【メッセージ】ひとりより良いこと

2020年10月18日

(コヘレト4:1-12)

ひとりよりもふたりが良い。(コヘレト4:9)
三つよりの糸は切れにくい。(コヘレト4:12)
 
『生まれてきたことが苦しいあなたに』という新書があって、「最強のペシミスト・シオランの思想」が紹介されています。近年マスコミがしばしば「生きづらさ」という言葉を出して、どうかすると誰かを益々辛い気持ちにさせているのではないかと心配しますが、エミール・シオランという人の場合は、生きづらさどころではありません。
 
ルーマニアに1911年に生まれ、フランスで本を書いた思想家。その本は、読むだけで生きていくのが辛くなるような思想に満ちているのですが、シオラン自身は自殺をせず、なんと84歳まで生き続けます。自分の思想の通りに生きなかった人物だとも言えますが、ある意味で真面目で正直な考えの人だったのではないか、と思います。世に調子を合わせてなあなあで生きていくことを拒み、自分の得を計算するよりも、人生を真摯に見ていたからこそ、生きていることの辛さを感じることができたのかもしれません。
 
生まれてこないほうがよかった。誰しも、どこかで口をついて出したことのある言葉ではないでしょうか。コヘレト4章は、まずそうした考え方から始まります。絶望的になりそうな、暗い始まり方ですが、もうしばらく辛抱お願いします。
 
4:1 わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。
4:2 既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。
4:3 いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。
 
死んだ人のほうが幸い、というのも辛い言葉ですが、この世でもう苦しみたくない、という思いから、この世がすべて色褪せて見え、遠のいて行き、自殺をするということもあると言いますから、人間の心をよく見つめているのは確かでしょう。ところがさらに、生まれて来なかったほうが幸せだ、というほどに自分の人生を全否定するような言葉は、こうして読むだけでも苦しくなります。どうか、悩みのある方、もう少しだけ、このお話の展開を待っていてください。
 
コヘレトは小刻みに、人生の苦労や辛さというものの実例に踏み込みます。
 
4:4 人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ。
4:5 愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす。
4:6 片手を満たして、憩いを得るのは/両手を満たして、なお労苦するよりも良い。それは風を追うようなことだ。
 
あくせく働いているのが、他人に勝つためだろうが、それは空しくないか、との問いかけです。もちろん、何もしないのも愚かだと釘を刺しますが、人間の底知れぬ欲望のことも、コヘレトはちゃんと見抜いています。
 
こうしたことに嫌気がさすと、いま普通と呼ばれている社会生活が送りづらくなります。古くは隠遁生活とか出家とか言われたことも、いまは悲しく「引きこもり」だの「ニート」だのと呼ばれ、見下されているような向きがあります。考えてみれば、引きこもっていると呼ばれる人々は、欲のために他人を蹴落とすような自分が許せなくて、とても純粋に誠意を保っていたい、ということがあるのかもしれません。
 
4:7 わたしは改めて/太陽の下に空しいことがあるのを見た。
4:8 ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで/誰のために労苦するのか」と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。
 
まるで独り者がよくないとしているように聞こえなくもありませんが、ただ独身であるとか家族がいないとかいうふうには取らないで読みましょう。金は生活に必要ですが、金のためだけに生きている、金のためだけに仕事をして疲れている人間の姿を重ねてみましょう。それは、誰かほかの人のために働く、あるいは生きていく、ということを見出せない状態だと捉えてみたいと思いました。誰かの笑顔のために、これをする。誰かが生きていくために自分が労する。それは、何か生き甲斐を与えてくれるものです。血族でなくてもよいはずです。社会の誰かのためになれば。コヘレトは、そういう発想のもてないときの空しさというものについて目を留めようとしているのだと私は考えてみました。
 
ここまで、否定的な姿ばかりが挙げられてきました。しかし最後にとても大切なところに注目していきたいと思います。これは、もっと肯定的な提言がなされているように思われるからです。
 
4:9 ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。
4:10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
4:11 更に、ふたりで寝れば暖かいが/ひとりでどうして暖まれようか。
4:12 ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。
 
ひとりよりふたりが良い。懐かしい言葉でもあります。結婚に至るまでに心に留まっていた言葉でした。そして、結婚式のときにも牧師がそれを取り上げました。そう、二人は二人だけではないのです。三つ撚りの糸が切れない、と示されています。二人だけでなく、もうひとり、キリストがそこにいてくださるからこそ、強い糸となるのです。私たちが考えたとおりの説き明かしがなされました。
 
ネブカドネツァル王が建てた金の像を拝まないという罪状で、ダニエルの友人であった行政の長三人、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴが、規定通り燃え盛る炉の中に投げ込まれることになりました。しかし王はその炉の中を見て驚くのでした。(ダニエル書)
 
3:25 王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」
 
この四人目が誰であるかを、ダニエル書は語りません。しかし、何らかの形で神が共におられたということは想像ができます。三人は、髪の毛ひとつ焦げることなく、無事に炉から出てきたというのですから。
 
神は、不思議な仕方で、もうひとりを伴わせ、守ってくださる。こうした考え方があるからこそ、この「三つよりの糸」も、二人だけではない守りを思い起こしてくれるために、2ではなく3という数字を示したのだ、と理解することができたわけです。
 
でも、それでよかったのでしょうか。本当にそれだけなのでしょうか。
 
説教の中で私は、政治のことは、一方の意見だけを力説したいとは思いません。その政治的立場に反対する人が説教を聞いたときに、神の言葉を否んでしまうかもしれないからです。聖書の言葉には、ひとつの受け取り方を語ることは、聖書の理解の異なる方にも、何かしら神の言葉として響くことを信頼していますが、政治的なことについては信頼できないと思うのです。ですから、いまから触れることも、政治的発言としてではなく、上手に聞いて戴けたらとお願いします。
 
LGBTQが増えれば地域が滅びる。こうした発言をしたことで、最近、非難を浴びた政治家がいました。少子化を助長するような動きは、その区域の人口をどんどん減らすことになる、という意識があったと思われます。もちろん、それが少数であるからには滅びるというのは、不必要なレトリックであり、政治家はこのようなものの言い方をすることは分かりますが、しかし世論を顧みない発言ではあったと思います。昨今の世情は、性的少数者に対して、人権という観点から、支援する立場が増えており、社会的にも配慮が始まっていると言えます。
 
キリスト教会も、世間で人権尊重とか民主主義だとかいう正義が掲げられると、けっこう敏感にそれの支持にまわることがしばしばあります。所属する教派やグループの環境によって、教会も性的少数者の味方をするのが当然だ、と理解している人もいることだろうと思います。けれども、いまも、キリスト教会の中には、LGBTQなどと呼ばれている人々に対して厳しい態度をとる人々もいます。聖書に、同性愛が罪だと書いてあるから、彼らは罪人であり、地獄に堕ちる、と言うのです。いまどきそんな教会があるかしら、と思う人もいるでしょうが、これはある意味で正統的なのです。なぜなら、いくらか歴史を遡れば、キリスト教会は、皆そのように叫んでいたからです。
 
いま、その歴史を繙くつもりはありません。それが目的ではないからです。ただ、少なくとも歴史上キリスト教は、同性愛者を罪人としてきたのことは確かだ、という点を指摘するに留めましょう。産めよ増えよという神の祝福に反し、また律法にもそのようなことが書いてあり、パウロも断罪しているなどとして、聖書を根拠として、そうしてきたのです。
 
子どもを産まないから、LGBTQが増えれば地域が滅びる、と発言した人と、これまでのキリスト教の歴史とは、実は同じ方向にいた、と見てはいけないでしょうか。もし子孫を増やさないから滅びるというのであれば、結婚しない人はどうでしょう。いえ、結婚という制度と出産という営みとを等値のものとすることはけしからん、という考え方もありますから言葉は慎重に扱わなければなりませんし、結婚しないと出産してはならないのか、という差別的な言い方だというお叱りを受けるかもしれません。それを覚悟した上で、ひとつの便宜上の表現だとして、さしあたりお許し戴きたいと願います。自ら結婚しない人、出産を望まない人もいます。この人たちは、人類を滅ぼすのでしょうか。子どもが欲しくても病気や事故、遺伝など何らかの理由で与えられない、産めないという人も(生物学的)男女共にいます。子どもをもたない選択をした人なども実際存在しますが、これらの人々は、皆地域を滅ぼす存在だと断罪するのでしょうか。LGBTQに対する偏見なのか嫌悪感なのか知りませんが、その人たちを否定しようとして、実はその他多くの人々までも次々と排除することになってしまうのではないでしょうか。
 
キリスト教会にしても、それはいけないと気づいて、いまの時流に乗ってLGBTQに「寄り添う」とか「味方です」とか言うことが、果たしてどうなのか、と疑う眼差しを私はもっています。もともとこの人たちを差別してきた張本人が私たちキリスト教会なのです。聖書にあるからとして、おまえたちは罪人だ、神の敵だ、と滅ぼそうとしてきたのです。それが、近年世の中に吹いてきた風にうまく乗って、掌を返したように、善人面をしているではないか、と批判されても当然だとは考えないのでしょうか。もしそうだとすると、偽善者以外の何者でもない、とまで言っても、決して乱暴ではないと思うのです。
 
私たちがいま、LGBTQを支援しようとするのなら、まず悔改めと謝罪とから始めなければならないのではないか、と私は考えます。思えば、戦争協力をずいぶんとしてきたキリスト教のグループも、戦争責任をようやく明言するのは、戦争が終結してから20年以上も経ってのことでした。戦後はキリスト教ブームに沸き、「まずやるべきこと」を後回しにしてきたのです。あるいは、悔改めが必要だとは考えないままに多くの月日を過ごしてきたのです。そして、政府の手による戦争責任や補償ということが社会問題となっていく中で、教会も何かしなければならないのではないか、というふうに気づかされていったのではないか、と邪推もできると思います。
 
話がとんでもないところで熱くなりました。どうしてこんな微妙な話、教会の懺悔を求めるようなきつい調子の、そしておまえがそんなに偉そうに語れる身分なのかとそれこそ非難を浴びそうな中で、また、聞く方が反感を覚える可能性が高いような話を、わざわざしたのでしょうか。しなければならなかったのでしょうか。
 
きっと、お気づきの方、理解してくださる方もたくさんいらっしゃるだろうと思います。
 
「ひとりよりもふたりが良い。……三つよりの糸は切れにくい。」(4:9,12)、私はこの言葉を、結婚を迎える自分たちの支えであったこと、二人を結びつけて支えるのがキリストという三番目の糸である、と受け取りました。それを励みに、あるいは頼りとして、結婚に至ったことを、間違いだとは言いません。それはひとつの信仰の事実です。そしてまた新たに結婚する二人がいたら、この言葉を贈ることも、きっとするだろうと思います。
 
けれども、この聖書の言葉は「そういう意味である」というメッセージにはしたくない、すべきでない、してはいけない、といま私は考えているのです。自分が受け止めるのは差し支えないが、ひとに一般的にそうだと語ることはよくない、と気づかされるのです。
 
これは結婚する二人に限らず、誰かとの友情や人間関係の中でも成り立つから。そう思う人もいるでしょう。しかし根本的には、二人の人間のことであるのかどうか、ということです。結婚に関して言うと、独身の人はこのような経験ができないのでしょうか。結婚の話だ、としてしまうと、独り身の人が排除されてしまうことになります。三つよりがキリストなのだと言うと、キリストは自分のところには来てくださらない、という寂しい思いを懐かせるのではないか、とも思ってしまうのです。
 
4:10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
 
ふたりが良いという理由に、このようなことがありました。「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす」というのです。これだけ聞いても、なんだそれだけのことか、と思われるかもしれません。
 
コヘレトの言葉はヘブライ語で書かれていますが、イエスの時代のユダヤ人たちは、これをよくギリシア語で読んでいたと言われています。いわゆる「七十人訳」というもので、ユダヤ社会で聖書が広まっていたのは、その時代、この訳だったとも思われ、だから福音書などで旧約聖書が引用されるときには、しばしばこの「七十人訳」のままに引用されています。いま私たちが、福音書にあるそれら引用箇所の訳を旧約聖書にたどると、ずいぶん違う訳のようだ、と感じることがあるのは、そのためです。そこで、コヘレトの言葉もこのギリシア語訳で見てみると、「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす」というところにある言葉に驚かされるのです。
 
「倒れる」は「ピプトー」という語ですが、これは建物が「倒壊する」という意味が基本ですが、ローマ書では次の「倒れる」のように使われています。
 
14:4 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。
 
また、第一コリント書でも同じように、「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」(10:12)とも使われています。この「倒れる」は、気を失うようなことではなくて、「罪を犯す」という意味で使われていることは明白です。キリストの徒として失格してしまうことです。
 
私たちが、何かダメになってしまう。それは罪と呼んでもよいし、落ち込みと理解してもよいでしょう。辛い、苦しい、どうしてよいか分からない。神を見上げることもできない、祈れない、聖書も読めない。そんなことがあった中で、もうひとりの友が助け起こしてくれる、とコヘレトは言います。だから「ひとりよりもふたりが良い」わけです。
 
さらに、この「助け起こす」と訳されている語は、「エゲイロー」といいますが、これは聖書中何度でも、「復活させる」という意味で用いられている語です。「イエスを死者の中から復活させる」というような言い回しがあることが思い出されることでしょう。もちろん、建物を「建てる」という響きが基本にありますから、先ほどの新約聖書の箇所にもあったように、「倒れる」「立つ」の対比のために、コヘレトはこれらの語を用いているには違いないのですけれども、私たち読む側としては、罪に沈むことと復活することとを連想して受け止めたとしても、咎められないのではないか、と考えるのです。
 
私が罪を犯し、意気消沈しているとき、もうひとりが復活への道を拓いてくれる。「もうひとり」を、復活の初穂となったキリストであると感じてはいけないでしょうか。いえ、私はここに、キリストを見たのです。ひとりよりもふたりが良い。そう、私は独りではなく、キリストがいます。キリストがいたほうが良いではありませんか。「共に労苦すれば、その報いは良い」とありましたが、キリストも共に労苦してくださったではありませんか。いえ、労苦どころではありません。キリストは命まで棄てたのです。ありえないほどの犠牲を払い、キリストは私を助け起こしてくれました。そして寒々とした夜を孤独で迎えざるをえないような時に、共にいて、暖かく眠ることができるようにしてくれました。「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する」というように、私が攻められて苦境にあったとき、共にそれに対抗してくれました。まくし立てていますが、キリスト者とは、そうした経験をもっている者たちです。問題があったとき、主が共にいてくださったために、立ち上がれた、勇気をもらった、前を向いて進むことができた、そうした経験があると思うのです。もしまだなければ、これから必ずそういう経験をするはずです。
 
こうして、独り身の人も、キリストが共にいる「ふたり」として、コヘレトの言葉を安心して受けることができます。人はだれでも個人的に、キリストと出会い、キリストと共に生かされていくことができるのです。
 
しかし、最後にもうひとつ、引っかかるものが残っています。
 
4:12 三つよりの糸は切れにくい。
 
「ふたり」と言いながら、最後にさりげなく添えられた、三人目の暗示を、どう受け止めればよいのでしょうか。キリストが共にいれば、それで十分ではないのでしょうか。最後に、その点に心を向けましょう。
 
自分の友としてのキリストがいる。キリストは私がだめになっても助け起こしてくれる。私が死んでも復活させる含みをそこに読んでみました。けれども、それで信仰が成り立ち、うまくゆくのでしょうか。私たちはどこまでも罪深いものです。それは、あれができないとか、それをしてしまったとか、そうした瑣末なことではないのです。私たちは、いつの間にか、自分を神としてしまう、とんでもない奴らなのです。そしてその時、神さえも、自分が支配し、従えるものとなります。祈るという美名で、実は願い事しかしていないとき。そしてそれが実現しないと怒るとき。私たちはキリストや神を、自分の思いを実現するための僕のように扱ってしまうことがあります。聖書の言葉を使って、自分の言動を正当化しようとするとき、神を道具に使い、自分の欲望を満足させている、という構図が成り立ちます。私たちは、どんな場合でも、自分というものが頭をもたげ、自分が可愛くなり、自分をこそ愛して、他人や神を愛するということとすり替えてしまうということが、いくらでも起こるのです。
 
私はいつの間にか、キリストを従えようとします。私たちは、キリストについて知識をもっていると自惚れもします。ただキリストが私と共にいたとしても、私たちはキリストを体よく利用することさえも、簡単にできてしまうのです。
 
ですから、私とキリストが共にいるという場面にも、私とキリストとの間をとりもつ存在があるとよいのです。私とキリストとの結びつきを請け負ってくれるような存在はないでしょうか。たとえば、原子核の中の陽子と陽子は同じプラスの電荷をもっていると言われますが、それら同極をもつ陽子同士が原子核の中で互いに密におとなしく集まっているのは何故なのか、それを理論的に研究し、中間子なるものが間にあってそれを可能にしている、と提唱し、日本人初のノーベル賞を受賞したのが湯川秀樹博士でした。私とキリストとを結びつける、第三の存在があるとすれば、それで三つよりの糸が完成します。
 
ありますか、そのような存在が。私とキリストとを結びつける役割を果たすものが。
 
わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(ヨハネ14:16-17)
 
「真理の霊」は「この方」と呼ばれています。人格的な存在であると認められています。ただの風ではないのです。私たちと心で交わることができます。その方は見えないけれど、また感じられないけれど、確かにおられます。私たちが何か不思議な力を背景に感じたとき、実はこの方が背後でちゃんと整えてくださっています。これこそ「聖霊」と呼ばれる神の姿です。「父・子・聖霊」の三つは、同じひとつの神を、人間のレベルで見たときの姿を表しています。
 
聖霊が遣わされたことで、人間は知らず識らずのうちに神の導きを受けることさえ可能になりました。しかしそれは、求めるところに与えられるという理解もなされていました。
 
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。(ルカ11:13)
 
この聖霊は、祈りと求めに応じて来てくださるのでしょうが、残念ながら私たちの思い通りになる方ではありません。それは私が神になろうとする罪の望むところです。しかし見えない中で、知らないうちにも、聖霊は来てくださいます。私がキリストを知っている、と言いながらただの知識に過ぎず、私の思い通りに動かせる便利な道具のようにキリストを扱っているというのは、聖霊によるものではありません。聖霊によるものであれば、私が神に従うようにさせるでしょう。私に悪い心を起こさないようにと作用し、私に愛を注いでくださるでしょう。ただ知るというのではなく、深い交わりの中で、喜びを覚えて知る、そうした関係が、私たちのコントロールできない聖霊という姿の神によってもたらされます。私たちは神ということで、イエス・キリストのイメージしかさしあたりもっていないかもしれませんが、聖霊という神の自由なあり方の前にひれ伏しながら、その聖霊の助けによってこそ、イエスをキリストだと証言することができるし、人を傷つけるような言葉を次々と吐くことから守られます。自分の益を優先させず、ひとに優しくすること、ひとを助けることを思い、行動します。聖霊の働きが、私をそのように動かすのです。
 
私たちは、キリストという救い主ですら、いつの間にか偶像のようにまつりあげるものとしてしまい、自分がただキリストと向き合っているというリスクを抱えています。キリストと言っておきながら、自分の僕のように扱うリスクです。しかし、第三の存在としての聖霊がそこに関わるとき、私と神との結びつきは本物となります。上からの力が注ぐ、あるいは魂の内部から力が沸き起こってくる、しかもそれはどうやって生じたか、自ら説明ができません。良い結果を、私の言動がもたらすということが起こったら、それは私の故ではありません。神が聖霊という姿で助けてくださったということです。
 
私は、生まれてきたことを喜びましょう。もう、かつてのように生まれてきたことを苦しみばかり抱えるためだと不平を漏らすようなことはしません。また私は、底知れぬ欲から解放されましょう。いずれも聖霊に頼み、聖霊により可能にして戴きましょう。そうして、誰かのために行動できる勇気、あるいは誰かほかの人を愛すること、それらを聖霊により実現させて戴きましょう。
 
しかし、この聖霊は三つよりの糸として、私とキリストとを結びつけるためにこそ、来てくださったことを忘れないようにしましょう。キリストが共にいるからこそ、聖霊の働きが存在するのです。キリストから目を離さないで、しかしキリストを利用しようなどという思いが起こらないように、聖霊に祈りましょう。聖霊が、私とキリストとの関係を、適切に導いてくれるのです。ひとりよりもふたりが良いことで、キリストと近づき、しかしそれがキリストと本当に結ばれることになるためには、私とキリストとの関係を正しくすることができる、聖霊が必要になるのです。ここに、三本の糸が強く結ばれるための準備ができました。ここから歩き出す私たちは、細いけれどもこの三本の繊維で編まれた糸であることを忘れないようにして、いつ知れずと来てくださる、聖霊の助けを望み求めるように致しましょう。



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