疫病と文明の終わり

2020年10月3日

雑誌「福音と世界」2020年10月号の特集が「疫病と文明の終わり」。特集企画はずいぶん前に決定され、執筆者にもちかけ、書いてもらうという形をとるため、2020年春先に始まった新型コロナウイルスの問題が、ようやく今になって「特集」として実現した観があります。
 
キリスト教雑誌とは思えない(?)ほどの過激さや大胆さを伴う雑誌なので、善良な(?)信徒の目には触れないほうがよいかもしれない(?)雑誌ですが、やはりお薦めしたい文章もたくさん掲載されています。
 
今回私の心に大きく留まったのは、そのうち2つ。
 
まず、坂井めぐみ氏の「トリアージ・捕虜・廢兵」。大災害が起こったときに、多数の患者が発生した場合、その治療の優先順位をつけるというトリアージが、近年議論されるようになってきました。しかしそれは緊急時、非常時の出来事です。この語は「選別」「間引く」を意味する語に関わるのですが、今使われる意味が現れたのが、ナポレオン時代の軍医長だといいます。その目的は、「戦力維持」でした。しかしルソーは、敵ですら負傷したら敵の道具ではなく人間に戻ったのであるから救うべきだという人道的な現在の考え方を主張したのでした。これが国際法に取り入れられたこと、これを日本が日清日露の戦争を経る中でどのように受け容れていったかということ、しかし後に太平洋戦争では時刻の兵士すら死ねと命ずるよう逆行したことなどが、紹介されていきます。
 
この後、戦後に「生き残った者たち」としての「廢兵」の生き方に触れ、この新型コロナウイルスの情況の中で医療資源の不足と、そのために生じた「分断」の思想を浮かび上がらせています。命の選別を国家が規定していく中で、この分断を打ち破る連隊は、私たちの側がどう考え行動していくかにかかっているというのです。
 
もうひとつは、草柳千早氏の「身体と相互作用のこれまでとこれから」。この新型コロナウイルス問題の中で、人と人との「共在」が冒されていることを指摘します。私たちは身体として「今ここ」にいる、それを意識しながら、このあり方を考えます。社会でも、互いに周囲を認識しながら一定の配慮を払い生活しているわけですが、無用な気遣いをしないとしても、「すみません」と言葉をかけるなど、トラブル回避の手段を有しています。これを「相互作用」と呼ぶようにします。公共空間の秩序は、このように「今ここ」に居合わせる人々の身体的相互作用を通して実現しているはずでした。しかし、距離を取り、密を避けよと圧力がかかる世の中になっています。
 
ここで通勤時の満員電車が挙げられます。それを絶えるには、他者の存在を無視するかのように、つまり相互作用を断ち切るようにでもしなければやっていられません。互いに、他人への無関心や冷淡な心をもつようになっていくわけです。さらに嫌悪や反感へとそれは発展し、こうした都市生活は私たちの心を破壊していくように仕向けていったのです。駅や電車内での「迷惑行為」に人々は目を光らせますが、筆者はこれを、鉄道会社が迷惑をかけている張本人だと指摘し、さらに私たちもこのような日常を受け容れてしまっていることを指摘します。私たちは、「身体」感覚を取り戻すことができるでしょうか。当たり前だとしていたこの都市生活を、もっと生きやすいものに作り変える必要があるのではないでしようか。人と共にいることの喜び・楽しみというものがあったはずです。私たちは、リモート生活により、それを実感しているはずです。
 
ほかにも魅力的な文章がいくつもあり、毎月の連載の中にも、聖書の記事でいう「戦争」についてまとめたものなどがあり、読み応えのあるものでした。続いてこのウイルスがもたらした世界の特集が続くことなります。10月発売の11月号では「パンデミックとキリスト教」という、すでに幾多の本が出版されているテーマが扱われる予定だといいます。  
先日、歌手のあいみょんさんが、印象的な言葉を語っていました。
 
「この状況で出てきた言葉には否定的だったりする。一番苦手なのは『ウィズ・コロナ』。声に出したくないし、広がってほしくない」
「みんなと近づきたいし、会いたいし、ライブがしたい。ウィズ・コロナとか言わんとってという心はずっとあるんです」
 
この新型コロナウイルスの問題で、誰しもがいろいろなことを考えます。そして、そこから思いついたことを発言したり何らかの作品などの形にしたいと思うでしょう。しかし、そんな評論めいたことはしたくないし、戦うぞなどという気持ちでヒーローめいた立ち上がり方をしたいとも思わない。そんな若者の、素朴な気持ちに共感を覚えました。
 
疫病は、人間の歴史にとり、必然的にあったことでした。それをなかったもののように見なしていたところへ、これが当たり前なのだと示されただけなのかもしれません。あまりに特別なことだとして、慌てふためいて、キリスト教界はどうするのだ、と焦り、思いつきで感情的になり、実は流されていく、ということにはなりたくないものです。そのためには、冷静にこの事態と、歴史を押さえ、またそれぞれの人の立場を思いやる気持ちを育んでいくことが、まず必要ではないかと思うこのごろです。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります