もやもや

2020年11月18日

なんだか気分がよくない。もやもやする。
 
ある文章を目にして、どうしてだか分からないけれど、気分が晴れないのです。そこには、こんなふうなことが書かれていました。公害病で亡くなった人たちが「次の世代に同じことが起こらないために、いわば捨て石になってくれたんじゃないのか。」「我々のために苦しんでくださったその方々に感謝するしかないじゃないですか。申し訳ないと思うしかないじゃないですか。そうでなかったら、我々の信仰はどこにあるんですか。」
 
私の中に理論や神学があって、これを論破しようだなどというつもりはありません。また、その人の考えを否定したり非難したりしようと構えているわけでもありません。ただ、私が気持ち悪いのです。信仰的にというよりも、生理的に、受け付けないのです。
 
一定の心理として、理解できないわけではありません。でも私は受け付けられないのです。それではあまりに、その当人が、私の道具か手段になっているにすぎないと感じるのです。
 
いくら少しばかり読んだことがあるからと言って、カントの哲学が正しいと掲げるつもりはありません。ただ、カントはひとを手段にしてしまうことはよくない、という原則を設けました。支配の原理、優越と差別の心理は、えてして、誰かを手段として扱うことを是としてきました。
 
そもそもカントの強引な道徳説には、多くの批判が寄せられました。なんて道徳だと信頼されないこともありました。ただ、彼は当時成功の道を歩んでいた、いまでいう科学の方法とは違うやり方で、道徳というのも基礎づけられ得るのではないか、と格闘したのだと思います。しかし、それは道徳の原理でした。ひとが皆、一律それに従わなければならない、と勘違いすると、非難囂々となることは明らかです。道徳は法則であって、すべて世の中がその通りに動けというのではなく、むしろ道徳法則は認めるが、人生そうはいかないよなぁ、と迷い悩むのが人の心である、という領域は当然あるわけです。こちらをもしも倫理と呼ぶならば、まるで本音と建前のようではありますが、道徳と倫理とが、区別されてもよいことになります。
 
だから、不幸な人々が自分の身代わりに苦しんでいる、という見方もまた、ひとつの迷いの中の思いとして、存在することそのものを否定しようとは私は思いません。けれども、それを原理とするような世界観、あるいは信仰観というものを打ち立てることに対しては、気持ち悪くて仕方がないのです。
 
沖縄を捨て石と位置付けた太平洋戦争末期のように、安易に誰かを捨て石呼ばわりするようなことを、正義のように定めることについて、私は嗚咽を覚えてしまうのです。
 
長崎の原爆を、神の小羊の犠牲だと考えて意見を述べた永井隆博士が、非難を浴びたことは記憶に新しいところです。しかし、私はまだこれは共感できる部分があります。それは、ひとつには、神の摂理という領域で述べようとしているからです。どうしてそこまで言えるのか、という批判はあるかもしれませんが、また、少なくとも、自身がその原爆症を背負い、子どもの成長を見届けられない運命に陥った永井博士が、当事者としてひたすら神を見上げつつ漏らしていることについて、とやかく口を挟むこともできないと思うからでもあります。私は、傍観的で他者を自分の何か目的のために理解する存在として捉えるというような、一方的な扱い方をしたいとは思わず、双方向的に影響を与えるあり方をしていると考えたいと願っています。
 
これとは違う構図があるから、いまの気分の悪さがあるのではないかという気がします。体の良い偽善であるように見えるかもしれませんが、安易にひとを自分の道具であるかのように見なしたくはないのです。そうしないと、かの文章を記した人自身にその気がないことは承知していますが、命の選別や優性思想、レイシズムなどが利用しかねないとさえ感じるのです。公害病で亡くなった方が、同じことが起こらないように捨て石になったのだ、というような見方は、ひとつの話の流れとしては肯けるように一瞬見えるのですが、多くの場合には、同じようなことはいくらでも起こっていますし、殺人事件の被害者の遺族が、こんなことが二度と起きてほしくないと叫んでも、同じようなことはいくらでも起きています。捨て石とは他の石を取るためのまさに布石であり手段なのですが、他の石を取ることにもならず、だから決して手段などにはなっていない現実を捨象しているのではないでしょうか。
 
では、イエス・キリストはどうか。私の罪のために、というフレーズで信仰の表明を私たちはするではありませんか。キリストは私の救いの道具なのでしょうか。もしキリストがただの人間であったら、そうなるでしょう。けれども、そこにあるのは神的な出来事であったとするならば、本質的な違いがあると捉えます。それ故に、それはひとつの奇蹟であり、特異な出来事であったことになります。質的に全く違うものがそこにあるから、それを恵みと受け取る可能性が、確かに残されていると言えると受け止めるのです。
 
では、おまえはどういう救済観であるのか。そう問われても、私は何も提出することができません。不幸な経験をされた方々、亡くなった方々のことを、神ではない私がどうだと言うこともできません。しかしまた、その方々がただの不幸な人であったのか、そして私は不幸ではない仲間にちゃっかりと安座しているのか、それも分からないように思います。誰にでも、幸福はありうるし、私にも背負うものがあります。ひとに背負わせているものもあります。それ以上のことは、とやかく説明する立場に、私はないのだ、という辺りをうろうろしているばかりです。
 
ただ言えるのは、私が神に背を向けて傲慢極まりない姿であったところを、御言葉により殴られ打ちのめされ、引きずり出された末に救われた、その関係から私が離れられないである、というただそれだけのことです。それだけに、過ぎません。そして、そのような経験をもつ人がほかにいたら、そのような話が互いにできるだろう、ということだけです。



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