「多様性」の危険性

2020年11月26日

以前も、目の見えない人の感覚についての新書で大いに教えられたことがありました。美学が専門といいますが、最近その文章を見て、その方の新しい本を読みたくなりました。伊藤亜紗氏の『手の倫理』。
 
この本自体は、「さわる」ことと「ふれる」こととの差異に注目して様々な角度から豊富な具体例と共に考察していくものでしたが、その最初のほうで、「多様性」についての警告がありました。私にとりこれは当を得たりという思いでうれしく読めるものでした。
 
近年、「多様性」という語が、無条件で善いもののように扱われている観があるように見えます。しかし、本来絶対的なものでない事柄が、絶対的なもののような顔をしていくとき、すでに「多様性にけちをつける者は排除する」という矛盾さえ生じていることについては、私も以前指摘しました。
 
この本では、また違った角度ですが、多様性を理由にすることで、他人に不干渉であることを是としているのではないか、と問いかけます。これは現実的には分断を導いており、分断を肯定していることになる、と指摘するのです。それはイコールではないにしても、距離がほんの一歩なのだ、と。
 
他人のことに口出しをしないという道徳が決定的なものとして従う原則になっていくとき、それは社会を形成しようとする思考を停止させ、また「どれほど意見が異なっていようとも、なお理を尽くして、お互いを尊重しつつ、なんとかして強調していけるよう道を探らねばならないのに、この決まり文句によって、そこから目を逸らしてしまうのだ」という、ある人の言葉が引用されていました。
 
そしてこの「多様性」という言葉は、「しばしばラベリングにつながります」と本書で著者は強調します。障害者のことを例を挙げ、「個人が一般化された障害者のカテゴリーに組み込まれていく」危険を指摘するのです。
 
テレビの大々的なチャリティー番組における、障害者を使った画、嫌な言葉ですが「感動ポルノ」になっていると呼ばれるようになった情況を思い起こせば、この指摘は理解しやすいでしょう。そういう危険性のせいか、最近よく見かける記事は、障害者の実生活や性に対する実態、またお笑いなどの分野への試みです。あたりまえと言えばあたりまえなのですが、どんな障害があろうと一人の人間であり、生活に不便を抱えてはいたとしても(それは健常者がつくった社会である)、思うことが私たちと全く違うような像で決めつける必要はないはずです。
 
そういうラベルを貼られたタイプの人がいろいろいるというような意味での多様性ではなく、むしろ一人の人の中にこそ、多様性があるのではないか。「目の前にいるこの人には、必ず自分には見えていない側面がある」という前提で人と接する必要を、著者は提言します。いつでも「思っていたのと違うかもしれない」可能性を確保しておくことが重要だと考えているというのです。
 
「多様性」を看板に日常寛容であることをアピールしている人が、自分の思うとおりにならない相手を断罪し、束縛するような姿を、私は幾度となく見てきました。「多様性」という免罪符が、実は壁をつくり、自己本位の世界観を形成しているのではないかと感じていました。ひとは、いくら「多様性」と唱えていようと、その本性のところが変わらない限り、ひとたび権力をもつと、それを利用して自分の思い込む正義を以て相手を支配するように膨れあがってしまうものなのです。ハラスメントはしばしば、この背景によって生じます。
 
先日ある講座の中で、聖書の中に、意見の違う者がいるがそれは問題なく一つになっていったのだ、と描く傾向のある記者がいることに対して、たとえ意見が対立しても、相手の意見を自分とは違うそのままに、尊重し認め合い、その上でなおかつなんとか近づいていけないだろうかと努力していく考えを呈している記者とがいることが対比されていました。悪しき「多様性」の利用は前者であり、望ましい「多様性」の理解は後者であるように私は感じました。非常にタイムリーな話が聞けたと感じました。



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