バイキン

2020年9月17日

図書館がなかなかしっかり警戒してくれます。ビニルシートはもちろんですが、その隙間が本当にわずかに限られていて、かろうじて本が滑り渡せるくらいのスペースしか空かず、天上までびしっとビニルが張られています。貸出カードも、係員は決して触ろうとしません。厚手のビニル手袋をしているにも拘わらず、です。本を選んでいるときに、返却本をまた並べに来る図書館員も、私がそこにいると決して近づこうとせず、私が離れるのをじっと待っています。そういうマニュアルなのでしょう。
 
気持ちが分からないわけではありません。新型コロナウイルス感染症拡大を抑えるために、様々な努力がなされています。人の交流や参加が避けられないところにいると、業務に関わる人の不安や恐怖はただならないものがあることでしょう。病院では、手洗いの徹底はもちろんのこと、優れたマスクを使用し、シールドや防護服などを活用するなど衛生観念については一般の比ではないほどに気をつけているはずなのに、それでもクラスターが発生し続けています。だったら、防護観念の薄い労働環境においてそれが発生するのは、いわば当然だとも言えます。図書館が躍起になるのも、もちろん悪いことではありません。
 
エッセンシャル・ワーカーは、緊急事態宣言発令の時から、一般人にとってはありがたい存在で、当人にとっては厳しい状況にあったと思います。それが解除されてからは、一般施設や多くの職業が再開されました。それぞれ警戒を怠ってはいないはずです。福岡は全都道府県でも指折りの感染者数・感染率を弾いていますから、当然警戒して然るべきなのです。たとえそれが、人と人との距離をつくるようなことになろうとも、それが社会的に必要だという理解が進んでいますから、いくら警戒しても、もちろんそれは正しいのです。
 
けれども、(いまの子はそんなことをして遊んでいたらとんでもない怒られ方をするだろうと思うのですが)かつて私たちが子どものころ、ある特定の子に近づいたらいけない、というクラスの暗黙のルールができることがありました。私よりも以前の世代ににはあったそうですが、実際不潔な身なりの子や、へたをするとシラミがいる子などに対しては、確かに近づくのを嫌がる、というのは分からないでもありません。けれども、特に何か理由があるのではないのに、たとえば学習に困難を抱えている子だとか、何かしら嫌われている子などは、誰も近づこうとはしませんでした。
 
その子のほうが近づいてくることがありました。すると「バイキンがうつる」などと言って、皆逃げるのです。その子に触られようものなら、バイキンが移ったことになり、今度は別の誰かにタッチをしなければならなくなります。まるで鬼ごっこのように、バイキンが移されていくことになるのでした。
 
するとまた妙なルールもできるもので、追い詰められた者が、(Good luck!のように)人差し指と中指を交差させて「バリア!」とか「ギッタン!」とか宣言すると、たとえ触られても、バイキンは移らないことになるのでした。
 
図書館で、他の領域では感じられないほどに露骨に警戒されているとき、この「バイキン」と呼ばれた子の気持ちが、少しだけですが、分かるような気がしました。いや、その子は当時もっと傷ついていただろうとは思いますが、不思議なもので、当時はそれで学校に来なくなるなどといったふうでもなくて、たいていはけろりとしているように見えました。もちろん、それは私が鈍感だったからなのだと思います。昔はよかった、などと言うつもりはないので、念のため。
 
「バイキン」と呼ばれるみたいな立場になったときに初めて、差別される側のことに思いを馳せるなど、まことに人情のない、冷たい人間です。ふとしたことで傷つく人の辛さや悲しみに、私たちは気づいていないものだという気がします。
 
そしてまた、もっといけないことは、私自身が、誰かに「バイキン」といまもいつでも呼ばわって、いじめている事実がきっとあるのであり、その事実に気づいていない、という点です。そんな酷いことを平気で言っていること、時にはそれが善いことであると確信犯的に思い込みつつ、やっているに違いない、ということ、それを痛感するのでした。
 
福音書のファリサイ派なども、いわばそういうところをイエスに責められたと読むこともできると思います。貧しい人は神に見捨てられたのだし、病気の人はその人の罪に対する神の報いだと考えたのだし、いろいろ理由や事情があったのでも、その人が律法を守れないのは、哀れな滅びるべき存在だと高いところから見下ろしていたのですから。そのようにして、自分で自分の善いところを信じて疑わなかったものですから。そしてそのような自分を非難したイエスを、殺してしまえと命を狙うことまでしたのですから。



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