離すまいとするならば、きっと伝わります。いえ、すでに私たちが握り締めるより先に、神のほうからぎゅうぎゅうに縛り付けて、私たちを離すことがないのだ、とまで捉えたいと思います。
 
ロープに、今日も微妙な感覚が伝わってきます。そこから神の意志を感じ取りたい。私の思いを伝えたい。そうして、共に走って行く。私が疲れ切ってもう走れなくなったとしても、神は私を支え、抱えるようにして、伴ってくださることでしょう。イエス・キリストの十字架を通じて、この関係が成り立っていること、それを信頼して、今日もまた、いつでも、祈りましょう。主の祈りを、そういう思いで、実現することを、求めましょう。



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