How about you?

2020年11月22日

君はどう? と尋ねる英語表現。相手の意志や行動を問うものです。最後の you を強調すると、じゃあ君は? と自分たちとの比較を求めることになります。
 
誰が感じ、誰が思い、誰が行うのか。それはあなたなんですが、と振り向けています。聖書において、欠けがちなことをここに思い起こすような気がします。どうかすると、聖書を観察対象とし、恰も謎解きのの材料のように見なし、熱心にその意味を探したり、歴史との符合を楽しんだりするばかり、ということになってしまうからです。
 
聖書についてこんなことを知っているぞ、と自分の勉強成果を誇りたくもなる。いやはや、自分への戒めとしなければならないのですが、私は可能な限り、そうではないスタンスで聖書と向き合っていると考えています。しばしば牽強付会のようにさえ見えるかもしれませんが、聖書の言葉はひとが生きるところに影響するはずだということを信じていますから、ただパズルのようにあてはまるうまい説明を考えようという気持ちは、基本的にありません。
 
聖書のこの謎の意味はこうですよ。ただそれだけを説明して喜ぶ人に対しては、やはりこの How about you? を投げかけたい。で、あなたは、どうなんです? と。
 
するとある人は、こんなふうに言います。「いえいえ、私は不信仰な者で……なかなかそのようにはできないものですなぁ」
 
自分の能力をちゃんと低く見積もっている、謙遜な姿勢のようにも見えますし、日本人ならば当然の美徳であるとも言えるのでしょうが、さぁどうかしら。「ほんと、あなたは不信仰ですよ」と返答したら、怒り出す人もいることでしょう。そのような場合、先ほどの言葉は、「そんなことありませんよ」と言われたいがための布石であったということになります。つまり、自分を誉めてほしくて、わざと貶めるような言い方をするという社交辞令が、私たちの身の回りにはあるわけです。ある牧師は、これを「謙遜傲慢」だ、と説明しました。相矛盾する二つの言葉が実は一致するという、逆説めいた表現ですが、なかなかうまく言い表したものだと忘れられません。
 
大切なことはは、私たちが神の前にいて、イエスの姿を見上げている、ということです。聖書の物語も、聖書の知恵の言葉も、それだけひとつ取り上げて自分の解釈で想像を膨らませていくと、そのことを忘れてしまいます。その前で「自分は不信仰です」などと告白はしたくないものです。「立派な信仰をもっています」などと言うのもなんだか変です。これまでの失敗やざまぁない自分の過去も、いまから、これからこういきます、との気持ちで「信じます」と告白するのがいいのではないかしら、と思います。それが、How about you? と問われた自分が、精一杯できることなのではないか、と。
 
で、君はどうなの? と、神が私に問うとき、私はそのままに、神の前にいることを知るでしょう。他の人のことじゃない、他の事柄への知識や関心を問うているのではない。君はどうなの? と聖書は、今日もまた、明日もきっと、私に向けて問うているのだと思っています。



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