【メッセージ】遠く離れて立つよりも

2020年9月20日

(出エジプト20:1-21)

民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。(出エジプト20:21)
 
有名な十戒の箇所が開かれました。教会によっては、毎週これを読み上げるというところもあるそうです。旧約聖書の律法の要ですが、キリスト者にとってもここから外れてもよいようなものは一つもありません。今日は珍しく、この十戒について共通理解を図るために、お勉強をするところから入っていきましょう。
 
昔は「十誡」と書きました。いまは「十戒」でよいのですが、読み方は「じっかい」です。いまは間違いのほうが多くなり、許容されている節もありますが、「十」は「じっ」とは読めますが、「じゅっ」と読む読み方は、本来ないのです。「しゅう」と読む「執」の字を使う「執筆」を「しゅっぴつ」と読む人はいませんし、「りゅう」と読む「立」の字を使う「立法」を「りゅっぽう」と読む人もいません。
 
主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを二枚の石の板に書き記された。(申命記4:13)
 
出エジプト記より実はこの申命記のほうが原型ではないだろうか、と概ね見られているとのことですが、いまは何もそのような学問的な研究の紹介の場ではありませんからやめておきます。問題は私たちの受け取り方にあると考える私にとっては、この「十戒」という訳自体にひとつ視点を置きたいと思います。英語ならばそれは「the ten commandments」とあり、確かに「十戒」としてもよいような言葉なのですが、ヘブライ語原文では少しニュアンスが異なり、そのまま「十のことば」と理解するに相応しい語が使われています。聖書本体は、これらは「ことば」なのだと提示しただけです。しかし特別な「ことば」には違いありませんでした。また、ちゃんと「十」という数字をカウントしている点も見逃せません。というのは、文章はかなり入り組むように解かれているばかりで、番号をつけるのに少し困るような構成となっているので、何を以て「十」と数えたのか、興味が湧いてくるのです。実際、カトリックとプロテスタントだけでもこの項目分けが異なっているのです。このことも、今回横道に逸れすぎますので、割愛します。
 
よくこれは「モーセの十戒」と呼ばれます。それは、これを出エジプトのリーダーであるモーセが神から受け取ったと旧約聖書に記されているからです。神の教える戒めを10項目にまとめ、それを5つずつ、2枚の板に神自ら刻んで渡した、というような詳しい経緯が出エジプト記に書かれています。
 
今回は、プロテスタントの分け方で挙げることにします。
 
20: 2 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
20: 4 あなたはいかなる像も造ってはならない。
20: 7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
20: 8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
20:12 あなたの父母を敬え。
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。
20:16 隣人に関して偽証してはならない。
20:17 隣人の家……妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。
 
中央のほうに、父母を敬え、というのがあります。これより前は神に関することば、ここから後は人に関することばである、とよく説明されます。また、父母のことについては「長く生きることができる」ためにだと補足され、中央二つのもう一つは、殺すなというものて゜した。中央には大切な柱がしばしばあるように書かれている、という文化的原理を当てはめると、もうひとつの「殺すな」と共に、これらは「生きる」ことに関わっているように思われます。神は私たちに、「生きよ」と命じているのではないかと思うのです。
 
また、これらには多く「してはならない」式のものが含まれています。これが登場しないのは、最初の「神である」という宣言と、「父母を敬え」の二つです。この「してはならない」は、恰も禁止命令のように私たちには聞こえてしまいますが、ニュアンスは恐らくそのようなものではなく、「あなたたちはそうしないであろう」「そうするはずがない」「そうしないことになっている」というようなものだと理解できるものです。神は、うるさく禁止事項をぶつけて人間を束縛しようとしているというよりも、「あなたたちはそんなことしないよね」と呼びかけているようなふうに見えるのです。
 
親が子に言います。「あなたはそんなことはしないよね」。これを言われると、子としてはちょっと動きが取れなくなります。「するな」と怒鳴られたら、「するななんてできるわけないじゃん、してやるさ」と反抗したくなる気持ちも生まれましょうが、「するはずがないよね、信じてるよ」とやんわり言われたら、反抗する糸口が見つけられなくなってきます。神は、人間を人形のように捜査して支配しようとしているのではなくて、「あなたにはできないんだから」「あなたはそんなことをする人じゃないんだ」と、いわば「信頼関係」を築く言葉を投げかけているというように捉えることができようかと思うのです。
 
先ほども触れましたが、この十戒についていろいろ考えさせられることは無数にあるので、あらゆる方面において検討することはできません。学ぶというだけの目的に絞っても、とうていわずかな時間で網羅できるような解説はできないし、私も分かりません。そこで極めて限定的に、象の尻尾だけでも撫でるかのように、もう少しだけ私の眺める風景にお付き合いください。
 
この十の基本法則は、法の世界でいえば憲法のようなものだと言えるでしょう。神の教えは聖書全体にあり、旧約聖書の中ではその掟は多く「律法」と呼ばれている最初の5つの巻に載せられていると見ることができます。現代の法律のように条文化されているものではありません。物語あり、感動の詩あり、と多様ですが、その中からエッセンスを見出し、また解釈し直すような作業が、ユダヤ文化では必要でした。しかし、それらの原則は、この十戒の基礎の上にある、ということはできるだろうと思います。聖書のスピリットは、この十戒をベースに捉えていくことにより、逸れていくことはないだろう、というのが通例の考え方でしょう。
 
しかし考えるべき問題はあります。「殺すな」がありますが、そう命じた神が、カナンの原住民を「殺せ」と命じているわけです。誰を「殺すな」なのか、そこには、明文化しないままに、暗黙の了解というものがあるように見受けられます。あのサマリア人の譬えをイエスが語ったとき、「誰が隣人となったか」と問うたように、恐らく「隣人を殺すな」という含みであったのだろうと思われます。それでいてイエスは、「敵を憎め」という、直接には律法に見られない表現を否定することで、「敵を愛せ」と命じました。これは思うに、「敵たる者の隣人となれ」と言われているように感じられてなりません。あるいは、「敵たる者を隣人とせよ」でもよいでしょう。
 
十戒はよく、最初の四つと、後半の六つとに分けられて説明されます。私が神だ、という宣言から安息日規定までは、人間と神との関係の問題です。後半は、父母から隣人まで、人間関係の問題だと見られます。後半の規定は、殺すな・盗むな、など、他の宗教でもよく見られる教えであるし、当然道徳というものが成り立つとすればどこの世界にでもあるようなものに違いありません。社会構造を根底から揺るがすような行為は禁じられ、また罰されるというのが、社会成立のための条件だと言えるでしょう。その意味では、イスラエルの信仰も、こちら側に基礎を置いているわけではありません。前半の規定が、いわばユニークであると理解できます。後半は人類に普遍的な規定だとも言えるでしょうが、前半はイスラエルに特殊なあり方だと受け取られます。そしてこの特殊な原理から、そこからこそ、後半の、よくあるような規定も生まれてくるのだ、と捉えていく必要があるだろうと思います。前半から後半を演繹するのであって、後半から前半を導くのではないということです。
 
この神のみ。それは偶像という形を最も警戒しなければならず、異教のように自分の思いや願いだけで神を呼んでも意味がないこと、そして何より安息日という神との関係を生きるあり方が際立っています。さらに、この安息日規定と父母を敬うということ、つまり与えられた命に対する尊厳に関することについての教えは、多くの他の規定が「してはならない」「するはずがないじゃないか」という否定混じりのものであるのに対して、「聖別せよ」「敬え」と肯定的な命令になっていることにも目が向きます。中央にあるこれらの肯定部分は、改めて私たちが心して受け容れなければならない中心点だというように、受け取りたいと思うのですが、如何でしょうか。
 
さて、今日味わいたいのは、実は最後の部分です。十戒そのものではないので、拍子抜けするかもしれませんが、この十戒がモーセに与えられたそのとき、人々はどうしていたか、ここにしっかり焦点を当てて、十戒を受け取りたいと思います。つまり、モーセという、比類なき代表者の立場でここを読むのではなくて、私たちがそうであるごとく、ごく一般の人間ども、決して代表でもなく偉い立場でもない私たちが、ここで描かれる「民」という立場で、何を聞き、何を見、また何を感じたか、そこを共に経験したいと考えるのです。そこで、改めてその箇所をお読みします。
 
20:18 民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、
20:19 モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」
20:20 モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」
20:21 民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のせおられる密雲に近づいて行った。
 
「民」あるいは「民全員」を、「私たち」、できれば「私」だとして読む、それが今日の要点です。
 
ここのところのシチュエーションはいまひとつよく分からないことが多いのですが、モーセは神からのメッセージを民のもとに山から下りてきて、「私」に伝えます。モーセが十戒を伝えたところ、山からの雷鳴や稲妻、角笛の音や煙という現象が起こります。それを見て「私」は恐れます。これですっかり怯えてしまったため、「恐れ、遠く離れて立ち」ました。神の現れという事態に、神のほうに近づいていくことができなかったというのです。
 
そこで、モーセに向けて頼みます。神から直接何かをぶつけらるのは恐ろしいことだ。神を見た者は死ぬというが、何かしらいま神が自分たちのところに現れようとしている。どうか神が直接自分に語りかけるような怖いことが起こらないように、モーセよ、あなたが代わりに語ってくれ。神が直接「私」に語るのではなく、モーセの口を通して語ってくれ。「私」は神が直接臨んでくると生きていられない。
 
この頼みに対してモーセは、それを受け容れて応えます。恐れるな。神はおまえを吟味する。おまえが畏れを知るようになればよい。するとおまえは、罪を犯すことがないであろう。――なるほど、こうして恐ろしい現れ方をするならば、おまえは神の存在と、神がいつでも強大な力を以ておまえに臨むのは本当のことだと思い知るはずだ、と、この雷鳴や稲妻は、神がいますぐおまえを襲うのではなく、もし罪を犯すようなことをこれからすればいつでもこういう目に遭うのだということの脅威として、力を示してみたのだ、ということなのでしょう。比較はよろしくないかもしれませんが、いつでもおまえの命を奪うことができるからな、と目の前でくるくると拳銃を回しているようなもので、この一種の脅しは、確かに効きます。
 
こうしてモーセだけが、雷鳴轟く山に向かい、律法を受けてくることになります。このとき「私」は、神の現象を宿す山から「遠く離れて立」っていたのでした。
 
旧約の神は、恐ろしい神だという見方があります。すぐ怒り、厳しく処罰します。逆らうとたちどころに滅ぼされかねない、恐ろしさを以て描かれているのは事実です。もちろん、それだけではありません。単純に旧約の神は怒りや力の神であり、新約の神は愛である、などといういかにも分かりやすい「図式」で説明してしまわないようにしたいものです。単純に、人間にとり分かりやすい説明をしてしまうことほど、聖書を誤って利用する原因になる行為はありません。
 
それでも確かに神は恐ろしくて、容易に近づくことはできません。そこで「私」は、モーセに神との対話を頼みます。モーセよ、あなたが代表として神と話し合ってくれ。そしてあなたが神の代わりに、神の言葉を「私」に伝えてくれ、というのです。怖い父親に怒られそうな息子が、母親に「お父さん、なんて言ってる?」などと相談するような心理に、少しは似ているでしょうか。
 
もう多くの方が、何を言いたいのか、気づいていることでしょう。「民」という他人事としてでなく「私」としてお話ししてきましたので、信仰をおもちであれば、この場面に遭遇して思い当たることは、同じひとつのことであろうと思われます。
 
私たちキリスト者は、それぞれが一人の惨めな罪人です。自分には罪がない、と思う人は、キリスト者の中にはいません。罪があるならば、本来神の前に出ることができないことも分かっています。自分の命は自分で行方を決められない。神が扱う。ならば、神の前に罪ある身である自分は、神に命を奪われて罰されることが目に見えている。そういうわけで、神を見ることは身の破滅ですし、神に近づくことはできません。しかし、そのようなこの私のために、弁護を引き受けてくれる方が現れました。
 
イエス・キリストです。
 
キリストが、「私」に語ってくださいました。キリスト者はそれを聞きます。モーセの立場に、キリストが立っているような構図を、キリスト者は思い描くことでしょう。ヨハネが言うように、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:18)。また、「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)とイエスは弟子たちに話しました。イエスを見ることで、神を見たことになる。神に直接、という形が無理だとしても、イエスに願い、イエスを知ることで、神と出会うことになる。このような捉え方があるからこそ、イエスの名によって祈ります。イエスに願いを話し、イエスを礼拝します。キリスト者の信仰の土台がここにあるといえます。
 
もちろん、イエス・キリストはモーセとは違います。モーセはただの人間に過ぎませんし、神の言葉を仲介したのは確かであるにしても、死すべき人間として不完全な歩みに終わりました。イエス・キリストは、ただそこにいただけではありません。神はイエスを罰し、イエスを殺すということまで人間にさせた後、イエスを復活させることによって、完全な救いの契約を実現することとなったのです。だから、モーセの姿をイエスとすべて比較して理解することはできません。イエスの死と復活という、比較にならない出来事を、それと密接に関わる自分自身の問題として捉える信仰の目が、どうしても必要になります。
 
確かに、父なる神に恐れを抱くべきです。従って、そこから「遠く離れて立」っていても、それはある意味で仕方のないことかもしれません。けれども、イエス・キリストからまで「遠く離れて立」ってはいないでしょうか。これをぜひ、今日顧みましょう。私がどんなに惨めでも、どんなに力がなく、悪から離れられず、間違ったことを昨日もやってしまったとしても、また望みを放り出して目の前のことに陰鬱になっても、イエス・キリストから「遠く離れて立つ」必要は全くないし、「遠く離れて立」ってなどいないという信仰の事実を、握り締めようではありませんか。あなたが自分の弱さをかみしめて、苦しい思いを携えたままであったも、しかし自分の罪とイエスとの関係だけは誰が何と言おうと握り締め、キープしているとするならば、それでよいのです。モーセが山の密雲にひとり近づいて言ったように、イエスもおひとりで、神の定めた救いの場としての十字架へひとり近づいて行き、決定的な出来事を成し遂げたのです。
 
だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブライ4:16)
 
このイエスと出会ってからは私たちは、「遠く離れて立つ」だけの待ち方をしなくてよいようになりました。再びイエスが来られる時を、共におられるイエスと待つという、一見矛盾するようなあり方に「アーメン」と肯きながら、日々の歩みを淡々と続けるのです。神は、雲の柱・火の柱として、そんな「私」の先頭を、離れることがないのです。



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