人を生かす文字

2020年8月24日

読めるものなら読んでみろ、そんな挑戦の姿勢を感じるような、答案用紙があります。あるいは、ひとに読んでもらおうという気持ちがまるでない、ということでしょうか。私も走り書きのときにはそんな調子のことがあるので、あまり大きな声では言えないのですが。
 
以前、小学生の男の子で、字の「へた」な子がいました。失礼な言い方ですが、「へた」としか言いようのない文字を書くのです。バランスや恰好、なんにしても、誰でも見たら思わず「へた」と言ってしまうであろう、そんな文字でした。けれども、漢字の書き取りは、彼はいつも満点でした。確かに「へた」ですが、正しい字を書いているのです。見映えは悪いのですが、「正確」なのです。減点の仕様がありませんでした。
 
いまはどうなっているのでしょうか。以前は就職などのための「履歴書」は、本人自筆が当然でした。その書く文字により、その人が審査される一面があったのです。書く文字は、その人を物語る。大袈裟に言えば、書く文字にはその人の人格が現れる、という信仰めいたものが世にはあって、美しい文字を書く人は、社会的にも信用されたものでした。
 
そのため、ペン習字なるものに人気があり、通信教育ではアイドルキャラクターまで生まれました(分かる世代の人には分かると思います。実はいまリバイバルしているのです)。字が綺麗になりたい、それは中高生などの憧れでした。
 
聖書は、かなり古い史料が見つかっている部類の文書であると言えます。それが少量でも、後世「写本」という形で伝えられたものが、古いものとの一致度が高いことで、写本の信用性が増すということもあったことでしょう。とくに旧約聖書は、「一点一画」とイエスが漏らしたごとく、几帳面に書き伝えられた様子が推測されます。それに対して新約聖書は、写本というレベルでもかなりの相違が見られます。そのため、果たしてオリジナルはどうだったのか、ということを考えるのが、研究者の楽しみ、否仕事であったわけです。
 
新約聖書の古いものは、ギリシア文字としての読み取りはそう困難ではないようですが、分かち書きをされていないものがあり、解釈を重ねなければならない場面もあると聞きます。後の時代の人が、これはおかしいんじゃないか、と修正することもあったようです。すると、古い文献は、間違いがあったほうだ、というふうに考える原則もあるのだそうです。
 
こうして、研究者は、できるだけ古い、オリジナルのものを見つけようと努力します。そのものが発掘されることは期待薄ですから、推測という形で、オリジナルの文献を構成していく、というのが普通のやり方なのでしょうが、とにかく新たに書き直したものよりも、古い元々書かれたものこそ、大切だ、とするようなのです。
 
それは、オリジナルこそが、神の霊感によって書かれたものであり、修正したのは人間の業だ、という理解があるからでしょうか。聖書が霊感により書かれたのだとするならば、原本を書いた人にだけその霊感が具わり、修正した人には霊感は働かなかった、ということの故に、オリジナルを探すのでしょうか。それとは逆に、修正されて意味が通るようになったほうこそ適切である、という考え方をとってはいけないのでしょうか。
 
カントの『純粋理性批判』について言及するときには、必ず「第一版」か「第二版」かを明らかにすることになっています。それは、これらは別の本ではないかと思われるくらい、内容が違うからです。「序文」だけでも議論の材料にたっぷりとなるのですが、本論においても、ざっくり入れ換えられるなど、同じ本だとは思えなくなるくらいに違ってしまいました。カントの思想を扱うときには、どちらも気にしながらするのが普通ですが、概して第二版のほうがメインに扱われます。新しいからです。そして、その後の著作と比較対照するときに、第二版でないとうまくつながらないからです。つまりカントにしてみれば、修正版としての「第二版」こそ、決定版だという考えであり、だからこそ大幅に修正したということなのでしょう。
 
聖書の場合も、修正されたほうこそが良くなっている、という考え方がないのでしょうか。パウロ書簡は、直接イエスと面識がなかったにせよ、イエスの死と復活の時代、そしてイエスの直弟子たちを知っているパウロによる、初代教会についての貴重な証言にもなるでしょう。しかし疑似パウロ書簡は、後の時代の人、たとえばパウロの弟子やそのまた弟子という世代に成立したわけで、そのような少し後の時代の教会の問題や時代状況の中での忠告や命令といったものであるとすれば、それよりもパウロ書簡のほうが、イエス・キリストに近いということは言えるでしょう。つまり、イエス・キリストに迫るためには、古いほうが良いということなのではないかと推測します。
 
書いた人の息吹、書かれたイエス・キリストの姿、こうしたものに近づくためには、確かに古いほうが望ましいことでしょう。後の時代になると、美しく整えられていくことはあっても、現物が薄れていく可能性を否定することはできません。
 
最初に、「ヘタ」であったとしても「正確」な文字がよいという話をしました。また、手書きの文字は、書いた人の人格あるいは心を伝えることがあるというふうにも申しました。しかし、このキーボードに慣れてしまうと、手で書くよりは圧倒的に早く文章を綴ることができます(私はかな入力ですが、この辺りの背景についてはまた別にお話ししましょう)。また、修正も非常にやりやすくなります。そして、素早く打ったものでも、活字(という表現が適切かどうかですらいまの時代怪しい)という画一的な(手書き風フォントというのもありますが、しょせん型どおりの文字しか現れません)フォルムで現れてくる文字は、非常に読みやすいものとなります。何と書いてあるのか、と首を捻る必要もないし、ストレスなくすらすら読めることは間違いありません。ただ、その活字は、ある意味で味気なく、個性も人間性も現すことができません。つまりは、「思想」が感じられない表現媒体なのです。読みやすく親切なスタイルではありますが、その人となりを感じさせることがなくなっていった、極端なスタイルであるのです。
 
イエス・キリストの言葉が、手書きの文字で伝えられていて、それを読んだ(あるいは聴いた)人々は、どのように感じたでしょうか。それがいまや活字あるいは一定のフォントとなって目の前に現れて、それを通してイエス・キリストと出会おうとする、イエス・キリストを感じようとする私たち。規格通りの型になった文字を通して、私たちは、どのようなイエス・キリストを知るのでしょう。それでもなお、そこに霊が働くのは確実であるのですから、その文字は人を生かす文字だ、と理解してよいのでしょうか。活字があるいは音となり、聞こえてくるのかもしれません。周波数をもつ音声としてでなくても、心に響くものとして聞こえるというのもあるでしょう。聖書は、活字だと少しばかり想像力が、そしてより何らかの体験を必要とする手段が、必要となるかもしれませんが、いまなお、人を生かす言葉であり続けています。但し、耳で聴くのが殆どであったような時代ではなく、また手書きの文書を通じて神の言葉を受けていた時代でもなく、また活版印刷が始まったとはいえ、挿絵があったり「髭文字」のもつ権威や空気があったかもしれない時代でもなく、きわめて機能的になり、コード的になり、ありふれた「情報」の中のひとつとなったかもしれないような現代において、聖書の「文字」は、かつてとは違った形であったとしても、救いをもたらしていることについては、疑わないことに致します。
 
さあ、読めるものなら読んでみろ、いや、この活字の向こうにいるイエス・キリストと会ってみろ。そんな挑戦が、私にも、あなたにも、ぶつけられてきているのです。ご存じでしたか?



沈黙の声にもどります       トップページにもどります