【メッセージ】不法の秘密

2020年7月19日

(テサロニケ二2:1-17)

不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。(テサロニケ二2:7)
 
この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。(テサロニケ二2:4)  
 
キリスト教は、いまを苦難の中にあると捉えます。イエスの時代も、民衆は喘いでいました。ひとつには、ローマ帝国の圧政の中で、ユダヤ人としての自由が制限されていたこと。信仰については当時は比較的寛容に扱われていましたが、政治的に抑えられていることは快くありませんでした。もうひとつは、ユダヤ人の中でも、エリート組に入れていなかった人々です。律法を守る生活のできる知識階級、祭司階級が、そうでない人々を罪人呼ばわりし、政治的にも精神的にも抑えつけていた社会状況があったとされています。
 
イエスは、そのどちらの苦難をも乗り越える道を生みだしたといえます。ローマの圧政から抜け出してイスラエルの王の国へと希望をつなぐようにしました。事実三百年ほどたつと、このローマ帝国がキリスト教のいわば支配下に入るような形になります。また、イエスは常に虐げられている人々のそばにいて、癒し慰め助けるはたらきを続けました。そのために、エリートたちにより命を奪われてしまいますが、復活という形でイエスの教えが決して死なないことを人々に遺します。
 
聖書は、イエスの復活後にまとめられていきますが、その頃は教会がつくられ、教会の現場に見合った記録と教義が定かにされていくことになります。執筆もその頃ですから、必然的に、その教会の実情に見合ったものが書かれていくことにもなるでしょう。そこで、苦難の第二段階がそこにあることに私たちは注目しなければなりません。今度はキリストの弟子としてのグループが、従来のユダヤ人たちに弾かれていくことになるのです。使徒言行録には、パウロがいわば過激にキリストを語り、ユダヤ人たちを非難したために、度々命を狙われ、追い回される様子が描かれています。
 
しかしまた、パウロが伝えた地域は、いわゆる異邦人社会という、ユダヤ教の支配する範囲ではない場合もあり、そこでは、キリストの弟子として伝える者が、ユダヤ教の色濃い教え方をして、パウロを怒られることもありました。また、ローマ帝国からの圧力などもあったことだろうと思います。
 
このように、同じ「苦難」と言っても、苦難の受け手と苦難の加害側とでは、ずいぶんな相違があり、一概にこれが苦難だと示すことは難しくなります。聖書が苦難を乗り越える知恵やアドバイスをしていても、すべて同じように受け止めるわけにはゆかなくなるため、研究は必要でしょうが、あまりに他の捉え方を排除したようなものではあってほしくないと思います。
 
このことは、逆に言うと、私たちの「苦難」にも聖書の言葉が活きてくるという慰めにもなります。私たち現代人の、しかもこの日本などにおいての「苦難」というものは、当然聖書時代のそれとは違います。重みがない、と見られるかもしれないし、性質が違うから、と関係ないような目で見られることがあるかもしれません。けれども、私たちが、そして一人ひとりまた異なるような「苦難」についても、こうした聖書の言葉が助けになる、という希望をもちゃんと残されているのだ、と捉えてよいのです。むしろそうしたいのです。
 
テサロニケの手紙の第二章は、この世の終わりを見据えた内容になっています。けれども、終末論により慌てたり恐怖に包まれたりして、いわば訳の分からない行動をとるのではなくて、そこから落ち着いたこの世での生活を見つめること、落ち着いた生き方をすることが、結論として求められています。これを見落としてはなりません。
 
そう、これまでキリスト教と名のる集団が、度々終末論を勘違いして、いついつにこの世が終わる、などと言って、信者を惑わしてきました。ここには挙げませんが、中にはそのために全財産を捨てたり、集団自殺のようなことをしたりするという、悲しいことも実際起こりました。また、この世の終わりが予言した時に来なかった故に、何度も終末を設定し直すなどの、ちょっと無様な姿をさらけ出したグループもありました。
 
テサロニケの信徒への手紙の第一のものは、確実にパウロが書いたものと研究されています。それはパウロ書簡の中でも初期のもので、パウロ自身、キリストが再びこの世に来て審きをなすのだという緊迫感に溢れていた頃でした。だから直ちにキリストを信じ、身を慎み終末に備えよという思いが溢れていました。続いて同じテサロニケの教会に宛てられたこの第二の手紙では、同じように終末を扱っておきながら、少し温度差が違うように見受けられます。つまり、先に終末がすぐにでも来るというような手紙を第一のものとして送っていたから、必ずしもそうではないから、この世界での生活を落ち着いてやりなさい、というような角度のものに転じているのです。これをパウロ自身の変化と見る研究者もいますが、第一の手紙を修正する目的で別人が書いたのだろうと考える研究者のほうが有力になっているのがいまの研究状況であるようです。
 
そうした裏事情はともかくとして、私たちの「苦難」にどのように関わってくるのか、どのように助けてくれるのか、これは聖書に向き合うときに、私たちが必ずチェックしなければならない大切なスタンスの一つであると言えましょう。そこで、およそのこの手紙の二章を辿ることは重要です。
 
2:2 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。
 
気づかないうちにキリストが来て、天国に連れて行かれる者がもう選ばれてしまった、みたいな噂が実際にあったのでしょう。でも、騙されてはならないと手紙は注意を促します。
2:3 だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。 
2:4 この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。
 
騙す者はここで「不法の者」「滅びの子」と呼ばれています。ユダを連想させるような言葉ですが、このとき「反逆」が起こります。謀反のようなイメージですが、要するに神に抵抗して立ち上がるわけです。ここでは「反抗」「傲慢」「自分こそは神であると宣言する」という姿で伝えようとしています。
 
これがいつか定めの時に現れて、それから世の終わりになるというのです。しかし、いまはまだ抑えられています。その時はまだ来ていないというのです。ただし、
 
2:7 不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。
 
というように、「不法の秘密」はいまもちゃんと存在しているといいます。「秘密」は「ミステリー」のことです。救いのための「ミステリー」というのも聖書にはあります。隠されたことで、普通は気がつかないが、気づく人は気づき、またキリストに出会って霊を受けた者はそれを知り体験することができるというのが、その「ミステリー」です。この法に反した者たちのことについても、そのように目を覚まして見抜くことができるようになりましょうというような話であると考えてよいのではないかと思います。
 
ここから細かく見ていくと、ちょっとオカルトめいてくるかもしれませんが、おおまかにだけ掴んでおくと、やがて定めの時が来て、世の終わりには、その不法の者が現れる。サタンの働きにより現れるのであり、偽りの奇蹟やしるしをも示す。不思議な業を行って人々を惑わそうとする。実際惑わされてしまう者も現れるだろう。それは不義を喜ぶような者だったわけで、いかに表向き神を信じているような顔をしていたとしても、中味は違ったということがばれてしまい、審かれる側にまわってしまうのだ、と指摘します。この者たちも共に、そしてもちろんその大将としての不法の者たちも、真理を愛する者ではないので、主イエスがやっつけてしまうことになる。このように手紙は告げています。
 
そして13節からは、だから、本当に主に愛されている皆さんは、心配はいらない、と安心させます。大丈夫、救われますよ、私の福音を聞いて従っている限り、何の心配もいりません。私の伝えた福音をよく聞き、それを守りなさい。このように、結局手紙のぬしが、自分を信じろと言っているような形で、この箇所が閉じられることになっています。結局この手紙は、このことが一番言いたかったということになりますが、いまは手紙のこの後のことは取り上げないようにします。ここまでのところにどっぷりと浸かるのが、いま私たちに与えられた課題であるということにします。
 
ここまで聞いて、どうでしたか。怖くなりましたか。あるいは、「不法の者」とは誰だろう、というように想像を巡らせましたか。世の中で悪いことをしているあのグループかしら。あんな人もこの仲間だな。そんなふうに、思い当たる犯罪や困った人々が頭に浮かんだのではないでしょうか。
 
確かに、人を裁くな、とクリスチャンは戒められています。だから、これは誰それだ、あいつは悪魔だ、そんなふうな目で見たり考えたりすることは厳に慎まなければならないと、多くのクリスチャンは考えています。けれども、私たちはつい、思うのです。社会での犯罪を見たとき、あるいはSNSでとんでもないことを言っている人を見たとき、この人は悪魔の側だ、みたいに。
 
「正義感」、と耳にすると、よいことだと思ってしまうのですが、この「正義感」が、何かしら違った姿で世に見られることが、時折問題になります。とくにこの新型コロナウイルス感染症の嵐の中ではそうです。そもそも「自粛」という歪んだ支配構造が問題でした。政府は自ら強制しないことによって、人々が互いに監視し合う環境をもたらしたのです。「五人組」や「隣組」が拡大した形でつくられたようなものです。「マスク警察」が現れ、様々な事情も、そして時に正当な理由により外している場合でも、マスクをつけるのが正義だと圧力をかけてくる風景が各地に見られました。
 
また、SNS社会が動きを加速する場合もありました。簡単に意見を表明できるだけに、自分が発する言葉の重みを考えず、直情的に思い込みを次々と発してしまいます。ひとを傷つける言葉も平気で吐けるような環境ができていました。議論ならば言葉を選びます。また、相手の反応を確かめながら言葉を繰り出していきます。しかし世界を画面の向こうに見て、恰も自分が世界の王にでもなったかのように、気にくわない者には鉄拳制裁をするべき、いとも簡単に、短い言葉で一方的に判決を下してしまうことが可能になっていたのです。自分の中で議論を組み立てる訓練を受けていないような場合には、自ら思い込んだその「正義」により、それに逆らう者は如何様にも罰されて構わないというふうに威圧し、言葉の刃を差し向けてしまいます。
 
人が自分自身を神とすることが、最大の罪である、というように聖書は構えているように思われます。しかし自分が正義であるとするのは、まさに自分自身を神とすることにほかなりません。安易な正義感は、自分を神とし、ひとを殺すのです。「人を裁くな」の戒めを受けているはずの聖書読みが、他人を「不法の者」だと決めつけている場合でしょうか。その「不法の者」を何らかの具体的なグループに想定するときに、恐らく、自分自身だけは、そこには決して入れることがないのではないでしょうか。自分はそれとは違う、ということを単純に前提にして、誰が「不法の者」かしら、と探していやしないでしょうか。
 
少なくとも私は、かつて間違いなく「不法の者」でした。それがイエス・キリストにおまえは間違いだと指摘され、たたきのめされ、かつての自分が死に、自分の惨めさをたっぷりと味わわされた末に、新しい生き方を嬉しいことに与えられました。素直にそれは喜びます。ありがたいことだし、まさに天にも昇るほどのうれしさを感じます。けれども、だから私はもう正義の味方だ、というふうには、とても思えません。そのように考えがちな人間というものの性を、嫌でも思い知らされています。その意味では自分自身を私は信用することができません。つまり、いつ自分がその「不法の者」として神を離れ、自らを神以上の者とし、神をすら自分の考えのもとに支配するようになっていくか、常に懸念を怠ってはならないと考えています。そのようにはなさらない神を信頼する、というのも正しい信仰であろうと思いますが、それ故にまた、いつの間にかすり替わるように、自分を神としていくのではないかという警戒も怠りません。それは、神を信頼しないということとはまた違うのです。神を信頼するほどには、自分を信頼することができない、というだけのことです。
 
2:7 不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。
 
既に働いているのです。その働きが、自分だけは回避しているという保証は、どこにもありません。他方また、神はそうならないようにと守ってくださるという信頼もあってよいのです。ただここに罠があるのであって、「神は私を不法の者になどしない、だから私は何をしてもよい、何を言っても正しいのだ」というふうに、人間は引っかかってしまうことがある、それを知りたい、ということなのです。
 
難しい問題ですが、潔癖性とでもいいますか、始終手を洗わなければ細菌が気になって仕方がないという人がいます。気にしすぎると、何もできません。だから、聖書は、行動の公式、思考の原理を定めてそこに当てはめれば解答が自動的に与えられるというようなことを私たちにもたらすものではありません。一人ひとりが、聖書の言葉から問われるのです。聖書に一定の、決定的な意味が公式やまとめのようにそこにあるというのではなくて、一人ひとりに、しかもその都度異なる形で、神が臨み現れるという形で、言葉の内から体験していくというものではないかと考えます。聖書の写本がいろいろあってもよいのです。翻訳が違っていてもよいのです。新共同訳聖書の言葉から神のメッセージを受けとってもいいし、新改訳聖書からでもいいし、フランシスコ会訳からでも、田川訳からでもよいのです。問題はそこで神から声を聞くかどうか。「だまされ」(2:3)るのはよくありませんが、神を信頼するという向きへ進むのであれば、その都度ユニークな仕方で、神と出会うとよろしいのです。神への反逆でなく、惑わされることなく、神の招きを信じていくことです。「すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないで」(2:2)、私たちは私たちの苦難に遭遇したその中で、不法の力を警戒しつつ、イエス・キリストを見つめ、自分に対してキリストが何をしてくださったのか、この方は自分にとり誰であるのか、それをすべての言動のスタートにすることを、お勧め致します。



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