事件の涙

2020年7月17日

京都アニメーション(京アニ)の伏見のスタジオが去年の7月18日、放火され、36名の犠牲者と、数や言葉では言い表せない悲しみをつくってしまいました。手塚治虫の虫プロで育った創業者に始まり、ファンの間では独自の味を出すアニメ製作会社として知られていたところです。テレビアニメは2003年からの製作でしたが、「涼宮ハルヒ」「らき☆すた」「けいおん!」などとくれば、知らない人のほうが珍しい作品で、「日常」には私もハマりました。「氷菓」「中二病でも恋がしたい!」「たまこまーけっと」など、どれほどファンを楽しませたか知れず、「響け! ユーフォニアム」はヤマハも全面協力して日本全国の吹奏楽部を変えたかもしれないほどの影響をもちました。「ツルネ -風舞高校弓道部-」も実に丁寧に弓道という世界に光を当てて作られていました。こうしたテレビ作品は多くが劇場映画としてもヒットを飛ばしましたが、テレビなしで映画となった「聲の形」は、原作の一部分しかストーリーには取り入れられませんでしたが、コーダ(ろうの親に生まれた聴者)の作者による、ろうの女の子と手話が全面に出た、そして壮絶ないじめのテーマを含むものとして、大きな話題になりました。
 
先週、NHKの「事件の涙」に、この事件が取り上げられていたのを見た方もいらっしゃることでしょう。この番組は、実に見るのが辛い番組で、これまでも、殺人事件や大事故の被害者を取材して、悲しみ癒えないその後を追い、伝えてきました。今回は、2つの遺族が描かれていました。これらの遺族が対照的だったのは、失った我が子の遺体と対面したか・しないか、でした。
 
遺体の損傷が激しいので、警察は対面しないことを勧められましたが、妻とも死別したその男性は、出棺のときに娘を見る決意をしました。他方、息子を失った両親は、ついに遺体を見ることはしませんでした。男性のほうは、見なければよかったのではないか、という思いに襲われ、両親のほうは、見ておくべきだったのではないか、という思いに苛まれます。どちらを選択しても、苦しくてたまらないものでしょう。番組をただ見ている私ですら、これほどに胸を締めつけられるような思いがするのですから、親は、その百億倍も苦しいに違いありません。
 
その後、対面した男性は、孤独な決断をします。それは、娘の描いた絵も含め、遺品を全部処分してしまうのです。娘の使っていた品々を目にすることで、対面したときのことを思い出してしまうからだそうです。そして、この男性は、電子書籍という形で映し出されましたが、毎日「聖書」を読んでいるというのでした。葬儀の様子からも、たぶん、教会に行っていたような方ではなかっただろうと思います。カメラはその繰り返し読んでいる箇所の画面を映し出します。マタイの5章の終わりのほうでした。
 
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
 
家にはもう誰もいない、いた形跡もないほどに片付けた、年老いた男ひとりで静かな家に座り、この言葉と向き合っている姿がそこにありました。敵を赦すということがどんなことか、すべての時間を、それを考えることだけに用いているかのようでした。
 
 
昔、牧師の幼い子が殺害された事件がありました。まだインターネットが一般的になる以前のことなので、いま検索しても出て来ないのですが、私は信仰を与えられて間もない頃だったのでよく覚えています。加害者は、教会に来ている若い信徒だったと思います。もちろん牧師は苦しみました。しかし結局、赦したという結果までが伝えられてきたのだったと思います。
 
ひとり子を惜しまず献げようとしたアブラハムは、すんでのところでその手を止められました。哲学者キェルケゴールは、この場面について恐ろしいまでに集中して考察しました。自らの人生上での決断を動機とするのかもしれませんが、倫理と信仰の問題を徹底的に考えようとしたのでした。このアブラハムに比べると、父なる神は、御子イエス・キリストを十字架に架けてしまったのだから、どれほど痛みを覚えたことだろうか、というような想像を強くする人もいます。でもそれで救いがもたらされたのだから、ありがとう、などと私たちクリスチャンは祈ったり、賛美の歌を歌ったりします。
 
そんなに、簡単に言ってよいことなのでしょうか。どうであれ、言葉で説明して深い愛ですねとか、愛は自分を捧げることですとか、分かったような口を利いてよいのでしょうか。被害者家族として、まさに我が子を、しかも自分の教会に来ていた人に殺された牧師の苦しみを、強い信仰だなどと批評している場合なのでしょうか。いったいほかの誰が、これを冷徹に説明できるのでしょうか。
 
 
この7月、大雨が九州をはじめ各地を襲いました。テレビの多くは、相変わらず「画になる」被災風景を映し出します。その家には、住んでいた人がいたのです。その人たちの大切にしていたものがどうなってしまったのかを、映し出す権利が、誰にあるのでしょうか。
 
遺体を映し出すこととは質的に違うかもしれませんが、私には重なって思えてしまって仕方がありません。被害を受けていない私にとっては、画面の向こうにある画に過ぎません。いくら心を痛めたなどと言っても、しょせん何も失っていないし、損害も出していません。膨大な時間をこれから用いて、なんとか生活ができるように立ち直ろうと努める必要もないし、幾度も頼りにならない手続きのために、役所に出向いて並んで汗を流すこともありません。記念のもの、思い出のもの、アルバムも形見の品も、取り戻すことの不可能なものの思い出が頭に浮かんで涙することもないのです。
 
それでいて、報道を見聞きして、ほろりと涙することもあります。涙することで、自分にも感情があるのだと気づかされることもあります。でも、これはとても汚いことだとしか思えないようになってきます。
 
「事件の涙」と番組のタイトルは付けられていました。同じ「涙」でも、私の涙は、限りなく偽善に近く、あるいは染まり、現場とは無関係な、無責任な「涙」に過ぎません。一生抱えていかなければならない十字架を負った人を前にして、その荷を増すようなことしか、私にはできないのです。事件を受けた人の「涙」は、どこに慰めを得るのでしょう。誰に助けられるというのでしょう。「それをしてくださるのがイエス・キリストですよ」などと、私はもはや言える立場にもないと思っています。
 
こぼす言葉も失ったとき、ただ黙って祈ることしか、私を待ってはいない。




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