【メッセージ】あなたは呼び出された

2020年8月16日

(出エジプト3:1-22)

主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。(出エジプト記3:4)
 
2章の後半を飛ばした形で今日の箇所になだれ込んでしまいました。途中経過を無視するのは、この場合はよくないと思いますので、筋道だけ確認しておくことにします。
 
モーセは成人します。ヘブライ人を同胞だと思う意識がどこから身についたか分かりませんが、エジプト王女の養子のようにして育てられたはずのモーセは、何不自由なく教育も受けてきたであろうと思われます。重労働に喘ぐヘブライ人が大勢いる中で、モーセは自分はどういう存在なのか、いろいろ考えるところがあっただろうと思います。
 
ある日、奴隷労働に苦しむヘブライ人がエジプト人に殴られているのを見て、そのエジプト人をモーセは殺害しました。翌日ヘブライ人にエジプト人を殺したことが知られていると分かり、またエジプト王にも知れて命を狙われたために、モーセは荒野に逃げ出しました。砂漠で生活するミディアン人の祭司の世話になり、その娘と結婚します。男の子も産まれるなどして時は過ぎます。
 
2:23 それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。
2:24 神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。
 
こうしてようやく今日開いた聖書の箇所にやってきました。出エジプト記3章には、注目すべきところ、聖書全体に関わる大きな問題が詰まっており、ひとつの説教で的を絞るのは至難の業です。ただ、全体を見渡すと、主題はモーセの召命に違いありません。召命、これは耳で聞くと、聞き慣れない人には全く分からないものです。命令を召し受けること、とでも言いますか、独特の教会用語で、神に呼ばれること、呼び出されることを言います。
 
モーセが神に呼び出されたのだ。そう言うと、読まれたこの3章は、とりあえず把握したことになると思います。すでにモーセは、数奇な運命に操られてきました。出生時から殺されると思いきや偶然助かり、申し分のない境遇で育つものの、殺人を犯して砂漠に逃亡し、そこで家族を得て、異教の宗教者の家で羊を飼いながら今日まで長い間暮らしてきたというのです。けれども、これらはまだ序の口でした。今日のこの出来事から、モーセの人生はさらに大きく変わります。当人には思いもよらない形で、これまで受けてきた様々な事柄が、ひとつの筋に繋がり展開していくことになるのです。そのきっかけが、この神による呼びかけでした。
 
すでにストーリーはおよそ見て戴いたので、気に留めたいところを強調しながら読み進めます。
 
まず神である主が、不思議な炎を起こします。そこはホレブ。後に神の山と呼ばれるようになります。羊飼いの仕事でそこに来ていたモーセの目に、怪しい火が見えました。柴そのものは少しも焼けずに、炎だけがめらめらと燃え上がっています。神はこのような、目を惹く現象を「見せて」、モーセを引き寄せました。モーセは「道をそれて」近づこうとしますが、神は「モーセよ、モーセよ」と二度その名を呼び、近づくことを許しませんでした。二度呼ぶのは、聖書の中で時々あるのですが、その人物に特別な呼びかけをする場合の神の方法です。このとき「道をそれて」行ったことには、私は少し思い入れがあります。「道」は人の生き方や、宗教をすら指し示すことのできる言葉でした。日本でも剣・柔・書・茶・華など、極めるべき世界を悉く「道」と称しました。聖書でも「キリスト教」という呼び方がなかったのでそれを表すのに「道」という語を度々使っています。だからここで「道をそれて」と言ったのはきっと、モーセが人として自分の知識や経験に基づいて辿っていた「道」に固執せず、それを離れたということです。モーセは自分が正しいと思っていたそのやり方に従わず、炎という現象による、神のまず無言の呼びかけに応じて、導かれていったのです。
 
神は一度「父の神」だと自らを示します。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という、後のイスラエルの定番となった肩書きのような呼び方を以て、自らがどのような存在者であるか、モーセに教えます。また、エジプトにいるイスラエルの民の苦しさを「つぶさに見」て、その「叫びを聞き」、その「痛みを知った」と動機を明らかにします。神は、イスラエルの人々の叫び声を聞いたことをさらに告げましたが、これらのことは心に留めておいてください。
 
ここから神は、モーセにエジプト王のところに行って、このイスラエルの民をエジプトから連れ出すリーダーとなることをモーセに知らせます。一方的に神のほうで決めたということで、モーセにしてみればたまったものではありません。もういいように神の手足として使われるかのような人生です。その役割は、イスラエル人をこのエジプトから連れ出すのだということです。そして、「乳と蜜の流れる地」へは神自身が導くというのです。
 
モーセは抵抗しますが、神は「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束します。ここでモーセは、だとしても自分がイスラエルの民の前に出てそのようなことを言って、信用してもらえるだろうかと問います。こうして有名な、神の名を明らかにする、稀有なシーンが登場するのです。モーセが、神の名を民に尋ねられたらどう答えればよいのかと神に言うと神は答えます。
 
3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
 
なんとも奇妙な名前です。これはある意味で仕方がないのです。ヘブライ語の特性や文化が背景にあるため、日本語に端的に置き換えるということは、実質不可能なのです。乱暴に説明すると、「あるといったらあるんじゃ」とも言えましょうか。
 
神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8)
 
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ13:8)
 
新約聖書の中でも、このように、この「あるといったらあるんじゃ」のスピリットを踏襲した表現はあるもので、これはいわゆる「ヤハウェ」ではありませんが、神が存在そのものであるというような理解を私たちはしてよいかもしれません。
 
そもそも存在は私たちのあらゆる表現の前提になっているものです。英語だと、be動詞があればそれはひとつの存在です。何かしら記述するにあたり、必ず前提としてすでに置かれているものとしての、存在概念を規定しています。この辺りの話に浸ると、きりがありません。今日ここではこれ以上深入りはしないことにさせて下さい。
 
こうしてモーセの疑問に堂々と答えると、神は「さあ、行け」とばかりにモーセに命じます。
 
3:16 さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。
3:17 あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。
 
ここでもまた、イスラエル民族がエジプトで酷い扱いを受け、苦しんできたことを「つぶさに見た」と神は嗣げ、だからすばらしい土地へ導くことを決意したのだと言っています。神は、言葉がそのまま存在するお方です。初めに言葉があったら、それは初めに神が存在し、この世界を創造したことなどを含んでいます。人が言葉を口にしてもそのまま存在するわけではありませんが、神は口にしたということは、現実に起こるということになります。もう神の計画の中では、この民族は、「乳と蜜の流れる地」に導かれることが決まったというわけです。
 
しかしそれは、モーセとイスラエル民族にとっては、すんなり進むものではなく、いろいろな障害があることを神は但し書きしますが、希望のもてるような言い方で、モーセを送り出すのでした。
 
こうして開いた箇所を辿りました。あまりにいろいろな要素があり、なんだかいろいろあった、で終わるのはよろしくないので、ここからもう少し視点を定めて、今日神が私たちに「見よ」と示すことを共に見たいと思います。
 
「モーセよ、モーセよ」神はモーセの名を二度、呼びました。意味の深い呼び出しとして、モーセを神の前に引き入れたということでした。モーセは神の前に出て、神の声を受け、対話をします。イスラエル民族を導いたリーダーとしての後の歴史を知る私たちは、これは「モーセの召命」なのだ、この程度でここを通過するかもしれません。待ってください。何か忘れていませんか。この時モーセが、どんな気持ちでこの呼びかけを聞いたのか、神の呼び出しを受け止めたのか、もう少しモーセの身になって、感じてみませんか。
 
いやあ、急に呼び出されても困るんだよね。そんなことを求めているわけではありません。いいですか。このモーセは、数奇な運命のもとで生まれ、育ち、生きてきたのです。モーセは人を殺したのですよ。殺人者であり、その罪過の処分を受けていません。この犯罪者は、ただの逃亡者です。殺人を犯し、逃げている者です。確かに、モーセを追っていたエジプト王はすでに死にました。今でいうなら、時効が成立したのです。けれども、時効になったからと言って、つまり人の決めた法により無罪放免だなどと言われたとしても、人を殺した意識が、あるいはその事実が、消えてなくなるわけではないのです。
 
「モーセよ、モーセよ」と呼ばれたとき、それが全能の神であったわけですから、「人殺しのことを神は知っているぞ」と突きつけられることを怯えた、とは考えられないでしょうか。確かにモーセの殺人は、自分の欲望というよりは、実は自分はヘブライ人であり、自分は恵まれた環境で生きているが同胞はエジプトの人々に虐げられている、それがあんまりだというので、そのいじめているエジプト人を殺したというわけであり、言い分としては、どこか義賊的な見方ができるかもしれません。けれども、殺人は殺人です。これは消えないのです。まだ十戒を受けてはいないにせよ、世界各地で当然のことのように、殺人が最大級の罪であるということは明白です。モーセに前に現れ、モーセに呼びかけてきた神が、殺人を見過ごすようには思えないではありませんか。
 
あなたは、人を殺したことが、ないというかもしれません。でも、イエスは何と言いましたか。
 
5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
 
心の中で、人に対して「死ね」と思ったことの中に、見過ごせないものがあるのだということを、キリスト教を信じる者は知らないはずがありません。言葉でひとを殺すこと、いまの世はさらにそれが簡単にできてしまいます。ネット上での誹謗中傷は、韓国では深刻だといいますが、日本でも当たり前のように行われています。もちろん、様々なハラスメントで、DVとして、たとえ象徴的な意味であったとしても、「殺す」ことはたくさんなされているのではないでしょうか。私が、あなたが、それをひとつもしていません、と平然と神の前で言うことができるのでしょうか。私は、できません。
 
教会生活に慣れると、それなりに居心地の良い点を知ることになります。多少の失敗も許してもらえることが多く、許し合うという教えを互いに知っているので、ひとに甘えることも少なくないでしょう。概してひとを信用できる社会だと考えられるだろうかと思います。そのため、何をしていても自分は正しいのだ、というふうに錯覚する人が現れます。それはサタンによりそう誘われるということもありますが、えてして、はっきりとした「罪」の問題と向き合ったことがない人の場合が目立つのです。自分の、神に対する「罪」が何であったか、それをどうしてもらったのか、そしてまた「悔い改め」ということをどのように経験したのか、このようなことが曖昧だったり、酷い場合は全く知らなかったりした場合、難しい情況に突き進む懸念があります。
 
恐らくは、福音書に描かれた「ファリサイ派」や「律法学者」、それはイエスが強烈に批判し、最大級の敵扱いをしたわけですが、これらも自ら律法について正しく行為し、立派な生活を営んでいたというわけですから、自ら自分は正しいという自己決定の先に続く道を突き進んでいたのではないかと推測します。
 
罪や悔い改めについての意識なしに、モーセが神に呼ばれたとか、あなたと共にいるとか、これからエジプトを出るとか、その表向きのストーリーだけを楽しんで読むだけで通りすぎることのないように、と願いたいものです。
 
しかしまた、もう少しだけここから神との関係について別の景色を見せて戴きましょう。神はイスラエルの民の叫び声を「聞いた」ことを打ち明けました。苦しみを「つぶさに見た」とも言いました。そのときイスラエルの民は、神の名を呼んでいたのではなかったと思われます。というのは、モーセもその名を知らず、これから民にその名を明らかにする展開になっていましたので、苦しんでいた民は、「わたしはある」というような神を呼んでいたはずがありません。
 
この「名」というのは、古代ではとくに重要な意味をもつ概念でした。「名」は「体」を表す、などとも言いますが、その「名」はその人の人格や生命すべてを支配するものだという理解があったと思われます。これは聖書世界に限りません。名を知られた鬼がたちまちその力を無くしてしまうといった昔話が日本にもあります(大工と鬼六)し、真の名を知ることはその者自体を支配することができるという角度から描かれたファンタジー小説(ゲド戦記)もあります。だからこそ、神の名によって祈ることは重要です。
 
そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マタイ21:9)
 
わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。(ヨハネ14:14)
 
主の名によって祈る・願う、それは神が私たちに対して求めていることの大切なひとつです。「名」という実体を核に据えた形で主に向き合うならば、そこに主との関係が成立します。関係が結ばれます。その状態の中で、祈るということが初めて可能になるのです。もちろん、「名」さえ持ち出せばそれでよいということはありません。神の名をみだりに唱えるべからず、という根本的な戒めもそこから来ていると言えるでしょうし、エリヤの目の前で一日中バアルの名を呼び踊っていた預言者が戯画的に描かれているのも、これとは違うのだぞとイスラエルに教えるためであったことは容易に見て取れます。ただ「名」を口にすればよい、というのではない。それが「みだりに」にこめられているのだと捉えてよいと思います。
 
私たちは今日、神が私たちを見ていること、私たちの叫びを聞いていることを確認しました。そうすると私たちとしても、神の方を向き、神の「名」を頼りに神との関係を保っているべきであることを強く覚えました。この「私たち」とは誰でしょう。ええ、個人的に神との結びつきを私たちはもたなければなりません。モーセ個人に神が臨み、声をかけたのと同様に、私たちも一人ひとり、それぞれに一人神の前に立ち、神の言葉を受けることになるのは確かです。神と個人的に出会い、神の呼びかけを受けて応えなければならないことは間違いありません。しかしまた、神がイスラエルの叫びを聞いたというのは、モーセ個人の話ではありませんでした。このモーセを通じてにはなりますが、結局イスラエルの民全体に、主は語りかけることになります。イスラエルの民とは誰でしょう。私たちの民族、同胞としてのこの国の人々でしょうか。地球市民という視点で見たような、全人類ということでしょうか。それもよいでしょう。
 
しかし、同じ神のもとに命を与えられ導いているイスラエルの民という意味では、これを今日、「教会」への呼びかけだと自覚してみたい気がします。モーセのいわゆる「召命」を他人事とは思わず、自分のことのように捉えたいのですが、なにぶん私たち自身はモーセほどの特別な存在として立てられているわけではありません。しかし、確かに一人ひとりも呼びかけられているということ、つまり全イスラエルに神の言葉が及び、出エジプトが始まること、約束の地カナンを目指した旅が始まるということ、そこに目を移すとき、この信仰共同体としての「教会」が、神の呼びかけを受けていることを信じたいものだと思います。実際、「教会」と訳されている新約聖書のギリシア語はそもそもどういう言葉であるか、ご存じの方も多いだろうと思います。ギリシア社会では都市国家ポリスの市民集会を意味しましたが、キリストの弟子たちは、その言葉の成り立ちたる「呼び出された人々」の意味を正面から受け止めていたに違いありません。私は個人的に呼び出されたと同時に、神により呼び出された者たちとしての「教会」の中のひとつの魂であり、神の霊により生かされている存在です。あなたもまたそうであり、互いにそうであることを尊重しています。こうして互いにここにいることを、神の業として歓迎しています。モーセが呼び出された出来事を他人事とは思わず、私たちもまたいまなお「呼び出された」者だということを、今日は覚えて帰路につきたいものだと願います。



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