中古本と読書の愉しみ

2020年8月26日

私たちはかつて「古本屋」と呼びました。ちょっと薄暗い店内で、奥には渋い物知りのおじさんがいて、ぷーんと独特のにおいがたちこめる。京都なら、丸太町通りに並んでいましたし、鴨川神社で年に一度夏に古本まつりが行われることが有名でした。秋は百萬遍知恩寺の古本まつりが華やかです。大学が市内各地にありますから、それらの近くには古書店があるのが当然でした。今のようにインターネットで古書を検索して届けてもらうということは難しかったので、手に入りづらい学術書を探して足繁く古本屋を巡り、またその中で思わぬ掘り出し物を見つけたり、どうしてもという時には店主にかけあって、本を取り寄せてもらったりすることもあったわけです。時に、稀な本であるために高価な値段がついていることもありましたが、必要の度合いと財布との葛藤の後に、どうするか決める、という場合もありました。しかしまた、このチャンスを逃したらもう一生会えない、と判断したときには、なけなしの生活費をはたいて手に入れるというドラマもありました。函付きの岩波書店のものなどは当時定番でしたし、大正期の本なども手にしていましたせいか、私は旧字体を読むのに苦労することがありませんでした。
 
今は「古本屋」と呼びづらい、明るいチェーン店のリサイクルショップが常態となりました。まさにリサイクル感覚で、人気の作品や文庫本などが、定価よりも安く手に入ります。逆に、珍品ということで高値が付く古書は、そういう店には置かれません。学術書を求めて行く場所ではないと思われますが(万引きを見越してそうしてあるのかもしれません)、文庫や新書は、少し以前のものであれば、そういうところで見つかると経費的には助かります。TSUTAYAのように、検索機が具えてあると、実にありがたく、求める本が存在するかどうか、一目で分かり、ありがたいものです。
 
そこでお勧めは、辞書です。電子的な辞書が全盛のような時代ですが、紙の(と形容すること自体が、時代の変化を感じます)辞書のメリットも多々あります。特に古語辞典などは、学生のときに買わされたものの卒業すると全く要らないと思わせる魔力をもっており、次々とリサイクルショップに売られていきます。ショップとしても困るのです。やたら同じものが運び込まれ、買い取らないわけにもいかない場合があり、しかし買い取ると重く、場所もとるために、時点に高値をつけている場合ではありません。人気の辞書でないならば、結構な安値がついている場合が多く、私などは100円+税で、いったい何冊の辞書を買ったものか、数え上げることもできません。かなり古いものもありえますが、そんなに古いものばかりではありません。古語辞典などは言葉自体が古びるという性質のものではないだけに、学習のためには100円で十分です。英語も、へたをするとInternetが載っていない場合がありますが、逆に良質な辞書が安く入手できるというのが、なんともうれしいものです。さすがにギリシア語などは、ネット通販でないとなかなか現物を見ることはないのですが……。
 
著作権の切れた作品は、ウェブサイト「青空文庫」で無料で読めますが、手に取りたい場合、また著作権が切れていない場合には、古書店がやはりうれしいものです。世界の名作が100円+税で買えるとなると、つい3,4冊くらいはレジに運んでいってしまいます。もちろん図書館でも借りますが、ゆっくり読みたい場合や、線を引きたい場合には買うほうがよいのです。100円単位ならば、缶ジュースよりも安いわけですから、私はそちらを選んでしまいます。
 
一冊を読み終わるのには、数日単位ですが、通勤に少し時間のかかる私は、電車内が恰好の読書室です。だからうるさく喋られると迷惑で仕方がないのですが、そこは自衛するしかありません。夏期講習がいま終わろうとしていますが、このようなストレスの多い期間が近づくと、せめて通勤中には本に浸れるように、と本を集め始めます。講習中の往復に読めるように、多めに文庫や新書を仕入れます。amazonからも得ますが、古書店からのものも多数あります。頑張って働いているから、と自分へのご褒美として、あまり迷わずに何冊も求めて置いておきますので、結果的には、講習が終わっても本が余っているということになります。それもまたこれから読んでいきましょう。自分に甘い私です。最初に興味があって買っても、そのうち興味が薄れてくる場合があります。でも、やっぱり読んでしまう場合が殆どですし、さほど後悔することはありません。
 
いまamazonのことに触れましたが、古書は一冊1円で販売されている場合も少なくありません。その代わり送料が、300円前後かかります。古書店店頭で手に入らない場合には、これを頼るしかありませんが、店頭で買えるならば100円であった場合のほうが安くなります。この見計らいが常々難しいところです。ちょっと失敗した場合も、実際あります。これはけっこう悔しい思いがします。
 
特に金のかかる道楽があるでなく、また人づきあいに出費が嵩むということも基本的にないので、本だけはとりあえず大目に見てもらっていますが、家族からはそんなに歓迎されているわけではありません。それで定期的に、本を処分しなければなりません。今年の非常事態宣言の中で、巣ごもりしているとき、思い切ってだいぶ本を棄てました。しかし皮肉なもので、その後、高校生の息子にあの本が役立つか、と思って探してみると、どうも棄ててしまったらしい、と気づくことが、幾度かありました。大したものは買ってやれませんが、本については、買えるものは買い、図書館の検索を家でしたり、なにかと私が情報提供したりして、手助けができたらと願っています。プラトン全集をいま一冊、彼に占領されていますが、面白いのだそうです。確かに、カントよりは読みやすいでしょう。
 
短い書評ですが、いま2300冊以上、綴っています。気がつけば17年間、そんなことを地味にやっています。2.7日に一冊分は書評を書いているわけで、もちろんそんなもの書かずに読んでいる本もありますし、テキストとしての哲学書はたいていその中には数えられていませんから、よくぞ本に浸っているものだと我ながら感心したり、呆れたりします。もちろんそれ以前にも、本は読んでいましたし、いったい自分は何冊の本と出会ってきているのかしら、と、悩んでも仕方のない数字を思い浮かべます。空の星を見よと言われたアブラムの気持ちと微妙につながるものがあるでしょうか。でもその割には、世界の名作文学などには疎いところがあり、日本の小説などもいい加減です。漱石でさえ、半分も読んでいないのがやや残念です。いま電子書籍の中に漱石作品が全部入っているのに、さぼっています。このように、本の世界は到底征服できない広大な土地であり、まだまだ開発できる土地が残っているということなのかもしれません。
 
図書館には専門的な本は期待できないので、文学なら、いくらか借りられるでしょうか。こうして最近は、「○○文学全集」なるものに手を出して、図書館の面倒なところから取り下ろしてもらうなどして、家で静かに読んでいます。さすがに電車の中に持ちこむには大きくて重いのです。借りられる期間に全部読むのは無理ですから、それなりに選んで目を通します。最近だと、ヘッセが良かった。久しぶりに読んだのですが、なんだか良き昔の純粋な気持ちに戻れるような気がして、ちょっと胸がキュン、とくるのですね。息子の影響で、村上春樹にもだいぶはまっていました。いわゆる文学肌ではないけれども、読者の心を掴む天才なのでしょう。
 
こんなことを話し始めたら、いくら時間があっても語り尽くせません。そのうちまた、書きたくなったら書くことにします。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります