生きているだけでいい

2020年8月6日

私は親の本音として、子どもに、生きていてほしい、ということを第一に願います。何ができてもできなくても、失敗してもどうであっても、生きているだけでいい、そう思うことに嘘はないつもりです。けれども、そんなことを言ってはいけない、という意見があります。
 
生きているだけでいい。そう子どもに言ったら、ぐうたらになるかもしれません。
 
そもそも子どもに期待をしすぎて圧迫してはいけないということで、親は口では、生きているだけでいい、というようなことを言うかもしれないから、それは言わないほうがよいのではないか、との教育的アドバイスでした。
 
子どもにしてみても、何も期待されていない、というふうに受け取る可能性があったら、がっかりするかもしれません。その辺り、その子の性格や親子関係、また普段の言葉のやりとりなどによっても、いろいろ変わってくるでしょう。いつでも誰にでも通用するようなお手軽なマニュアルといったものは、ないと言うべきでしょう。
 
一定の信頼関係がある場合、生きているだけでいい、という言葉は、むしろ子どもにとりやる気が出てくる、というようにも考えられます。無用なプレッシャーを親がかけることなく、失敗してもいいんだよというような含みをもち、なおかつ大切なのは君の存在そのものであって、君が何をするか、何ができるかということで君の価値を量りはしない、という中での信頼感という意味です。
 
そのとき子どもはのびのびと自分のしたいことに勤しみ、いっそう努力して、力を発揮していく、という場合もありうると思うのです。
 
パウロは、こうした様々に受け取られるアドバイスのことで、いつも悩み、また言葉を選びつつ、手紙を記しています。君たちは罪の下にない、と言い切ってしまえば、もう何をしてもよいと羽目を外すようなことはあるまいか、それは違うよ、といった具合です。
 
パウロがどうということはともかく、ただ信じることで救われるのだ、とか、さらにどうかすると、神はすべての人を救うのだ、とか言ってしまうと、ぐうたらになってしまうという危険性があることは否めません。ひとは、自分の都合のよいように、ひとからの言葉を解釈してしまうことが得意だからです。
 
しかし、聖書が概ね期待していることは、神との関係の中で、救われているというイエスの宣言が、その人を立たせ、罪から離れた生活へと解き放たれていく場面を描き、そのことを読者に理解してほしいというようなことではないかと私は思います。
 
君を信頼しているから。この親の眼差しを子どもが適切に受け止めると、子どもはその信頼に応えるべく、精進していくものだとすれば、信仰においても、イエスが私たちに向けて「君を信頼しているよ」と呼びかけているスタートに、私たちも応えていくということが望ましいと言えるでしょう。新しい聖書協会共同訳で話題になっている、近年のひとつの傾向、「イエス・キリストの信」の問題も、ここに関わってきます。かつて「イエス・キリストを信じる信仰」と必ず説教していた箇所が、「イエス・キリストが私たちを信じている」意味の訳に変わったことで、従来の説教がすっかり変貌してしまうことになりかねないのですが、私は至極自然なことだと理解します。この属格の曖昧さは、互いの信頼関係を支えるためにあったとして、信頼された私たちの「やる気」が望ましいものだと、立ち上がりたいと思うばかりです。
 
なお、このように書いているとき、私の頭の中にあるのは、映画「おおかみこどもの雨と雪」の終わりのほうの場面です。母の花が、雨を山の中に送り出すところです。ネタバレはしないようにしておきますので、親たるものの思いの満ちたこのシーン、世の親の方々に見て戴きたい。私はこれでずいぶん心が助けられました。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります