15分の壁 (手話通訳の問題を含む)

2020年7月15日

先日、ラジオで落語家と脳科学者との対談があり、なにげなく耳にしていたのですが、なかなか興味深い内容だと思うようになりました。その一部だけを記憶から起こしますが、たとえば落語家は、演芸場に来ると、客席を必ずチェックするのだそうです。椅子の堅さにより、演目を考えることがあるのだそうです。これを聞いて脳科学者が、さすが噺家だと感心していました。それによると、堅い椅子に座って人の話を聞くと、批判的に、あるいは知的な関心で話を聞く心理になり、ソファのような柔らかな椅子に座って人の話を聞くと、受容する姿勢になりやすいのだそうです。
 
また、落語家のほうが、その師匠に、人間の聞く集中力なんてものは20分しかないんだからな、と教えられたというが、脳科学からすると、集中力が保てる時間はどのくらいだろうか、と尋ねたのです。脳科学者はさすが学者だけあって、「集中力」というものが何をもってどう定義されるかによって、答えは変わってくると断りながらも、一般的な関心からくる質問として答えるならば、15分くらいではないか、というのでした。テレビ番組もそのくらいでコマーシャルが入るし、大学の講義もそのくらいのまとまりで区切ることが経験的になされているのではないか、と。
 
もう予測をつけられたかと思いますが、教会の礼拝説教の時間について、ここから触れようとしているわけです。あまり公には出てきませんが、SNS関係では、礼拝説教の時間が話題になることがあります。最近は20分くらいというところが多くなってきたように見えます。また、説教者からの声というものも聞かれることがありますが、20分を超えると、聞いてもらえない、と言う人がいました。これはある意味で、理に適ったことであるとも言えます。
 
エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。(使徒20:9)
 
聖書には、このような有名な話もあります。この後パウロが、青年が生き返ったことを告げるのですが、果たしてこの「長々」とうのがどのくらいの時間であったのか、私たちは知る由もありません。ただ、古代の教父などの説教原稿が遺されているのですが、日本語訳であることや、口調などにもよるにしても、それを見る限り私の推測では15〜20分くらいのものではないかと思われます。これが近代になってくると、2〜3倍になる傾向が見られます。(『時を刻んだ説教』[ハイメル、メラー著・徳善義和訳・日本キリスト教団出版局]より、400字を1分として計算)。
 
説教が1時間を必ず超える、というような牧師の説教を何年間も聞いてきたことのある私としては、20分というのはまだ始まったばかりのような気さえするのですが、なにも説教を語る時間という「量」ではかるわけではありませんから、それが良いとか悪いとか言うつもりはありません。ただ、なんとか福音を伝えたいと心に燃える思いが強い人の場合、いくらでも話したい、という気持ちでいる方もいらっしゃるかもしれません。20分で終えようとする日々に、もどかしさを覚えていることもあるでしょう。
 
聞くほうはどうでしょうか。時間の長短に拘わらず、週日の仕事に疲れて舟を漕ぐということがあるでしょうか。京都の牧師は、日ごろの激務を慮って、それでもそこにいることに意味がある、と慰めていました。中には、ずっと聞いているような澄ました顔をしておきながら、右の耳から左の耳へすうっとすべて出て行くだけ、というような人もいます。早く終わらないかなぁと修行のように説教の時間を過ごし、礼拝が終われば嬉々として食事の支度やおしゃべりに生き甲斐をもつばかり、という人もいました。結局聖書の知識も残らないし、信仰ももつことがなかったことを、残念に思います。
 
もちろん個人差は大きいでしょうから、こうして時間を数字で挙げていることは、おおまかな目安のひとつに過ぎないわけですが、確かに20分を超えると苛々する、という人もいます。心に何か抱えているような人の場合、そうした反応が正直に出てくるということも考えられます。15分から20分というひとつのピリオドは、話をじっと聞くということのために、話す方も考慮しておくとよいタイミングなのかもしれません。
 
そこで最後に、思い当たるのが、手話通訳者。感染症の報道でまた広く認識されるようになった仕事のひとつですが、選挙関係でも、講演会でも、手話通訳者というのは、15分で交替する決まりになっています。最初、それは疲れるからかしら、と思われたかもしれません。確かに疲れます。手を動かしているから体力を使うだろうなあ、と傍からは見えるでしょうか。でも恐らく、そのせいではありません。
 
手話通訳というのは、聞いた言葉をそのまま手の形に置き換えることをいうのではありません。英語から日本語にするのに、「風邪をひいた」を「引く」と訳すpullなどを使う人はいないでしょう。そのことが表す意味を、英語の文化・発想の中で表さないといけないわけです。手話通訳もそういうことです。とくに手話という言語は、単語そのものの種類が比較的少なく、語の順序もさることながら、言い回しそのものを大きく変えないと表しづらいということが多々あります。ろう者の文化には伝わらないような、音声言語の慣用句や諺などもあります。手話通訳者は、すべての情報を、ろう者の身になって、理解しやすいように、かなり組み換えて変換したり、説明を加えたりして伝えます。頭の中はフル回転で、耳で聞こえた音声の文の情報を、どう表現するか、あらゆる瞬間にクリエイティブに思考し、しかもそれを瞬時に表現しなければならないという情況に置かれています。スポーツ的にいうなれば、休みなく10分も15分も、卓球のラリーが続いているようなものです。この作業はまことに集中して継続されるものですから、15分が限度なのです。
 
教会の手話通訳の中にも、この時間で交替していく教会があります。理に適っていると思います。しかし通訳者が限られていることから、一人が継続する場合が多いと思われます。そうなると、次第に思考力が低下していきます。これをある手話通訳者は、酸欠状態になって手が動かなくなる、と言いました。手や肩が疲れるのは本当は後からですから、集中力がもたなくなる、というところがよく表されているように思います。
 
いまだ、牧師の中にも、こうした手話通訳者の情況に対する理解がない方が、残念ながらいると聞きます。予め原稿を渡さないというとき、手話通訳者は本番で、まず聴き取るために神経を集中しなければならず、さらに言おうとしていることの意味を理解したり、汲みとったりするために、2倍も3倍も集中力を必要とするでしょう。これでは15分ともちません。ここまでお読みの方は、それをご理解戴けるかと思います。前日までに原稿が渡されていると、手話通訳者は、伝えようとすることの意義を理解し、またろう者に伝わりにくい内容については通訳者自身もよく調べるなどして、噛み砕いて説明するように準備することができます。これが礼拝直前であれば、それができません。よくよく読み味わっておき、時に手話の形を調べる必要もありましょうが、大部分は、内容を、つまり福音を、どのように伝えようかと思案するために、手話通訳者はたいへんな時間を使います。しかし、それができていれば、集中力は15分を超えても継続できる可能性が高くなります。自分の中で準備ができているからです。
 
余談ですが、手話通訳者には口元が見えるマスクがいい、という報道があり、またフェイスシールドがあればいい、などいう理解も広まっているようですが、配慮した側の満足に終わっているような気がしてなりません。手話通訳者自身にとり、そうしたものは実に邪魔である場合が多いのではないかと思います。顔に手を当てる手話ができません。思わずフェイスシールドをはじき飛ばしてしまいそうにもなりかねないのです。また、顔や頭部に違和感の伴うものが張りついている状態ですることには、けっこう抵抗があるはずです。せっかく思いやったつもりで、透明な装置をどんどん寄付しても、果たして手話通訳者は喜ぶものかどうか。ろう者はそのあたり優しく受け止めてくださる場合が少なからずあり、利用させてもらうというような言い方をすると思いますが、実際に使うというのはさて、どんなものか、もっともっと本音が表に出てくるとよいし、また善いことをしたという満足に終わらず、実際どうなのか、と探っていく必要があるのではないかと思うのです。



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