牧師が与えられることを求める祈り

2020年9月27日

執事などの名により立てられた役員は「汚れ役」だというのが、私がかつての教会で執事を務めさせてもらった時に学んだこと。説教で「信仰です」と語る牧師に、ねちねちとお金の計算をさせたくはないものです。そこを世の業務として、信仰に立たないような手続きを取り扱うのが執事の役割だと自覚していました。
 
牧師が代わること、牧師を新しく迎え入れること、これは教会のひとつの危機だと考えられています。常駐の牧師のいない、無牧と呼ばれる教会が激しく増えている現状で、新たな牧師になろうとする人も少なく、またせっかくいま穏やかに教会が運営されているところから牧師が移ってもいいということなど、考えにくい状況があるのではないかと思います。かといって、信徒との関係がよくない牧師を探して誘いをかけよう、という策略もなんだかよろしくないように思え、新しい牧師を呼ぶというのは、なんともジレンマを覚える出来事となります。
 
そこで、執事などの名で呼ばれる役員が、知恵を絞ります。また、伝手を求めて、知り合いの牧師から情報を得ようともします。教会の危機であり変革となるのですから、教会の選挙で選ばれた役員がこうした責任を担うというのが筋道です。恣意的に委員会のようなものを立てて牧師の選択を検討するというのは、教会の総意と建前的にも呼べない事態を招きかねません。
 
それはともかく、新たな牧師をどうするか、という「汚れ役」による話し合いですが、その教会にはどういう人が相応しいか、あれこれ考えます。そもそも誰が来る可能性があるのか分からない、という「売り手市場」の中で、教会のほうが牧師に条件をつけるという方法が、経済的にうまくいくはずがありません。
 
それでも、一度受け容れた牧師は、よほどのことがなければそう簡単に辞めさせることは難しいものです。これで失敗した例を私は見たので、焦って誰でもどうぞ、というわけにはゆかないことも、理解しているつもりです。だから、たとえばこの教会には高齢者が多いから、あまり若い牧師はやりにくいだろう、と考えることもあるでしょうし、牧師給与が十分出せないから、働き盛りで家庭をもつ牧師というよりも、たとえば家庭をもたない牧師だとか、一度退職した牧師だとか、そんな立場の人ならなんとかなるだろうか、などと考えることもあるかもしれません。給与については逆に、神学校を出たばかりの若い人のほうが、給与を抑えられる、というように判断するところもあるかもしれませんし、他の収入をもっている人を望む、などももしかするとあるのでしょうか。
 v そのように、この教会で賄える条件がいろいろ現れてきて、ますます、よい人が見つからない、と悩むことになります。売り手が少ないのですから、これはもう当然の帰結ということになります。こうなると、街から書店が消えていったり、出し過ぎた支点や小学校を統廃合したりするのと、似たような原理で、教会というものも、そもそも数が増えすぎているのですから、少子高齢化社会では減少するのが当然という空気が拡がっていくかもしれません。実際仏教寺院はこの比ではないほど深刻であるとも聞きます。
 
「汚れ役」としての働きは、肯定したいと思います。でも、けれども、そういうものなのでしょうか。
 
教会が語る説教、そしてその言葉が、ただの口先だけの言葉ではなくて、出来事となっていくある種の奇蹟、そこに神の業が現れ、神の国が何らかの意味で興る、そのようにイエスが定め、そこにわたしもいる、と権威を与えた教会です。その教会で、たとえ信徒と平等だというスピリットで営む教会団体であっても、なんらかの意味で指導者としての役割を果たし、何よりもいのちの言葉を預かり語る使命を帯びている「牧師」を迎えようとするときに、生の人間が思いついた「条件」に従って探したり選んだりする、そういうものなのでしょうか。
 
いえ、私はこう祈りたい。
 
神よ。この教会にはこれから導く牧師が必要です。この教会には、どのような牧師が相応しいのか、それは私たちにも分かりません。私たちが、こういう人がいいな、と願ったとしても、神がそうお思いであるかは分かりません。
 
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ55:8-9)
 
人の思う価値観で、主の業を計ることはできません。あなたが、この教会に最も相応しいとお選びになった方を、どうぞこの教会に与えてください。私たちにはどうしてよいか分かりませんから、ただあなたに委ねます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)のですから、あなたがこの教会に必要な人を選び、ここへ導いてください。私たちの視野にその人が見えたら、サムエルに「これがその人だ」(サムエル上16:12)と教えてください。また、そう示された神のしるしを、私たちが見過ごすことがありませんように、聖霊によって確かに教え知らせてくださいますように。主の愛されるこの教会に相応しい者に、私たち一人ひとりが歩み近づいていくことができますように。そしてその教会に相応しい牧者を、あなたが確かに送ってくださることを、信じます。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります