主は近い

2020年8月8日

聖書の言葉が与えられるとは、おみくじでも引くように、聖書をパッと開くという意味ではありません。それを全否定はしませんが、そういうものだと理解するのは適切でない、という意味です。それは、ふと頭に浮かんだ言葉でもいい(それだけ聖書に親しんでいることが必要になる)のですが、何かしら聖書日課のような既成のプログラムを頼りにしても構わないとは思います。通読でもいいし、検索で出合ったもの、また本を読んでいてそこで触れたもの、いろいろあることでしょう。
 
この聖書の言葉は、今日――いま、私に何を示そうとしているのだろうか。問題はそういう意識でありましょう。説教のアイディアは、そういうところから始まると思われます。自分に与えられた神からの言葉と、それにレスポンスして自分の内から沸き起こってきたひとつのメッセージ、そこに説教が成り立つし、それは必ずしも壇上で数十分かけて話すものでなくとも、自分の中から外へ発されたのであれば、そして神の言葉が現実になっていく、出来事となっていく姿であるならば、説教と呼んで構わないだろうと思うのです。
 
どこかで聞いた、誰かの話を語ることが説教なのではありません。有名なクリスチャンの逸話を語れば説教になると勘違いしている人もいますが、語る者の中に起こった出来事がまるでないという不幸な事実は、霊の耳をもつ者からすれば隠しようがありません。聖書に書いてあることを、ちょっと解説を入れて説明することだと勘違いしている人もいます。これも同様です。教科書を説明することは、説教ではありません。政治批判や社会評論を入れたところで、説教になるわけではありません。たとえ間違ったことを喋っているのではないにしても、そこに「命がない」のです。
 
私たちは、いま妨げられていますが、礼拝のために教会に集まります。でも、それは私たちが好んで集まるというよりも、神のほうが、私たちをわくわく待っていらっしゃるような気がしてきました。神が私たちを期待しているに違いない、と。いまリモートを余儀なくされている教会も多々ありますが、それもまた神が私たちを待つひとつの道として受け止めたいと願います。もちろん、リモートでそれでよいのだ、と胸を張るつもりもありません。大切なことは、私たちの心が、一つとなって集まっているだろうか、ということです。それを問うてみることです。
 
牧師を通じて語られる言葉が神の言葉であるならば、それにつながっていると言えるでしょうか。あくまでも主人は神であり、キリストという点を外すことなく、しかし言葉が命であり、神のひとつの現れ方だということを強く覚えつつ、それにつながっているでしょうか。そのときの感覚が、「主は近い」という言葉を確かなものにすると信じます。
 
[再臨の]主は近い。(フィリピ4:5,岩波訳)
 
この訳はわざわざ[再臨の]と意味を補っています。新共同訳だと「主は近くにおられます。」となっており、こうすると、いまこの近くに主がいてくださるというふうに受け取るように導かれているような気がします。つまり、前後がこのようになっています。
 
4:4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
4:5 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
 
再臨や世の終わりとして受け止めることもできると思われるし、いまこの時のことに絞って理解することもできるように思われます。時間的に、あるいは空間的に、というようにしか私たち人間には直観できないのですから、どちらかに限定してしまいがちなのも仕方のないことでしょうが、それでも私たちは時間と空間を比喩的にしろつながったものとして捉えることがしばしばあります。「遠い未来」は空間的距離を示す言葉を時間に適用していますし、「すぐの距離」となると、時間の言葉で距離を示すこととなります。再臨とした訳は時間的強調から「主は近い」と言っており、近くにおられるとした訳は、空間のほうを強調したかのように見えます。
 
どちらにせよ、主は近い。距離を表す言葉ではありますが、いま述べたように、時間にも適用可能です。「主は共におられる」という、聖書の強力なメッセージを私たちが握り締めるなら(説教を聞くときにも、神の言葉を握り締めることを望みたいものです)、「近い」どころではないかもしれません。けれども、親が横で手を繋いでくれて安心している幼児の心境よりは、いつでも助けてくれるだけの距離を置いて親がいるという安心感が、結局自分の遊びができたり冒険ができたりする、幼児にとっての生き生きとしたひとこまには必要であるような気がします。「主は近い」でもよいのではないか、と。
 
そうです。私たちはいま、人との互いの距離をとるような情況に置かれています。迂闊に近づけない、それはもちろん自分を守るためでもありますが、それより恐らく心ある人が優先しているのか、自分が他人に感染させないようにという配慮であろうかと思います。そのために距離を取る、「ソーシャル・ディスタンス」という語が合い言葉となりました。WHOが推奨しているのは「フィジカル・ディスタンス」のほうです。社会的な孤立を招きかねない表現を避け、物理的なという事実だけを示せばよいということのようです。ともあれ、神はこのような「ディスタンス」を破っています。無視し、超越して臨んでくる、それが神です。神は私たちに迫ってくるし、私たちもその期待に応えればよいだけのこと。私たちが距離をとっている場合ではありません。神は言葉で迫ります。神は「フィジカル・ディスタンス」を打ち破ってきます。死をも打ち破り、隔ての壁をなくしてしまいます。
 
ほんとうに、「主は近い」のです。



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