マスクを外すとき

2020年8月22日

「コロナ」という単語が乱れ飛ぶ中、いやそれはウイルスが主体だろう、と思ったり、トヨタの自動車の話か、と思ったりしたのも今は昔。せいぜい「新型」と付けなければ、との抵抗も最近はする気がなくなりました。
 
「マスク」も不思議な言葉です。「サージカル・マスク」か「医療用マスク」というべきところが、なぜかただの「マスク」。「マスク」は「仮面」のことであるはず。「タイガーマスク」も、ランドセルを贈る人、くらいの理解の時代となった観があります。
 
正確かどうか分かりませんが、アラビア語由来の語だと聞きました。仮面をつけるおどけた役者のことだ、と(本当かどうかは調べてくださいませ)。maskが「仮面」を意味するとしたら、その元のラテン語の形「ペルソナ」に注目する必要が出て来ます。古来演劇は仮面をつけてその役を表現するものでしたから、日本の「能」などはその形をいまに遺していると言えるのでしょうが、そのような仮面がペルソナでした。personaと綴るこの語は、人物を表すものと見られた後、近代概念ではあるでしょうが「個人」を指すことができるようになり、「人格」や「個性」にも踏み込むようになっていきました。「パーソナル」はこの語に由来し、「パソコン」もこの言葉を日本風に略したものであることは、中学生なども気づいていなことが多いものです。
 
しかし教会にとってはこれは非常に重要な用語なのであって、「位格」などと訳されますが、そのまま「ペルソナ」という語で表示されることもしばしばです。そう、聖書の中には直接見られませんが、重要な教義としての「三位一体」(ちなみに「さんみ」と特別な読み方をしますね)は、信仰の核心部分を指すものとして、古来神学議論の大問題として扱われてきました。
 
どだい人間の言葉で定義しようというのも無理なことなのでしょうが、神は「3つのペルソナをもち、1つの本質がある」というのです。
 
先ほど、「個人」という意味が近代概念ではあるだろう、と申しました。個人という形で人が、あるいは自己が意識されるようになったのは、古い話ではありません。非常に新しい考え方です。私たち現代人は、こうした新しい視点と視座から過去の思想を見つめます。そして、いまの私たちの思考枠で判断できることこそが真理である、という気持ちになります。聖書を解釈するにしても、私たちの常識で量るということがしばしばあり、またやむをえない面がありますが、いまの私たちの理解で分かったことが果たしてそれほど画期的な解明であるのかどうか、常に弁えておく必要があろうかと思います。
 
そんな中、神のマスクと向き合って、その神の本質と関係を結ぶ必要は確実にあると言えるでしょう。そのとき、私はマスク姿でよいのでしょうか。人も、誰かに対するときに様々な仮面を被っています。けれども、神の前ではマスクを取り払わざるをえない、ということをひしひしと感じます。
 
サージカル・マスクは人の表情の半分を、そしてしばしば心を隠します。それを外して自分の本質を思い切り発散するのが、SNSの場、などというふうではなく、神の前であり、また聖書の言葉を聴くときであったほうがいいのかしら、などとも思うこのごろです。



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