大袈裟な恐怖の予想が外れたとしても

2020年9月15日

一週間前、日本は、いや九州地方などは、パニック寸前でした。台風10号が来る。超大型だ。戦後最大の被害が出る。マスコミが大声で叫び、それに呷られていたのは事実です。非常食や水、テープや紐などが店頭から姿を消しました。
 
そして確かに激しい風が襲ったものの、被害は予想したほどは出なかったと分かるや否や、今度は「マスコミ騒ぎすぎ」「嘘っぱちだ」「大袈裟だったな」などという呟きが駆けめぐることとなりました。
 
他方、心がけるためにはよかったのではないか。ひどい被害が出なかったのならそれでよかった。そんな声もありました。v  
私はどちらにも与しない考えをもっていました。
 
後者のように「よかった」とは思いませんでした。被害は出ています。亡くなった方もいますし、傷を負った方もあります。傷という意味では、心の傷もありますし、家や財産を失った方々も少なくありません。農作物の被害も深刻であった場合があります。こうした方々の存在を無視するように、「被害がない」とか「良かった」とかいうことは、私はできません。
 
しかし前者のほうからは、私はさらに遠いところにいるように感じました。悪い方を想定して、結果的にその悪いことが起こらなかったという事態そのものを悪く言うつもりはないからです。
 
預言者エレミヤは、その活動の初期において、預言という点では失敗を経験しています。いわゆる「北からの災い」と言われるもので、恐らくスキタイ人という騎馬民族が、北から各地を襲い暴れていたことを反映しているのだろうと考えられているのですが、この噂を耳にしてか、エレミヤはユダとイスラエルに猛烈に悔改めを迫ります。そしてエレミヤ書で、強大な敵が襲ってくることを繰り返し告げます。
 
4:5 ユダに知らせよ、エルサレムに告げて言え。国中に角笛を吹き鳴らし、大声で叫べ/そして言え。「集まって、城塞に逃れよう。
4:6 シオンに向かって旗を揚げよ。避難せよ、足を止めるな」と。わたしは北から災いを/大いなる破壊をもたらす。
 
しかし結局、北からの恐怖は現実のものとはなりませんでした。主の名によって語ったのに、エレミヤはいわば予言を外したことになります。エレミヤの信用度は落ちます。そのためか、エレミヤは時の権力者にも睨まれました。いらない警告をうるさく言うが、何も起こらなかったではないか。こんな奴のことを信用することはできない。民衆もエレミヤの味方をしようとはしなくなります。
 
大袈裟に警告したが、その悪夢は現実のものとはなりませんでした。その意味で、騒ぎすぎだと非難されたという姿が、台風10号の大騒ぎに似ていないこともありません。ところがこのエレミヤは後に、別の預言者ハナンヤと、食い違う未来のことで対決することになります。今度は、バビロン捕囚の出来事と、そこからの帰還という預言をエレミヤはするようになりますから、ある意味でエレミヤは面目を施すことになるのですが、この場面を、少し長いですが引用してみましょう。
 
28:1 その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の五月に、主の神殿において、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、祭司とすべての民の前でわたしに言った。
28:2 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。
28:3 二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。
28:4 また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、わたしはこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしがバビロンの王の軛を打ち砕くからである。」
28:5 そこで、預言者エレミヤは主の神殿に立っていた祭司たちとすべての民の前で、預言者ハナンヤに言った。
28:6 預言者エレミヤは言った。「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。
28:7 だが、わたしがあなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。
28:8 あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。
28:9 平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」
 
ハナンヤは、バビロンに支配されることはない、と捕囚された人々もすぐに戻ってくる、と預言したのです。二年のうちに、という限定までつけました。そこでエレミヤは、「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように」と、意地悪く皮肉まで言いながら、預言者についての重要な原理を口にします。
 
28:8 あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。
 
元来預言者は、戦争・災害・疫病といった悪夢の出来事を預言してきた、とエレミヤは前置きした上で、いや不幸な出来事は起こらない、楽観できる、というような預言をすることの難しさを告げました。
 
28:9 平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。
 
平和になるから安心しろ、と預言する場合は、その預言が本当にそうなったときに初めて、その預言者の言葉は主の言葉、主が遣わした預言者であったということの証明になる、と言うのです。
 
台風の例に重ねましょうか。台風が来る、危険だ。こう叫ぶ予報や報道は、エレミヤのように危機を認識させることでしたが、エレミヤがその予想を外したように、台風の勢力は様々な脅しめいた予告とは違い、被害を大きく広範囲にもたらしたとは言えない結果となりました。では、最初から、この台風は大丈夫だ、大したことない、という意見が世の中に広く伝わっていたらどうだったでしょうか。つまりそれが、平和を預言する預言者だということになります。エレミヤは、そのような楽観した状況を預言するとしたら、その預言が現実になったという時に初めて、主の預言者であったということになるだろう、というわけです。
 
台風はそんなに酷い被害をもたらさない。そう予想して発表していたら、どうでしょう。確かに、結果的にその通りになって、被害が少ない、あるいは全くないのであれば、エレミヤにしてみれば、それはいいことだね、と言うのです。しかし、これをエレミヤは実は勧めません。楽勝だ、と預言していたとしたら、きっと気を抜く人がいたでしょう。するとそうした人々が、死ななくてもよい場面で、命を落とすということにもなりかねません。もし本当に何も起こらないならそれはイーブンかもしれないが、起こるリスクが現実のものとなったとき、被害が甚大なものとなる、ということは言えるでしょう。
 
それに対して、悪いことが起こるという予想の中にいた場合、結果的にその通り悪いことが起こったとしても、それなりに構えて準備をしていますから、被害もいくらか少なくて済むものと考えられます。しかし悪いことが起こるという予想が外れたとしても、準備をして損をした、という感情が起こるであろうことは認めますが、何も起こらなくてほっとした、ということにならないでしょうか。
 
悲観的な予報は、警戒を強くしますから、その予報以上の悪いことは起こりにくくなります。けれども、楽観的な予報は、もしもそうでない現実が起こったときに、被害が酷くなります。そのため、狼少年の如くに、大袈裟に予想したがそうでもなかった、嘘つきだ、がっかりだ、と文句をつけるのはよくない、という考え方が取れるのです。
 
エレミヤは、ハナンヤとの対決のときに、「その言葉が成就するとき」主の預言者なのだと言いました。けれどもかつて自分は、北からの敵の預言を外しました。これは、少し見ると、自分で自分の頸を締めているような言い方をしているように聞こえます。けれどもよく見ると、楽観的に預言するなら、その楽観的な状況が現実のものとなるのでなければならない、と言っており、他方では、悲観的に預言するなら、その結果がその通りのものとならなくても、悲観的な預言をしたことには意味がある、としているのです。
 
さらに言えば、私たち人間は、他人のことについては悪い予想を語りがちですが、自分のことについては楽観的になる場合があります。他人には、それは罪だぞ、怖いことになるぞ、と平気で思えるし、言えもするのですが、自分自身には、これくらいいいさ、と罪を軽んじることがしばしばです。私たちは自分の罪に対しては、もう少し警戒してよいのではないか、と切に思います。いつものように、自戒をこめて、告げることにします。



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