【メッセージ】平和な生活が与えられますように

2020年7月26日

(テサロニケ二3:1-18)

どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(テサロニケ二3:16)
 
テサロニケの信徒への手紙のパート2。共に読んできて、早くも最終回となってしまいました。手紙の最後の章を開きます。「終わりに」と言ってからがそこそこ長いのですが、書簡という形式から、それなりに「終わる」という方向へ進むのだろうと思います。
 
3:1 終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。
 
私たちも、別れの挨拶で、「祈ってください」ということがあります。良い関係なのだろうと思います。「祈っていますよ」という声は、もしかすると社交辞令としてもかけやすいかもしれませんが、「祈ってください」と願えるというのは、信頼関係があってこその依頼であるような気がします。この「祈ってください」の内容は、神がそのようにしてくださるように、と神の方を見て言うべき内容だとすると、次の言葉で面白いことに気づきます。
 
3:2 また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。
3:3 しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。
 
この2つの節で、「わたしたち」と「あなたがた」とが対比されています。「わたしたち」は「道を外れた悪人」から「逃れ」たいことを表明しています。他方「あなたがた」については、「悪い者」から「守って」くださる神を信頼しています。よほど悪い奴がいたのでしょう。しかし、「すべての人に、信仰があるわけではない」と言っていたのは、キリストを知らない、信仰のない人々により、「わたしたち」は危険な目に遭うという情況を踏まえて言っていたはずです。当時「キリスト教」という言葉はありませんでしたから、しばしば「道」という言葉が用いられました。「道」が「キリスト教」であり、また「宗教」を指すようなものでした。ですからここで「道に外れた悪人」というのは、アウトローであるかもしれませんが、キリスト教信仰を知らない人々を頭に置いているのだと捉えてみたいと思います。「あなたがた」にしても、その方向性を保ったまま、守られることを信じているような言い方をしていると理解してみます。
 
すでに「不法の者」のことに触れていました。世の終わりには「不法の者」が現れるはずだ、として、滅びるべき人間を抜き取っていくのだ、と忠告していました。確かに、この書簡も、第一の手紙と同様に、世の終わりについて触れています。けれども、第一のときの、いますぐにでもキリストが再臨して世の終わりがくるに違いない、という切迫感が、どこにも感じられません。むしろ、いますぐ再臨はないから落ち着いた暮らしを続けなさい、というような読むしかないよう述べ方ばかりしていました。これら2つの書簡は、同じパウロが書いたのではない、と理解する研究者がいまは多くなりましたが、それというのも、このような大きな変化を、同じパウロからしかもそう時間差のない中に出て来たとは認めにくいと思われたからでもありました。
 
パウロかどうかということは別にしても、少なくとも、第一の手紙のときに、いますぐに世が終わるという忠告を与えていたテサロニケの教会に対して、今度は、いますぐではないから落ち着いた生活をせよ、と呼びかけているのは確かでしょう。
 
キリスト教に関する世界でも、この終末がいつくるのか、というのは大きな関心をもつものでした。この世ではない神の国があって、理想の園が与えられる、キリストがもう一度この世に来て、裁きを完成するのだ、というのは聖書に描かれている将来の真実だと信ずる教会は、それが「いつであるか」という情報がないことを気にしていました。だからこそ常に目を覚ましていよ、というように新約聖書を読み解くこともできますが、それでも人間ですから、「それはいつなんだろう」と関心をもちます。「怯える人もいたかと思いますが、いつまでも決着のつかないこの世界のいざこざや争い、また迫害などを目の当たりにして、早く神さまがケリをつけてください、と願う気持ちは、確かに正直なものであっただろうと思います。
 
しかし、いわゆるカルト宗教と称されるような集団は、世の終わりがなかなかこないことからくる不安を背負いきれず、いついつにキリストが再臨する、と予言をするようなことをして、信徒の不安や恐れを、熱狂的な信仰に変えようとすることがありました。歴史の古くからは、「モンタノス派」がよく知られています。紀元150年頃に小アジアで生まれたグループで、禁欲や修行に励み、世の終わりに備えました。熱狂的な信仰はその後も何百年か続いたのではないかとも言われていますが、このような運動は、キリスト教世界では時折発生する定番のものでした。
 
セブンスデー・アドベンチスト教会が生まれたとき、ウィリアム・ミラーがキリストの再臨を1843年と決め、熱狂的な運動があったと伝えられています。もちろん、そのようなことはなく時は過ぎ、失望した信徒は教会を離れましたが、実は天上で新しい時代が始まっている、といった説明に切り換えたのだそうです。
 
エホバの証人も有名です。1870年代に始まったと言われるこのグループでは、20世紀初めにさかんに、何々年に何々が起こる、と予言していました。その後もその傾向は止まないようですが、それは予言ではなく推量であるなどと説明をしていると聞きます。この考えが唯一正しい、という態度を崩さないその自信がどこからくるのか、不思議ではあります。
 
あまりに酷いので逐一挙げませんが、日本の末法思想とも比較するわけではないにしろ、この世界について不安が漂うと、このように「終末」が時折人々にパニックを呼び起こし、財産を全部売り払って終末に備えてその後裁判になる、というくらいならまだいいほうで、集団自殺や大虐殺さえ起こっているのが現実です。世の終わりへの恐怖は、人間にとてつもなく残酷なことをさせることがあることを知っておかなければなりません。
 
テサロニケへの第二の手紙も、何らかの形でこのような熱狂思想を懸念したのではないか。そのために、第一の手紙のときのパウロが急き立てたように見えた、終末思想を抑制するメッセージを書いたのではないか。どうか落ち着いた生活をしてくれ、日々静かに神を信じ、善いことを大切にするようであってくれ、と教え諭す様子がここに見られるように思えてなりません。
 
手紙はこの最後に来て、怠惰を戒めています。
 
3:6 兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。
 
ちょっと聞くと、とても健全なことを言っているように思えます。この福音を伝えた者、つまりはパウロを想定しているわけですが、怠惰な生活を自分たちもしなかったのだ、などと言って、「だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けた」と自負を見せます。そしてそれは模範なのだ、そのようにせよ、と言うのです。
 
3:10 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
3:11 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
3:12 そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
 
「働かざる者食うべからず」。昔は子どもの口からもよく出ていた、有名な言葉です。誰が言い始めたのか、知らないのですが、日本人の間でさかんに言い合う可能性のある言葉であるように思いませんか。なんでも、この新型コロナウイルス問題においても、4月12日に報じられている記事によると、J党の政務調査会で、若手議員から「休業補償を実施すべき」との意見が出たところ、「働かざる者食うべからず」と自己責任論を振りかざす議員が圧倒的多数であった、というのです。
 
いま政治についてとやかく言うつもりはありません。聖書由来と思しき言葉が、どんなふうにでも解釈され、利用されるということに、恐ろしさと憤りを禁じ得ません。そう、この言葉がいまありましたね。
 
3:10 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
 
表現が少し違うと、与える印象も違うような気がします。「働きたくない者」あるいは「働こうとしないもの」というように、意志か熱意のようなものがない様子が想像されます。単純に「働かない者」と言ってはいないことには、注意しておかなければなりません。
 
それでも、現代の私たちは、ここに何かしらスッキリしないものを覚えます。これでは、障害者を役立たないとする考えや、女性を産む機械のように扱う一部の政治家の思想と、同じように響くかもしれないという気にならないでしょうか。
 
確かにここには、「働けない者」とは言っていません。障害者も「働きたいけど働かせてもらえないのだ」などと理屈をつけて、聖書を擁護する人もいます。しかし、当時「市民」と呼ばれる特権的な人々は、自ら「労働」をしないのが普通で、それはむしろ「奴隷」の仕事とされていたような社会常識があったとすると、「働く」ということの意味することが複雑に感じられてくるのです。テサロニケの人々は庶民であったので、たとえ奴隷ではないにしても、働くことを普通にやっていたのだ、というようにも考えられるでしょう。けれど、先ほどこんなことも言われていました。
 
3:11 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
 
「余計なこと」とは何でしょうか。この人は、何かをするのです。何もしないわけではないのですが、適切な行動ではなく、やっても無駄なことや不要なことをやりすぎるような有様だということのようです。確かに「怠惰」というと、何もしないで一日中ごろごろとしているような印象を与えます。しかし何かしていると「怠惰」とは呼ばないでしょう。それでも、そのやっていることが無駄なこと、しても意味のないこと、あるいは害悪であること、そうした場合を指しているのではないかと考えられます。さらにこの書き方だと、怠惰であるその上に、いらないことをしている、というふうにも窺えます。
 
しなければならないこと。でもそれをせずに、いらないことをする。耳が痛いですね。私など毎日毎時、それに近い生活しかしていないような気がしてきます。学生時代には、テスト期間になると、むしょうにマンガが読みたくなって、試験中に『ブラック・ジャック』を全巻読破、などということもしょっちゅうでした。まさに、「余計なことをしている」のでした。
 
書簡はここで、労働問題を言っているのではないだろうと思うのです。落ち着いた生活をせよ。キリストが再臨すると慌てふためいて、パニックに陥るな。この路線が、この書簡の要だとすると、それと響かせて聴き取るのが筋ではないかと思うのです。つまり、この世がどうせ終わるなら、と何もしなくなったり、逆にどうしようかと不安からうろたえて、それこそ近代の終末パニックのようになったりすることを、強く戒めているように読むのはどうでしょうか。「余計なこと」とは、そのようなパニックにつながること、考えなくてよいような心配に心が襲われて、もっと大切な信仰の柱を見失ってしまうこと、そのように人々を不安な自分の慌てふためきに巻き込んでいくような余計なことをするな、と注意を促しているような気がしてならないのです。
 
むしろ、「善いことをしなさい」と呼びかけています。慌てず、明日世界が滅びようとも今日の仕事を淡々と引き受けて為すがよい、という心境でしょうか。そのためには、教会の仲間が落ち着かなくなって、パニックになろうとしているのを、鎮めるというのも大切なこととなります。
 
3:14 もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。
3:15 しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。
 
できるなら、関わりをもち続けるとよいのです。でも、どうしてもどうしようもない反応をする者がいることが予想されます。恐らく、本当にいたのだろうと思います。この世の終わりだ、と言うことを聞かなくなった人々が。書簡の忠告を聞き入れる、まだ健全な人々であれば、そうしたパニックに陥った人を必要以上に説得したり、落ち着かせようとしたりすると、逆に危険になるかもしれません。但し、それを「敵」だと見なさないように扱うのがよい、「兄弟として警告」するのがよい、と伝えています。これも健全な判断であろうかと思います。これは、この章の初めに、「道に外れた悪人」や「悪い者」と呼んだ対象とはだいぶ違う扱いです。こうした「悪い者」からは逃れなければならないし、そこから守られることを願わなければなりません。しかし、怯えて足元が不確かになった者は、たとえ手に負えなくなったとしても、こうした敵ではなく、あくまでも兄弟として扱い、静かに警告を与えるように努めるべきなのだ、と考えているのです。
 
手紙は最後に、お決まりの言葉を並べて閉じようとしていますが、しかしここで目を留めておきたい文があります。
 
3:16 どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。
 
平和を、主が与えてくださるように。よく知られているように、イスラエルでの「平和」は、何事もない穏やかな田園風景のような平和を指す考えではありません。争いや対立、あるいは分裂などを経て到達できるようなもの、努力してつくっていく必要のあるものです。それでいてさらになお、主が初めてもたらして実現するものです。
 
キリスト教を理解しない人々からの迫害があれば、そこから平和でいられるように。キリスト教を考えすぎるあまり、地に足の着かない日々を送るようになった仲間には丁寧に諭しつつ、落ち着いた平和な生活を続けることができるように。こうして「平和」を求める思いが、ひとつの書簡を以て、いまなお響くメッセージを遺してくれました。そしてさらに現代社会で言うならば、「働く」という表現を、決して「賃金労働」の意味にはとらないで、その人がひとりの価値ある存在としてそこにいるのであるかぎり、「働かない」などと他人がとやかく言わなくて済むような、お互いの関係があれば、と強く願います。そこまでも含めての「平和」な生活が、いついかなる場合にも、神の名のもとにつながる私たちに、与えられますように。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります