迷っていい

2020年11月28日

伊藤亜紗氏の『手の倫理』にふれたこの機会に、この本がもうひとつ強く示している提案を、私なりに理解し、展開してみたいと思います。
 
それは、「道徳」と「倫理」との違いです。
 
そのユニークな指摘をざっくりと示すと、「道徳」は原則(日本語のニュアンスと異なり、これは常に成り立つ規則という意味であって例外を認めない)を立てることを目的とし、普遍的な原理を追究します。他方、「倫理」は現場で判断するときの基準やその判断に関わる、というような理解をしてよいかと思います。そこで道徳はしばしば「〜すべき」と結びます。
 
厄介な言葉です。ひとは、他人の振るまいや発言については、いとも簡単な「そうすべきではない」「このようにすべきだ」と、隠れて文句を言います。試しに、SNSを見るとき、この「べき」を意識してみるとよいかと思います。特定の人物は、しきりに「べき」「べき」と書いています。140字の中に三度も四度もこれを並べる人もいます。
 
しかしその人は、自分はその基準に従っていないどころか、自分のしていることさえ分からないでひたすら他人を非難している、そういうことがしばしばあって、「自分はどうか」という視点を全く欠いている、だからこそ「べき」「べき」と平気で吐けるわけです。
 
倫理のほうは、自分がその場にいたらどうだろうか、ということから考えてみる営みだ、というようにかの本は呼んでいます。
 
聖書の言葉はどうだろうか、と私は考えてみました。ファリサイ派や律法学者の面々は、恐らく「道徳」を想定していたのではないかと察します。それに対してイエスは、「倫理」の捉え方を重視したと理解してみたのです。
 
迷わず原則に従う。イエスは一見、それを求めたかのように見える場合があります。しかし、本当に迷わず従うのであれば、ある原則、なんらかの決定に、ただ従うしか道はありません。これは、自由を否定する方向に働きますが、ある意味で楽ではあります。悩まないで済むわけです。すべての結果は、自分に責任があるのではなく、その原則や判断した人のほうにあることになりますから、ある種の気楽さが伴います。カルト宗教の、信じられないような命令に平気で従う人がいるのも、この背景があることで少し説明ができます。
 
そして、その原則だけしか認めないという立場にあることになりますから、それに従わない他人を、即刻悪だと判定することになります。あるいは、気の毒な人々であるとか、罪人であるとか、滅びる人々だとか、簡単に決めつけてしまうことになります。
 
しかし、イエスの言葉を目の前にしても、たいていの場合私たちは、迷います。どうしよう。どうしたらいいんだろう。そう言われても、できない。けれど神はそのように言う。ああ……と、迷います。これを時に、「不信仰ですぞ」と戒める空気が、昔あったように思いますが、さて、この決めつけこそ、「道徳」の判断にほかなりません。
 
イエスが自分に向けてこの言葉を発している。この意識があるだけで、実はそこに「信頼」があるはずです。通例、この意識さえ、ひとは持てません。聖霊が働きかけて、などと説明してもよいのですが、イエスの言葉が自分のためである、と思うこと自体、神の前にいることだし、神の言葉を信頼していること、つまりは信仰の領域にいることにほかならず、そこに「不信仰」呼ばわりされるものは何もないのです。
 
迷っていい。迷うのがあたりまえ。
 
どうぞこの現実の場面で、イエスの言葉をどう受け止め、どう活かしていけばいいのか、悩んでください。祈りのうちに、聖書の中に、光を見出そうという心をもてばよいのです。あとは神が請け負ってくださいます。
 
飼い主のいない羊たちのようにさまよっている民を、イエスは憐れまれたことを私たちは知っています。もちろん、それは動物のことを指しているのではなくて、よいユダヤの指導者がいないために人々がどうしてよいか分からない様を表しています。イエスはその時に、良い羊飼いとして人々を導く存在だということを、聖書は教えてくれています。けれども、良い羊飼いがいるから何も考えずにただ従うべきだ、という「道徳」を私たちが掲げる必要はないと思われます。従えません、あるいは従ってよいのだろうか、とためらう場合も、きっとあるでしょう。現に、あるはずです。
 
イエスを見上げて、イエスに祈るとき、イエスはあなたのそばにいます。迷って、迷って、その末に選んだ道に、イエスは伴ってくださいます。そのように信じて、今日もまた、私たちは迷い続けています。ただその行く先が、間違いのないところであることを喜んでいたいのです。
 
ただ、気をつけることがあります。聖書、特に新約聖書の翻訳において、「迷う」という語は、その殆どが、道を外れて神から離れている意味に使われています。正しい信仰から外れるという意味で使われていますので、ここでは文字通りにそれを推奨しているという意味ではありません。しかし聖書のその訳語の様子からすれば、「迷ってはならない」が一段と強くなってしまいます。従って、私はここで、聖書の訳語に全面的に刃向かっていることになります。神の道から迷い出ることを完全に悪だとする訳語に対して、あなたが生きているその現場において、迷うのは当然あることとして、そこからイエスを見上げましょう、というのが、私のささやかな反抗なのでありました。



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