ひとを怒らせる者

2020年10月27日

ひとは、自分がやろうとしていることに横槍が入ると、面白くなるものであるらしい。そのようなときに、ふだん穏やかだった人が、まるで人格が変わったかのように、怒りを振りまく場合があります。
 
法に触れることや、危険を招く行為について、世間でもよく注意が促されていることについて、問題があることを指摘することは、気づいた人の、ひとつの使命ではあるだろうと私は考えます。むしろ、気づいていながら放置しておくことで、何か起こったら、きっと後悔するでしょう。
 
虐待の気配が漂うのを察知したら、報告してほしい。こうした行政側の要請がありますが、幸か不幸かそうした経験は今のところありません。ちょっと大きな声で子どもを叱る声を聞くことはありましたが、幼時や嬰児ではありませんので、心配には及びませんでした。
 
しかしSNSは、全世界に公開された情報発信のツールです。これはいろいろリテラシーが求められます。もちろん、私もその点では非常に甘いので、自分の行為に問題を覚えることも多々ありますから、なにも他人にくってかかろうとしているわけではありません。
 
SNSで違法行為をするという宣言や、それを促しかねないことを、教会が呼びかけていたとしたら、どうしたらよいでしょうか。決して威圧的でもなく、しかしできるだけ内容について誤解のないように問題点を指摘するコメントをしてはいけないでしょうか。私は相当な怒りを買い、一方的にブロックされました。私の指摘を「裁き」と突きつけていることだろうと推測します。
 
これは牧師でなく教会の有力者でしたが、SNSの投稿が、子どもたちに危害を与える可能性のある場合に、それは世の中で注意されていることですよ、と指摘するのも、見過ごせないと思ったからでした。でも、怒鳴られました。
 
また、非常事態宣言が出たその日、ないしそれからも、街を出歩いて楽しんでいる様子を投稿するのも、牧師という立場では顰蹙を買うことだと、これはさすがにコメントはしませんでしたが、意見は公開しました。もちろん、名前を出すような失礼なことはしません。しかし、無言のままブロックされました。
 
牧師というのは、信徒の鑑であり得る存在です。牧師がしているのならば、いいことだ、と見習う良い信徒がたくさんいます。いくら信徒も牧師も平等だ、という教団の規定があったとしても、信徒は見ています。神の言葉を語るという立場は、世の一般的な法律を超越しているわけではないと思われます。真面目に暮らしている人の気持ちを逆なでするようなことを平気でするとか、そうしたことをSNSで言い放つことを是とすることはできないのではないでしょうか。ちょうど、学校の先生がそういうことをすることが社会的非難を浴びるのと同じように。
 
もちろん、こちらが非難したような言いぶりや、けんか腰で挑んだのであれば、挑発したということで、私自身が大いに反省するべきところです。そうなるとまた別問題です。けれども、穏やかに筋道をつけてお話ししているのに、なんだか逆鱗に触れたみたいで、もう二度と冷静な話として聞いてはくれないとなると、弱ります。
 
いえ、私が多分に、そのような厄介者なのです。この人たちが悪いなどと申しているわけではありません。私もまた、そんなこと放っておけばいいのに、と言われもしますし、自分が正しいと思っているでしょ、と批判されることもあります。それはそうなのでしょう。そして、おまえだって同じようなことをしているではないか、と言われると、とてもじゃないけれども石を投げるような気持ちになれるものではありません。けれども、事柄そのもののために、こちらの説明にももう少し耳を傾けてくださってもよいのではないか、とも思うのですが、それは私のやはり甘えなのでしょうか。感情ばかりを投げ返されると、対処の仕様がなくなります。
 
キリストを信じ、また福音を語るというような人も様々でありますから、いろいろな個性もあるでしょう。学校の先生にもいろいろあるし、警察官の中にも問題を起こす人もいます。キリスト者というだけで、あるいは牧師というだけで、聖書を基準にしようとしているわけではないかもしれないということ、もちろん私も聖書を基準にしたことなど殆どできない身でありながら、ひとのことをとやかく言うのは間違っているのですが、やはり罵声を浴びるのは嬉しいものではありません。私がいい気持ちがしないのと、その人がそんなことをしたことと、どちらも悲しくなるのです。この人はこういう人だったのだ、というだけで私の中で終わってしまいます。
 
とにかく悲しく思います。自分がひとを怒らせるようなことをしているということについて、まず悲しみます。怒る気持ちは基本的にありません。思うに「怒り」は、「自分が正しい」という前提で起こる感情です。そう、正しくもあるのです。人間、すべてにおいて誤っている、ということは珍しいものでしょう。しかし、「自分が正しい」ということが、「相手が間違っている」と直結するとき、「自分が正しい」のウェイトがどんどん大きくなります。相手をそのようにさせているのだとすれば、世間ではごく常識的なことをしたに過ぎないことが、とても愚かなことのように思えてしまいます。
 
預言者たちの怒りは、ただならぬものがありました。預言書を見ると、怒りに満ちているような言葉が並びます。しかしそれは、主の怒りでした。預言者は、主の怒りを代弁しているのだ、と私たちは受け止めなければなりません。イエスもまた、憤ることがありました。自分を預言者気取りで誇るようなふうに誤解されると困るのですが、そうではなく、私は怒らない、怒りたくない。むしろ、同じ主のしもべと告白しているような人を、預言者の場合とは違う意味で怒らせているのだということを、悲しく思う、それだけです。
 
けれども、そもそも人間とはそんなものだ、というふうに思うこともまた、大切なことだろうとは思います。一番だめなのが自分であるにしても、だから他人が素晴らしい、と決めつけてもいけないわけです。そのように怒る側に、私が立つこともこれまでにあったわけですから思いますが、自分だけが正しい、と思い込むことは、愛から遠いことなのだとしみじみ感じるばかりです。
 
あ、その意味でも、私の身近な牧師は、あるいはこうした私の提言を受け止めてくださった方は、こういうわがままな私の言動に、よくぞ忍耐していらっしゃるなぁ、と改めて頭を下げざるをえなくなりますし、多分にストレスを与えているのだろうと推察します。だからと言って、言わなければならないと示されることも事実あるので、申し訳ないのですが。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります