すべての人と預言者

2020年8月20日

「スマホ買ってよ。みんなスマホもってるんだよ」と親にねだる子どもがいたとして、「みんな」じゃないでしょう、と冷静に対応できる親がどのくらいいるのか、という点は深刻に考えないこととして、しかし聖書になると、このあたりが結構大切な解釈に関わることがあります。
 
福音書には「すべての人が」のような書き方がしばしば見られます。これを数学的に文字通りの「すべて」と取る必要がないことは、レトリック上の常識です。
 
ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。(マルコ6:33)
 
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。(ルカ21:17)
 
イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。(ルカ23:49)
 
これらは論理的な意味で「すべて」ではないと思われます。では、旧約聖書ではどうでしょう。やはりこの癖は元々あったのですし、聞くほうも「そういうもんだ」の前提で「すべて」の語を理解していたということなのでしょう。人間の言語は、各地でそのようにできていたのではないかと推測されます。
 
アッシリアの王はこの国のすべての地に攻め上って来た。(列王記下17:5)
 
すべてのイスラエル人が王を立てるためにシケムに集まって来るというので、レハブアムもシケムに行った。(歴代誌下10:1)
 
なぜ、あなたは主の名によって預言し、『この神殿はシロのようになり、この都は荒れ果てて、住む者もなくなる』と言ったのか」と。すべての民は主の神殿でエレミヤのまわりに集まった。(エレミヤ26:9)
 
まだまだこうした例は非常に多く見つかります。ところで、すると、俄然気になり始める事柄があります。ここでは分裂以降の南北イスラエルを描いた列王記あたりを取り出してモデルとしてみます。主を信じた王は善い王で、主でない神を拝んだ王は悪い王である、という価値観で一貫して描かれる、列王記や歴代誌。その王の志向により、王国の民も「すべて」主に従うか、異教の神に従うか、風見鶏のようにころころ変わっているようにしか見えない、というのはどうした訳でしょうか。
 
戦国時代のキリシタン大名のように、領主がキリシタンになれば、領民もみなそう動くというような情況があったのでしょうか。いや、戦国時代にしてもほんとうに人々がすべてそうなったのでしょうか。こうなると、「すべて」という表現がすべて疑わしいものとなってきてしまいます。高山右近も特にカトリックでは聖人への道を進めるなど、尊敬されていますが、追放されるまでは領民がすべてキリシタン信仰で、追放後はすべて信仰を棄てた、ということになるのでしょうか。
 
つまり、聖書の歴史書の中にある「すべて」にも、もし一定の「すべて」と言ってもおかしくないような情況があったとすれば、それは、ただ権威者の趣向のために右へ左へとただ従わざるをえなかった庶民の、およそ個人的な意志や信仰などの生まれ難い有様だったのではないか、と想像できることになります。
 
その点、いま私たちがしばしば考えるような「個人的に神を受け容れる信仰」のような概念が、そもそもなかったのだ、という点にも気づかされることにもなるでしょうか。信仰は、一人ひとりが神と出会って、信仰するかどうか決断する、といった趣のものではなかったわけです。
 
それは、家の宗派は何かなどと言うが仏教の教義については、習俗的なことのほかは殆ど知らない、といった、標準的な日本人の仏教信仰の有様と比較可能なものだ、ということにもなります。
 
キリスト教会に来ている人の中にも、「家の宗教」意識でいる世代があるかもしれません。個人的に信じて教会に通うようになった人がいる点で、些か「すべて」なびくようなあり方とは違う面があるとは思います。けれども、教会生活をしていくうちに、そのような信じ方になっていくということは大いにありうることでしょう。例えばよく日本の教会の良いところを挙げるのに「家庭的な教会」というフレーズが聞かれます。これは、「家の宗教」に近づいている側面を映しだしているかもしれない、とは考えられないでしょうか。
 
もちろん、私のように、ひねくれた(?)者はきっといて、教会がどうであれ、また世界中の人が敵に回っても、自分はイエス・キリストとの出会いについて証言する、という個人色の強い信仰を頑固にもつ場合もあるでしょう。人を見るために教会になど来ていない、という断固とした態度は、これまで教会が壊れていくときに、冷たいようですが、その教会崩壊に関わることなく、抜け出すことを繰り返してきたことと関係しているだろうと思います。
 
そして、多勢を良しとはしない精神。きっと冷ややかに、預言者気取りなのだと言われるだろうとは覚悟していますが、肩書きがある有名人だから、あるいは多くの「友達」をもつ人だから、と、その意見に簡単になびいていくような人の多い中、およそ殆どの人が見向きもしないような声を発していくことしか、私はできないわけです。
 
エレミヤの預言も、凡そ人々には見向きもされませんでした。人々にちらほやされることなく、運命に翻弄されましたが、神に噛みつき、しかし神の召しのまま従い通したのだと言えるでしょう。時にその預言は実現するものではなかったにも拘わらず、それは不幸を予告するものであった故に、意味があったのであり、平和を予告する預言が実現しなかったらそれは偽物だ、と厳しい判断をハナンヤに突きつけたように、ちょっと綱渡りのようにも見える預言をぶつけたこともありました。
 
いわゆる勉強を教えていて、すべての子が同じように勉強ができるわけではないことはよく分かります。それは、知識の優劣のことを言うのではありません。その子の得意不得意があろうという面や、個性という意味でも思います。しかし社会制度が勉強の出来云々でステイタスを決めかねない面がありますから、一定の学力を身に着けてほしいと願っています。それでも、すべての子が同じように、問題が解けるわけではないのが事実です。文章の読解力が近年話題に上ります。なにげない文章でも、人により読解できる・できない、が歴然としています。誰しもが、筆者の意図通りに文章を読み取っているわけではないのが現実です。
 
このようなことから、聖書の話を聞いていて、自分で信じていますと言うのだから、クリスチャンは皆ちゃんと信じている、という点は、私は疑うことにしています。神の選びや救いということを信頼しないのではありません。SNSを見ていると、聖書や信仰について、単に私と意見が異なるという意味のほかに、明らかに誤解したり知識を欠いているために他人に暴言をぶつけたりしている姿が目に入ります。それぞれが、自分は正しい、と思う余りに、どんどんおかしなことになっているのを残念に思うのです。
 
何が言いたいかと言うと、ここで私が正しい、ということなのではなくて、人は様々あって画一的なものではない、ということです。「すべて」が同じようなのではない、ということです。その意味で、王にその都度全面的に従うような庶民たちの信仰が個人的なものではなかったように、有名人やステイタスのある人にすっかりなびいているような群衆のあり方に、危険が隠れているということに、目を留めているのだ、ということです。そのような多勢は、社会が動くときの「キャスティング・ボート」となります。なんとなく偉そうな意見や、世の多くの人の傾きに簡単に従って動き、多数決の今の世界を動かす力となってしまうのです。それでいて、自分では自分一人くらい何の意味もないから、と社会への責任を全く覚えないというところがまた、危険な要素でもあります。
 
そこに楔を打ち込む、それが預言者の役割であったとするならば、私は「すべて」の人に無視される預言者であるべきだ、そのように、神から個人的に召されているのです。



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