【メッセージ】戒めという結論

2020年11月22日

(コヘレト12:9-14)

シオンで角笛を吹き
わが聖なる山で鬨の声をあげよ。
この国に住む者は皆、おののけ。
主の日が来る、主の日が近づく。(ヨエル2:1)
 
コヘレトは賢者でした。世のあらゆる知恵の書を調べ、人の生きる道を考えてきました。ソロモンになぞらえられますが、私たちは必ずしもソロモン個人に囚われずに、とにかく世界にある人間のありとあらゆる知恵を考慮に入れてきた、そのように考えました。人に教えることも、文献の研究も、やり尽くしたし、優れた思想を集め、編集もしたといいます。まるでこの聖書を編纂しているような書き方にも見えます。
 
やるだけやった。そしてこれが「結論」であると言いました。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これが、人間のすべてであると言っています。今日のお話も、これだけ覚えて帰って戴いたら、それで十分です。以下、私の蛇足が続くことになります。
 
「畏れ」とは何でしょうか。神を怖がることではなさそうですが、それも含まれているとは思います。手話だと「怖い」で済ませてしまうこともできますが、それに加えて、「かしこむ」のような表現を追加すると、少し近くなるでしょうか。日本語では元々おなじ「おそれ」であったに違いないのですが、一方では恐怖の意味に限定され、一方では偉大な存在を前にしてかしこむ思いへと傾いていったと思われます。神をただ恐怖の対象とすることも、もちろん可能ですが、それだけだと、まるで祟る神のようにも見えてきます。「触らぬ神に祟りなし」というのとは、聖書の神は違うはずです。
 
では「戒め」とは何でしょう。聖書の中で最長の章とも言われる、詩編119編は、その殆どすべての各節に、「戒め」またはその類語が組み込まれています。「律法」とか「掟」とかいうものです。「(神の)言葉」というのも、これに含まれます。
 
ところが日本語で「戒め」という語は、警告のように、前もって注意すべきことを伝えておく、そのことを指すようなイメージがあります。教え諭すというようなニュアンスもあるでしょうか。この「戒めを守る」という表現も、よく考えてみれば少し引っかかるところがあります。「守る」とは何を守るのでしょう。つまりそれが「命令」として及んでくるからこそ、「守る」つまり「従う」という角度で返すことになるのでしょう。約束を「守る」とも言いますし、教会用語ですが「礼拝を守る」とも言います。これも考えてみれば、何を意味しているのか、深く反省を強いられるような思いがするのですが、いまはそこにはこだわりますまい。礼拝と戒めとを並べて比較するようなことはしたくない、と考えるのですが。
 
このように一つひとつの言葉について考えはじめたら、それぞれの概念についての再検討が必要になるでしょう。けれどもこの時間は、その中で「戒め」だけに的を絞って、しばしいろい心の眼差しを向けることと致しましょう。
 
「戒め」と聞いて、とくにその漢字を見て、聖書からまず思い浮かべるのは、「十戒」であるという人が多いかと思います。いまも礼拝の中で必ず十戒を読み上げる教会もたくさんあります。この十戒についての解説をする目的はここではもっていませんので、ぜひまたお調べくださったらと願いますが、これはユダヤ教の律法の根幹を成すものだというふうには捉えておかなくてはならないでしょう。ユダヤ思想の要です。
 
但し、これを旧約聖書の中で「十戒」と呼んでいるわけではなく、記されているのは「十の言葉」というような言い方です。このとき「言葉」という語は、ユダヤの言葉で特別な意味をもっていて、「出来事」をも著すことのできる語だと言われています。神の言葉は、そのまま出来事なのです。これは私たちの信仰の重要なポイントを指摘している命題となりますが、ヘブライ語の世界からすると、わざわざ信仰だなどと言う必要もないくら、ごく当たり前の、常識以前のことなのです。ちょうど、神は存在するか、といった問いが、ヘブライ思想の中では全くあり得ないくらいに、それが当たり前で大前提であるのと同じようなものではないでしょうか。
 
十戒は出エジプト記と申命記と二箇所に掲げられています。申命記は「もう一度復習します」というような意味合いがあるので、これらは実質同じものです。いま「十の言葉」と言いましたが、確かにこれは「戒め」として書かれているのかどうか、私たちの日本語のもつ「戒め」でよいかどうかも検討されなければなりません。邦訳ではどうしても「〜してはならない」という言い方になってしまいますが、原語の伝えるニュアンスは、そうした禁止命令という感じはしないそうです。「〜してはならない」というよりも、「〜しないはずである」に近いのだ、と。つまり、この主なる神を信じるあなたがたは、盗むことなどしないはずではないか、と呼びかけているというわけです。
 
確かに十戒はユダヤ思想の要ですが、それでも、イエスの時代、永遠の命というものに関心がもたれるようになると、その永遠の命のために、律法の中でひとつ選ぶとすればどれが一番大切だろうか、という議論があったと思われます。イエスが律法の教師のように現れたとき、イエスにもそのことを問う学者が現れました。それは試すためということであれどうであれ、イエスはきちんと応えたことが記録されています。イエスは二つ応えました。マタイから引用します。
 
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
 
律法学者やファリサイ派の人々にも、戒めの要ということについて、定まった統一見解がなかったからこそ、このような問いが発されたように考えられます。律法には解説が付され、細かな規定が設けられて、人々の――というよりもともすれば熱心なユダヤのエリートたちのための戒めが掲げられていたのです。タルムードと呼ばれる口伝律法が、生活の基準として機能していました。
 
戒めを守る。それは善いことのように思えます。守らないことはよくないことです。戒めを破る、破戒となると、それは悪だということになるし、やった人は罪人だということになります。神の戒めを破った者は、神に呪われ、罰されるというのが自然な論理です。
 
しかし、イエスが批判し、戦ったとも言える、ファリサイ派などは、端的に言いますが、戒めを守っていました。彼らは戒めを守るプロのようなものでした。他方、安息日規定すら守れないような貧乏な労働者がいます。治らぬ病に冒された者も律法を守れないばかりか、病すら罪のせいだと決めつけられますから、その治癒にはたいそうなコストがかかりました。その戒めは蔑ろにはできません。なにせ神から与えられた戒めです。それが守れない貧乏人や病人たちは、神の国には不適格者であると断ずるよりほかありません。障害者も然り。仕事の中で安息日が守れなかったり、戒めにそぐわない仕事をしている人々も、律法を守るエリートたちからすれば、罪人として一括りにされ、選民イスラエルから排除して扱うこととされました。
 
もちろん、イエスはそうした社会構図に徹底的に抵抗しました。しかしそうなると、イエスは戒めを軽んじたことにならないでしょうか。そのため、安息日に癒しの業をなすことで、酷く憎まれ、非難をされたのです。そしてついに、十字架の刑に処せられることとなっていまいました。その死刑は、律法の規定、つまり戒めに反したことによって、下された判決なのでした。
 
神という権威が、その戒めの背景にいる限り、神に従うということは、戒めを守るということだとされていました。今で言えばまるで修行のように、その戒めを守るために自分を律した生活を送らなければなりません。
 
先週、カルト宗教について少し触れました。作家の村上春樹氏が、オウム真理教の信徒にたっぷりとインタビューをしたものを、本にしています。『約束された場所で』というその本には、村上春樹氏の質問ももちろん載っていますが、殆どが、サリン事件の後に、元信徒たちが話したことが延々と綴られています。ただインタビュー記事か、と即断しないでください。これだけ本音を引き出すインタビューが形をなすためには、それまでどんなに多くの時間を、相手に向き合うことで費やし、心を開いてもらう努力をしたか知れません。オウム真理教に所属していた人々の中で、社会復帰をした人々、社会生活が許されるようになった人々が、オウム真理教のこと、そこにいた自分というものを見つめ、答えているわけです。
 
一体、犯罪集団の内部から、事件をどのように見、また教団をその後、どのようなものとして判断しているでしょうか。いえ、村上春樹氏ならずとも、そもそも若者たちがどうしてオウム真理教に惹かれたのか、何を求めていたのか、関心をもつものでしょう。
 
彼らはおしなべて、「この人は良いことを言っている」から、教えを受けたいと思っています。魅力を覚えたのです。そして組織に属してしまえば、それは修行生活となり、従わなければならない掟が与えられます。つまり、戒めを守る共同生活を始めることになります。直接サリンを播いたわけではないのですが、その準備に加担していくことになります。ただ、法的には、処罰されない段階とされた人が殆どだったと思われます。むしろ、いわば「社会復帰」をしなさい、と帰されたわけです。
 
彼らは、人生に疑問をもっていました。社会や教育にその答えを求めましたが、叶えられませんでした。人に理解もされず、変わり者呼ばわりされ、仲間からは排除されました。ただ真摯に人生を問うていたのであって、ひとに迷惑をかけたわけではないのです。世の中に合わせて楽しくやっていけばいい、という世間の波風に、すべての動きが止められて、なおかつ人生や真理を問い続けていたのでした。そのもやもやの状態に、教祖がずばっと斬り込んできたとき、ここに人生の意味がある、と確信していったのです。探していた目的への道が見出されたということで、命ぜられる修行がむしろ心地よくなっていきます。理解されない自分の「家」を出る、いわゆる「出家」を実行すると、もう道は決まりますから、教団に住み込んでいきます。すると食事も制限され、日がな労働を強いられることになりますが、それさえ自分の道のために必要なこととして、面白く感じるほどになります。その印象は、教団を離れたその後も、消えないと多くの人が口にしていました。
 
どう思われたでしょうか。私は、キリスト教会とそう変わらない部分が多々あるように感じました。いえ、教会のほうがもっと緩い場合が多いでしょうが、中には戒律的に信徒を縛る教会も、実はあります。人生に意味を求め、真理を知りたいと願う、素直な性格は、この世の生き方とは違い、世の人々と軋轢が生じます。宗教団体に入る人は、しばしばこのような素直さを有しているとも言えます。そうして世間のほうが実はおかしいのだ、と力説されると、その通りだ、と喜びの確信を懐くようになるのです。組織に束縛されることも、聖なる存在に近づく道だと喜ぶようにもなるわけです。
 
その意味では、オウム真理教の信徒たちは、教会に集う私などよりも、よほど熱心に真理を求めていて、戒めというものを守って偉いと思えることがあります。厳しい生活の中の苦しみも、修行の進展のために喜んで従う思いが強くなり、より教えに忠実になっていきます。
 
もちろん中には疑いを懐くような人もいます。オウム真理教の内部にいながら、教えには懐疑的だという声も中にはありました。つまり「良い信徒」ではないということです。それでも、自分の技能が活かせるし、自分に役割が与えられることに生き甲斐を感じ、そこに居場所を見出していたから、ずっと居続けました。また、元の世間に戻ることは考えられないということでした。自分の居場所があるということは、かけがえのない財産です。ここに自分はいていいし、いることで自分が自分であることができます。一般社会のほうには、そんなものがありませんでした。会社にいても、自分の好まぬ仕事を与えられ、やり甲斐を覚えないままに無理を言われ罵声を浴び、叱られる日々。いざとなれば、おまえの代わりになる者はいくらでもいる、などと存在価値すら否定される。そんな世間よりは、よほど大切に扱われ、納得のいく生き方をすることが、教団内ではできたことになります。世間に戻ったほうが、自分の居場所など、見つからないことが分かっているのです。
 
それは洗脳されたからだ、と突き放して見る人がいるかもしれません。あのころ「マインドコントロール」という言葉もさかんに取り沙汰されました。村上春樹氏も、洗脳のためなのだろうか、という疑いを以てインタビューすることがありました。しかし、必ずしもそうではないということを、長時間聞いていくことにより、感じていきます。洗脳が皆無だと決めるわけではないにしても、洗脳のせいにすることは間違っている、と理解していくのです。もし彼らの思いがただの洗脳であるならば、キリスト教会に集う私たちも、皆洗脳されているとしか言えなくなるでしょう。
 
それでも、キリスト教は正しい宗教で、オウム真理教は邪教であるから一緒にするな、とお怒りの方がいらっしゃるかもしれません。でもそうでしょうか。キリスト教会の歴史を振り返ると、そんなことは言えなくなりませんか。歴史の中で、オウム真理教どころではない酷いことを、してきていなかったでしょうか。異教徒を殺戮し、文明を滅ぼし、経済的に搾取を繰り返してきたのが教会でなかったとしたら、誰でしょうか。何もしていないような人々を魔女だと裁判して拷問にかけて殺し続け、あげく動物まで裁判にかけて虐待していました。カトリックとプロテスタントとの間で憎しみ残る虐殺を続けてきたのは、キリスト教でなく、何だったでしょうか。
 
いえ、もう例には挙げませんが、いまもなお、何かそうしたことをしていないと言い切れるでしょうか。しかも、自分では正義だと思い込んで、堂々とやり通していないでしょうか。かつてのファリサイ派が言っていたのと同じことを主張し、また行動していないか、考える価値があると思います。もっと具合の悪いことには、かつて教会が虐げていた当の人々に対して、いまは見方だよ、と、悔改めもしないで善人面をしていないでしょうか。
 
私は、そうした宗教を信じている、という自覚を常にもっています。
 
オウム真理教に戻りますが、そこで戒めは、一つには悟りのための手段として受け容れられていた、という点を押さえておきたいと思います。もしくは、戒めが、自分の居場所を保証するために従うべき規範となっていたとも捉えてみたいと思います。
 
ところで、この秋、久しぶりに映画館に行きました。新型コロナウイルス感染症の拡大でためらっていたのですが、妻が見たいというものを、機会を捉えて見ることにしたのです。「星の子」、見た方もいらっしゃるかもしれません。
 
芦田愛菜さん主演で、実年齢よりひとつ若い中学三年生を演じていました。ちひろというその女の子は、産まれたとき、皮膚の状態が酷く悪く、両親は途方に暮れていたのですが、ある人が「水が悪いせいだ」と教え、ある水を勧めました。藁にも縋るような思いでその水を赤ちゃんに塗ると、次第に肌がつるつるに変わっていきます。その水が人の救いになるというその宗教団体に両親は加わり、どっぷりと浸かるようになりました。そのため、ずいぶんとお金をつぎ込んだのですが、ちひろとその姉と二人は、普通の子として成長していきます。少し歳の離れた姉は親の信仰生活に批判的でしたが、ちひろはまだそれをどうという眼差しもなく、自分がただこれまで生きてきたそのままに、宗教団体の行事にも参加しています。
 
物語はこの後いろいろあるのですが、映画は、この宗教をどこか怪しいもののように描きながらも、決して見下したり非難したりするようには感じさせずにストーリーを進めていきます。それぞれの家族の思いで、事態と真面目に向き合っている様子が語られていきますが、このちひろが、高校進学を迎えるにあたり、どのようにアイデンティティを確立していくか、つまり宗教にどこか疑問を覚え始めたあたりで揺れ動くものがありました。
 
その宗教団体の内部にただいるときには、それがどんなに奇異に見られうるものなのか、ちひろは意識できていませんでした。しかし中学三年生の生活で、それを感じたところから、物語が揺れ動きます。最後には、その団体のキャンプのような合宿に集まってひとつの結末を迎えるのですが、そのキャンプというのがなかなか見応えがありました。皆で声を合わせて教団の歌を歌い、信仰の経験談を何人かが前で感動的に話し、いっそうこの救いを広めますと宣言して、拍手。そして、楽しげな食事や交わりもありました。
 
恐らく物語は、宗教団体を揶揄したり、批判したりするようなテーマではなかっただろうと思います。傍から見れば奇妙な教団のようですが、それぞれは真面目です。そしてちひろもまた、そこから離れたらどうかというような周囲の誘いに対して、容易にウンとは言いません。そうして、産まれたときの自分を大事にしてくれ母、命を産み育む「母」というものが、大きなテーマのように映画の底流にあるような印象を与えます。「星の子」という題が、明確に何を意味しているのかは私にはよく分かりませんでしたが、教団のシンボルが宇宙の力、星であったのは確かです。
 
私の紹介の仕方がよくなかったことだろうと思いますが、ここまで聞いて、映画に描かれたこの教団について、どのようにお感じになりましたか。
 
キリスト教会も、外から見れば、こういうふうに見えているんじゃないだろうか、というのが、私の感想でした。もし、映画の宗教団体が奇妙なものだと感じたのだとすれば、キリスト教会もまた、そんなふうに見られているに違いない、ということです。
 
また、信仰生活を選んだ親が、自分の子どもをその信仰に導くということが、重い問題として伝わってきました。子どもはやがて物心つくころに、信仰と実生活とのギャップに悩んだり、友だちとは違う自分と自分の過程、また信仰について、意識が始まるときに、少なからず苦しむのです。その信仰を自分が棄てたとしても、親との関係は棄てることができません。でももし自分としてその信仰をもつことができないように思えたら、どうなのか。キリスト教会でも、信仰の継承という言葉で扱うテーマがそこにあります。簡単に、信仰二世とか三世とか口にします。信徒である親は、子どもが信仰をもつことを当たり前のように考えたり、また他の信徒の子もそうあるべきだというふうに考えたりするかもしれません。とくに牧師の子どもは、信仰をもって当たり前、願わくばその子も牧師になってほしい、などと周りは勝手な物語を作っていることがしばしばあります。でも、当人はそのような周りの思惑とは関係なく、育つのであり、悩むのです。よく、牧師の子は一度信仰を離れていくなどとも言われますが、周囲のこのような無言の圧力は、本当にしんどいだろうと思うのです。
 
さて、ちひろは、その信仰環境の中でしか育ってこなかったのです。だから、信仰生活がちひろの人生そのものでした。誰もが親の言うことに従いつつ育ちます。親の教えを全面信頼してこそ、子どもの安定した成育があります。親の教えることを自分の考えや感情の基準にしながら、やがて独立心を意識し、反抗期を経て、人格を形成していくことになります。このとき、そのベースにあるのは、確かに親の「戒め」であったはずです。
 
この戒めは、無意識のうちにちひろを支配していました。もはや戒めなどというよりも、当人の血や肉そのものでした。それを感情的なものと呼ぼうが、本能的と呼ぼうが、暗黙の中で自分を縛る作用がそこにあったことにります。戒めは、言葉にすらする以前に、あたりまえにそこにあって支配していたものなのでした。
 
父母の戒め、それは旧約聖書における家庭教育でも大切に考えられていました。
 
わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。(箴言6:20)
 
聖書では、まとまりの中心部にあるものが文字通りその事柄の中心を意味しているとよく言われますが、ユダヤの教えの根幹である「十戒」の中心にはこのような教えがありました。
 
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。(出エジプト20:12)
 
名家にはしばしば「家訓」があります。会社にも「社訓」がある場合があります。教会だと「教会訓」などとは言いませんが、教会の信仰告白を独自に作っている教会もあるし、そもそもキリスト教会全体が、そうした教会の信仰告白というものをもっています。事務的になると、「教会規約」と呼ぶものも考えに入れてよいかもしれません。いずれも、一種の根本的な「戒め」であると理解することができるでしょう。
 
コヘレトは、この世のありとあらゆる本を読み、調べ、考え、知恵を絞って、取り集めて世界の知恵を全部見渡すことをした、そういうふうな書き方がしてあります。あまりにもスーパースターで、そんなことができるわけがない、などと仰らないでください。これもひとつの象徴です。つまり、この世の人間の知恵を全部集めてみたら、その結論はどのようなものになるのか、ということを示したいのです。人間の叡智をすべて集め、活用して知恵の決定版を揃えたとして考えてみよう、という試みなのです。「突き棒や釘」「ただひとりの牧者」「収集家」など、謎めいた表現も見られますが、この言葉の意味の謎を解けば聖書が分かる、そんなものでもないだろうと思います。私たちはパズルを解こうとしているのではないからです。
 
「心せよ」と迫り、「結論」を示すのだ、と最後にコヘレトはぶつけてきます。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これが人間のすべてなのだとコヘレトの言葉は言い切って、知恵の探求の書を結ぶのです。
 
ではその「戒め」とは何なのでしょう。ああ、また最初のところに戻ってしまいました。まだちっとも分からないではありませんか。人間の叡智をすべて含み考えても分からなかったのだから、私たちが分かるはずもないのですが、私たちはそのために、今日はいくらか遠回りをしてきました。カルト宗教のことを考えました。自己実現や自分の居場所のために、戒めを守るという心理が利用されやすいのではないか、そんなことを共に考えてみました。聖書の「戒め」は、そのような自分の利を求めて従うような代物ではないと感じました。それから、宗教団体を描いた映画を例に取り上げました。無意識的に具わっている宗教的観念が、子どもを、ひとを支配し、規定している様子を感じましたが、聖書の「戒め」というのはそういうものではないだろう、ということも感じました。
 
何も考えることなく、戒めを守るというのも奇妙だ。何かしら魂胆があって戒めを守るというのも違う気がする。戒めは、なんとなく守っているというものでもないだろうし、他方必死に我慢に我慢を重ねて守るというものでもないでしょう。私たちは、戒めとはこれである、という指摘は難しくても、「〜ではない」という形で、少しだけ絞ってくることができました。
 
戒めは意識できる。そして守れるものなら守りたい、という心理が人間にはある。それが神から与えられた戒めであると言われるならば、やはりぜひ守ってみたいものでしょう。けれども、どうしても守れない人がいます。いえ、ひとは本来、そんな戒めなど、ちっとも守ることができないものなのでしょう。しかし、明らかに社会の中で守れる度合いの少なすぎる人々は、自分でかなり守っていると自負するタイプのエリートたちから見れば、ダメな人間であり、戒めからの落ち零れであるということになります。その故にこのエリートたちは、守れない人々を見下します。差別します。
 
福音書に描かれた、このようなあり方が、戒めに対して適切な態度であるかどうかと問われれば、私たちは文句なくノーと答えるでしょう。なぜならば、私たちはイエス・キリストを通して、こうした人間の知恵による戒めを介しての束縛から、解放されているからです。キリストの十字架あればこそ、私たちはこのような圧力から解き放たれているのです。
 
ところがこのキリストは、このように私たちを解放した次に何と言ったでしょう。
 
「わたしに従いなさい」
 
いったい、何度キリストはこのように語ったでしょう。福音書の中でなんと14回もそう言っています。従え。戒めを守ることの重圧から逃れさせた後に、従え、とまた縛るのでしょうか。いえ、どうもそうではないようだと思います。
 
ヨハネによる福音書では、新しい愛の戒めが与えられました。
 
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)
 
非常に抽象的な与え方をしています。もっと具体的に「愛する」とはどういうことなのか、教えてもらいたいのですが、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と、これまた嘲笑的にも思えます。私たちはまたもや、具体的にどのようにすればよいのか分かりません。私たちは、神に従いたいと思ったとしても、ではこの場合AとBとどちらを選べばよいのか、どうすればよいのか、ということは簡単には確定できません。そんな理論は聖書にはありません。だからどうしたらよいか、と私たちは祈ります。祈りに促されます。神に尋ねます。その末に、信仰をもってどちらをとるか、選びます。しかし選んでもなお、それでよかったのかどうか、まだ迷います。いや、信じて選んだのどから、それでいい、あとは神が責任を負ってくださる。そのように思うことができたら、少しは楽になるでしょうが、さて、なかなかそうもいかないのが実情ではないでしょうか。
 
ただ、言えるのは、これが神の戒めだ、と書物に載せるようなものとして、答えがそこにあのではない、ということです。書物に戒めを書いてしまったら、もうそれはただの教えであり規定や理論のようなものになってしまうでしょう。学んで知ったような知識として、戒めは存在するのではないはずです。自分から離れたところに理屈として置かれているようなものが戒めだとしたら、それはきっと、神の戒めではないだろうと思います。本に書いてあっても、その本を閉じてしまえば自分とはもう無関係になる、そのような学説と戒めとは明確に区別しなければならないだろうと思います。
 
すべての知恵を調べ尽くした末の最後の結論、「神を畏れ、その戒めを守れ。」神を畏れるというからには、ひとは神の前にいるのです。神の前にいるということは、聖書の中に、自分は存在しているのです。隠れたことも引き出される神がいる限り、隠れたままになるものはないということであり、私が聖書の中にいて、神の前にさらされているということのはず。聖書の中に、さて、私は生きているでしょうか。聖書が「戒め」として、生きて働く世界に、私は確かに入っている、そう自覚しているでしょうか。私の中に神の言葉が生きて働いて、私を突き動かしているでしょうか。
 
戒めを守るというのは、形だけ従ったような恰好をする、というものではないでしょう。あなたの人生が、一時も欠かさず神と結びついているということを言うのでしょう。結びついているということは、一時的なものではありません。日曜日だけではありません。常に、神は共にいます。自分は聖書の中を歩んでいる、それが神の国ということであり、神に支配された人生ということです。戒めというものが、神の言葉として神と私とを結びつけるつながりとなっています。私が人間のあらゆる知恵に究極の救いや真理を求めることを終えたとき、神の国が、確かな真実として実感できることでしょう。いえ、本当に存在するものとなるでしょう。
 
イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。(ヨハネ21:25)
 
ヨハネによる福音書の末尾にも、この「書物」に書ききれないであろうということが記されていました。それがイエスの業でした。このイエスの業は、かつて記された聖書の中で終わってしまい、その後は古代の文献として遺っている、そんなものではありません。それが私たちの信仰です。イエスの業は、今も続いています。この私に、あなたにおいて、イエスの業は続いているのです。



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