【メッセージ】モーセの姉の物語

2020年8月9日

(出エジプト1:15-2:10)

そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」(出エジプト2:7)
 
前回から旧約聖書・モーセの生涯を訪ねています。が、まだモーセは産まれておりません。今日産まれます。
 
旧約聖書は「創世記」に始まります。世界が創られ、生き物や人が創られ、やがてアブラハムという、信仰の祖となる人物が現れます。そこからイサク、ヤコブと物語が展開し、その子ヨセフが、あることでエジプトで出世するのでした。そのヨセフのもとに、飢饉を逃れた父ヤコブやヨセフの兄弟たちが移り住み、エジプトの地で、ヘブライ人が生活するということになりました。
 
しかしエジプトをかつて救ったヘブライ人ヨセフのことは忘れ去られ、気がつけばエジプトには外国人たるヘブライ人がどんどん増えている。そこでエジプト人はヘブライ人たちを厳しい労働環境に追い込み、虐げた、という事情がこれまで理解されました。
 
それでもヘブライ人の人口増加はエジプト人の悩みの種となりました。市民の不満が王にぶつけられたことでしょう。王は思案し、ヘブライ人がこれ以上増えないように画策します。
 
1:15 エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。
1:16 「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」
 
なんと残酷な命令でしょう。安楽死問題でさえ非難感情を伴うものであることがまた話題になりましたが、森鴎外の『高瀬舟』からも私たちは考えさせられ、手塚治虫の『ブラック・ジャック』に登場するドクター・キリコについても、医者の別の面として必ずしも即座に悪だというふうには思わせない迫力を以て描かれていました。
 
しかし、考えてみれば、ヘブライ人の助産師二人にだけ、嬰児を殺せと言ったこの王の命令は、弱すぎないでしょうか。エジプト全土には遠く及ばないし、二人が立ち会える出産というものは実に限られたものであったと思われます。政策としてはあまりに秘密裡のようではないでしょうか。だとすれば、この密約的でシークレットな殺害計画は、公のものではなかったかもしれません。
 
ところがこの助産師たちはヘブライ人です。医療従事者としても、殺すということが簡単にできるとは思えません。「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(1:17)のでした。この箇所は、信仰者にとりひとつの鑑であるようによく扱われます。「神を畏れていたので」、この世の掟でも何でも、従えないものは従えないのだ、とする信仰を貫く姿勢が称えられる、それがよくあるメッセージでしょうか。けれども今日はそちらへは進まないことにします。
 
王は、命令に背いたのではないかと二人を呼びつけます。しかし二人は「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです」(1:19)と応えます。こういうのを「知恵」というのでしょう。嘘は嘘ですし、言い逃れに過ぎないのかもしれませんが、子どもたちも自分たちをも護る知恵の言葉です。
 
1:20 神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。
1:21 助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。
 
こうして、神に従う者には豊かな恵みがあるものなのだ、と聖書はしっかり教育します。王は、もはや助産師だけへの命令ではなく、全国民にお触れを出します。
 
1:22 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」
 
これだけ読むと、まるでエジプト人の男児も殺すかのようにも聞こえますので驚きますが、恐らくはヘブライ人の男児という意味で理解してよいかと思われます。「殺す」という言葉の露骨さをエジプト人に負わせるのではなく、「川にほうり込め」としたあたり、政治的な意図を感じさせます。女の子を生かしておくのは、エジプト人のために役立つということでしょうか。ヘブライ人の男が増えることが、エジプト社会を脅かすことになるという図式なのでしょう。労働者は男であったという当時の社会を前提に理解するようにしましょう。
 
そして、ここのモーセが産まれます。いえ、産まれたときにはモーセという名前ではありませんでした。レビの家の中で男女が結婚し、男の子が産まれました。川にほうり込めというのが王の命令です。助産婦たちは「神を畏れていたので」殺しませんでしたが、このレビ人夫妻は「かわいかったのを見て」隠していたと記されています。自分の子に対する思いの熱さを覚えます。
 
しかし成長してくると、泣き声も力強くなります。3カ月にもなると、隣近所の手前、隠し通せるものではない事情が持ち上がったというのです。
 
2:3 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
 
エジプト国民として、二人は王の命令に従ったのでしょうか。「ほうり込め」を「茂みの間に置いた」と解釈して、ちゃんと法に従ったと考えたいと思います。水がしみこまないようにした籠に入れて水に浮かべる。それも見事に、川にほうり込んだことになる、と言えば言い訳が立つと考えたのではないでしょうか。これもまた、知恵ではないかと捉えたいと思います。
 
そう、ひとを助けるために、私たちは「知恵」を使います。もし法に従わねばならないとしたら、法を破ることはしない。けれども、それでもなお、助けるために「知恵」を使う。イエス・キリストが、論的に挑まれたときに逆に相手に質問をしたり、皇帝に納める税金についても機転を利かした結論を出したり、姦淫の女についても律法違反を認めつつも罰則規定を無効にしたりして、いろいろと「知恵」を働かせたと言えるのではないでしょうか。
 
実は今日、私が思い入れをした登場人物がここで現れます。この男児の姉です。後のミリアムではないかと思われますが、そんなに大きな子ではなかったと理解しておきます。でも、私の知る限り、この子の視点から世界を眺めたような人は、聞いたことがありません。でも私は、この子の存在に光を当てたいのです。というよりも、この子にとても魅力を感じました。まるでハイジのようではありませんか。さあ、ここから、この小さな女の子、男の子の姉になりきって、ここからの事態を目撃した様を描いてみることにします。
 
 
パパとママは、赤ちゃんにさようならと言った。ママは泣いていた。きっと助かる道があるから、とパパは言っていた。そして神さまにお祈りをしていた。私は赤ちゃんが好きだ。離れたくないし、別々で生きるのはいやだ。だけど、ママが言うの。赤ちゃんは男の子だから、このまま一緒にいたら、赤ちゃんだけが殺されてしまう、って。ママの目はその時も涙でいっぱいだった。弟のアロンはどうなるのか、ってわたしは訊いた。赤ちゃんだけがだめなんだって。変なきまりだこと。
 
パパとママは、しばらく祈った後、まわりに人がいないか気をつけながら、そっと立ち上がり、小さなお舟に背を向けて歩き始めた。ママは何度も何度も振り返りながら、でも途中からは両手で顔を押さえて俯いてよろよろと歩いていた。パパはママの肩を抱いて支えていた。小さな弟も歩いて行く。わたしは……振り返らなかった。あるチャンスを狙っていたから。赤ちゃんが誰か親切な人に助けられますように、ってさっき神さまに祈ったから、神さまがそのお祈りをきっとすぐに聞いてくれると思っていたんだ。だから、できるだけ普通に歩いていた。
 
ママの頭の中は赤ちゃんのことばかりで、パパはそんなママをどうしようということばかりで、わたしのことなど少しも考えていないようだった。かろうじて、弟だけ横を歩いている音がしていれば、いいんだわ。わたしはいま、パパとママの世界にいない。ううん、寂しくないわ。これはチャンスなのだから。試しに、少し歩くのを遅くして、パパとママに後れてみた。でも全然わたしの存在なんて、気にしていないことが分かった。次に、思い切って立ち止まってみた。やっぱり、わたしのことを考える様子ではない。
 
パパとママと弟の姿が見えなくなったとき、私は振り返り、さっきの赤ちゃんのところに走って行った。ううん、大きな音を立てないように、気をつけながら走ったわ。わたしの使命はいま、赤ちゃんを神さまが、どうやって護ってくださるか、見届けることなんだから。
 
見えた。水漏れしないように、昨日パパが半日かかってつくりあげた籠は、そのままさっきの茂みの陰にあって、ナイルの川岸で揺れている。赤ちゃん、暑くないかな。喉が渇いていないかな。わたしだったらもう泣いているかもしれない。誰か、早く助けて……。わたしは少し離れたところに戻った。あまり近くにいると危ないと思ったから。赤ちゃんの籠のお舟は見えないけど、どこに置かれていたかは分かる。大丈夫、ここなら誰にも見つからないから。小さい体は、身を隠すのには最適なのよ。
 
声が聞こえた。エジプトの人みたい。女の人ばかりの声だ。何か、きれいな服を着た、身分の高そうな若い人がいる。それからほかの女の人たちは、その世話をするしもべたちのようだ。あんな素敵な人に助けられたらいいな。神さま、どうかあの人が赤ちゃんを見つけますように。そして、あの人が、いい人でありますように。
 
水浴びのために来たみたい。きれいな体だ。仕えの女の人たちが辺りを気にしている。そしててきぱきと、水浴びの段取りのために動いている。ところが、何か慌ただしい雰囲気になった。仕えの女の人たちが、高貴な方の指示を受けて、同じ方に向かって進んでいく。赤ちゃんの方だ……と思う。ああ、神さまは、わたしの祈りを聞いてくださったのだわ。
 
わたしは、少しだけ近くに行こうとした。いや、できれば赤ちゃんのところにまで行きたい。行って、この子を助けてください、ってお願いしたい。でも、わたしも説明された事情は知ってる。いまわたしたちのヘブライ民族の男の赤ちゃんは、殺されなければならないきまりの中にあるの。だから、この子はヘブライ人ではありません、って言ってやったらいいかな。そうしたら、かわいそうに、って助けてくれるかな。
 
赤ちゃんの声が聞こえた。蓋が開けられたんだわ。泣いてる。まだ元気だ。よかった。わたしは近づいていく。きっとあれは王女さまだよ。以前、一度だけ見たことがある。王様のパレードで、王様と一緒にいた人に似ている。いや、確かにそうだ。この辺りで、あれだけ高貴な若い女の人といえば、王女さましかいないと思う。何か言っているわ。近づいたら、そろそろ聞こえてきそうだ。
 
「これは、きっと、ヘブライ人の子です」
 
あちゃー。ヘブライ人の男の子だと分かっちゃった。駄目だ、殺される。どうしよう。神さまは、ここまできて、赤ちゃんを酷い運命の中に突き落とすの? ううん、そんなことをなさる神さまじゃないわ。まだ望みはある。そう、ヘブライ人の男の子だよ、でも、もしあの王女さまがいい人なら……そう、顔が見えてきた。慈しむような眼差しで、赤ちゃんを見ている。あの人は、子どもを殺すような方ではないわ。助けてくれる。きっと、助けてくれる。ああ神さま、ありがとうございます。わたしはもっと近づいた。
 
待てよ。そのとき私の頭の中に、すてきな計画がひらめいた。それはもううっとりしそうなくらい、夢のような計画だった。泣いていたママの姿が頭に浮かんだの。ママは、もうあの子を抱けないのだと泣いていた。ううん、わたしはそのとき、ママの気持ちとひとつになれなかった。わたしは神さまの方を向いていた。神さまのほうを、もっと信頼していた。神さまは、ママと赤ちゃんとを、別れ別れにさせるようなお方じゃないんだから。わたしの神さまは、そんな方じゃないんだから。
 
わたしは自分が危険であることをも気にしないで、すっくと立ち上がった。そしてぱたぱたと王女さまのところに駆け寄った。みんながわたしを見た。何人かは口を開けて、そして王女さまは目を見開いて。わたしは駆け寄って、赤ちゃんを見た。
 
「赤ちゃんなんですね。ここにいたんですか」とわたしが、まるでいま初めてこの子を見たみたいに言うと、王女さまは、「そうらしいの。かわいそうに、なんとか助けてあげたいわ」とわたしに言ってくれた。優しい人だ、と思った。うん、この人なら大丈夫。神さまが選んだ人なんだわ。「でも、助けようにも、おっぱいを飲ませることができないと、赤ちゃんを助けるなんて、口先だけのことになるわよね」と王女さまは言って、顎に拳を置いた。わたしは、必死で説明した。「います、知ってます。おっぱいが出る女の人を知ってます。ヘブライ人の女の人です。連れてきていいですか」
 
王女さまの顔がぱあっと明るくなった。「本当に? その人は近くにいるの? 連れてくることはできる?」と訊かれて、わたしは大きく肯くと、「少しだけお待ちください」と頭を下げて、踵を返して走り始めた。今度は全速力が走った。うれしさというのも何か違う。必死で任務を果たそうとする兵隊さんだったら、こんな気持ちになるんだろうか。
 
「ママー、ママー」と叫びたかったが、わたしは大きな声を出すのをためらった。王女さまに聞こえるかもしれないからだ。パパとママは、まださっきと同じような姿でとぼとぼと歩いていた。弟は何にも分からないふうに、ただその横を歩いていた。わたしの足音で、パパとママは振り返った。そしてひさしぶりに、わたしのことがママの胸に入ってきたの。「何を走っているんだ」とパパが言った。怖い顔ではなかった。「あのね、赤ちゃんね……」わたしは説明した。パパとママは一度顔を見合わせて、それからわたしの話をもっと聞きたがった。
 
パパは、王女さまの前には行かないことにした。アロンの手を握り、離れたところで待つことにした。ママは涙でくしゃくしゃになった顔を整えた。もう一度、別の涙が出て来そうになるのを堪えて、これから人生最大の大勝負に出るのだと口にして、気を引き締めていた。わたしとママは、戦友になった。
 
「この人が、乳を出せるヘブライ人の女です」とわたしは王女さまの前で跪いて説明した。ママはひれ伏すように王女さまの顔を見ることもなく、そこにいた。いいぞ。「そうか。ここで男の子を拾ったのだが、なんとも可愛い顔をしておる。いま父上がどんなくだらない法律を出しているか、はわたしも知っている。こんなかわいい子の命を好き勝手にしようだなどというのはもってのほかだ。ただ、あいにく私が育てることは無理なので、どうだ、そなたがわたしの代わりに、この子を育ててやってはくれぬか」と王女さまは言った。ママは顔をまだ上げずに、「このような者でよければ、なんなりと」と返答した。「そうか。それならば、この子の命は、王女の名によって守らべるべきものとする。手当も出そう。必要な費用は請求するがいい。連絡先は教える。そうだな、名前を付けねばならない……」と言って、王女さまは少し、その葦の茂みのほうを見つめていたが、肯きながら続けた。「そうだ。まずわたしが、葦の茂みにあった籠を見つけたわけで、そこから引き出して拾い上げたのだった。水の中から引き上げた(マーシャー)のだから、「モーセ」というのはどうだ。モーセという名の子どもについては王家の名にかけて、命が守られるものとする。
 
ママは泣きながら、モーセを抱いて、パパの待つところに戻った。うれしかったのは間違いないのだけれど、ママはすっかり泣き虫になった。でも、ここに来てから最初にこの場を去るときに見せた涙と、二度目のいま流す涙とは、全然違うということくらい、子どものわたしには分かっていた。でも、とにかくわたしは、赤ちゃんがまた一緒にいること、それがやけにうれしかった。もちろん、生きてさえいれば安心してよいのかもしれないけれども、きょうだいだもの、離ればなれでいるよりは、一緒にいるほうがいいに決まってる。
 
 
子どもにしては、ずいぶんと知恵のあること。モーセの姉ミリアムの幼いときの体験を、精一杯脚色してお伝えしました。後に、出エジプトの神の栄光を称えた、聖書で最古の詩ともいわれるものを歌った、女預言者ミリアムとはこの人のことであり、アロンはその弟、さらに弟がモーセでありました。
 
低い視点から世界を見ると、このようになるというひとつの空想物語を展開したわけですが、聖書の記述を基にしていますので、あながち嘘だとも言えないでしょう。聖書の物語の、ある登場人物になってその世界を体験する、というのは、無料でできる空想ゲームです。でももちろん、ただの遊びではありません。それは本当に、貴重な経験になるのです。神の言葉は、人の口先から出るただの言葉とは違って、命を与えます。それはつまり、現実のものとなる、ということです。実際の出来事になっていく。ならば、神の物語を私たちが――そう、『はてしない物語』の中で、弱虫バスチアンが勇者アトレイユになったように――体験することで、私たちの中で出来事が起こるということがあるはずです。
 
今日、ここからお帰りになるとき、悲しんでいる誰かを助けたい、という気持ちに、あなたはなるでしょう。また、神さまはきっと助けてくれる、と祈りたくなることでしょう。そうして、何かいい知恵はないかしら、と諦めずに考えるようになるでしょう。それでよいと思います。それだけで、十分あなたは、聖書により生かされた体験をした、ということになるのです。できるだけ具体的に、想像の翼を広げて、今日も明日も、聖書の中に飛び込んでみましょう。もしまだ、主イエスと出会ったことがない方がいらしたら、きっとそこで出会うことができると信じます。



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