【メッセージ】教会に求められているもの

2020年7月5日

(テサロニケ一5:12-28)

これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ一5:18)
 
テサロニケの第一の手紙も最後の頁を開くこととなりました。最近は「手紙」というものを書くことが少なくなりました。小中学生に「拝啓・敬具」など手紙の常識を教えても、誰一人実感をもって反応してはくれません。「前略・草々」もそうです。私はまだこうした形式を以て手紙を書いていたものですが、最近はレッドデータもので、アルバイトをしていた知的な大学生も、封筒の宛先を書かせたら見るも無惨なものを書いたという風景を目の当たりにしたこともあります。
 
パウロの手紙にもいくらかの型のようなものはありますし、手紙の最初と最後には一定の挨拶が入るものです。今日開いた聖書箇所も、最後は挨拶と見てよいでしょう。しかしその前にあるものは、最後に叫びますよという感じで、もう言い残すことがないというくらいに、パウロの気持ちが強く表れている文章だと捉えたいと思います。
 
イエス・キリストが再び来る、だから身を慎んでいよう。手紙で強く言いたかったのはその点だと思いますが、それを言い終わったパウロは、後の時代の私たちのために、すばらしい励ましの言葉を遺してくれました。
 
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 どんなことにも感謝しなさい。
 
ギリシア語本文でも非常に簡潔で、「すべてにおいて」に英語でいう「in」が付いているほかは、2語ずつリズムよく連ねられています。カタカナで読むと「パントテ・カイレテ、アディアレイプトース・プロセウケステ、エン・パンティ・エウカリステイテ」と軽快で、日本語の訳もなかなかいい感じではないかと思います。
 
2020年は、教会の歴史に必ず刻まれる年となりました。COVID-19と呼ばれる新型コロナウイルス感染症が全世界に拡大し、人の命を奪うに留まらず、特に経済に大打撃を与えました。もちろん、それが人類にとって良かったのか悪かったのかなどについては意見がいろいろあるでしょうが、とにかく人が近寄ってはならない、集まってはならないという状況が発生したために、教会はその活動をどうするか、苦慮することとなりました。集会をするというのは感染拡大の危険性を呼びます。しかし礼拝をしないということも、教会の生命を失うこととなります。幸い、この時代にはオンラインという方法がありました。多くの教会が、インターネット回線を利用して、スタッフだけの会堂での礼拝を各家庭に配信するという方法で、信仰的なつながりを保つことを考えました。それが果たしてどういうことをもたらしたのか、私たちの考えにどう影響を与えることとなったのか、評価はまだこれから先になるでしょう。いずれにしても、苦悩に追い込まれ、非常に苦しい時を過ごしてきたことには違いありません。
 
パウロが可愛がったテサロニケ教会もまた、困難な中に置かれていました。その全貌を知ることはできませんが、何らかの迫害を感じていたことでしょうし、信仰の浅さをパウロが懸念していた様子も考えられます。貧しさもあったようですから、信じる人たちの生活にも困難があったのかもしれません。人権といったものが守られることの薄かった時代ですから、とにかく生きていくだけでも大変だった中へ、マイノリティに属する信仰を保つのは容易ではなかったことでしょう。新型コロナウイルスどころではない、厳しさの中で信仰生活を続けていたのかもしれないと想像するだけで、パウロがどんなに心配して声をかけているか、もう少し切実に感じることができるかもしれません。
 
「いつも喜べ。絶えず祈れ。すべてのことに感謝せよ」、これをこの手紙の最後の文面の中核部だとすると、そこに至るまでに、パウロは「お願い」や「勧め」という形で、いくらか具体的にアドバイスをしています。その一つひとつを細かく読み取っていくことはいまは致しませんが、いろいろ骨折ってくれている仲間を尊敬し、平和のうちにあるようにと願い、他方落ち込んだり熱心でなかったりする人に優しく接し、助けてよい関係を結ぶようにと勧めている様子が伝わってきます。これは、教会の人々に対してどういう態度をとるか、という問題へのパウロの見解を述べていることになるでしょう。教会の内部での人間関係、横のつながりをどうするか、ということです。
 
こうして、「いつも喜べ。絶えず祈れ。すべてのことに感謝せよ」を入れてきます。人間関係を潤滑にするために、平和な教会であるために、喜び、祈り、感謝する気持ちを忘れないでほしい。そんなふうに言っているようにも受け取れます。
 
続いて、神の霊の火を消すな・預言を軽んじるな・よく吟味して良いものを大切にせよ・悪いものが遠ざかれ、と畳みかけてきます。実はここもけっこう小気味よく流れていくのですが、「喜べ・祈れ・感謝せよ」に比べると、いくらかではありますが具体的なようにも思えます。今度は人間関係というよりも、信仰する個人の問題だと言えそうです。個人的に、神と向き合い、神との関係をどう結ぶのかという点について、パウロなりにアドバイスをしているということだと言えそうです。
 
これに続いて、あなたがたを聖なる者としてくれるよう、そしてキリストが再臨するときに立派な者としてください、と神に願う祈りの言葉がきます。先ほどまでは、テサロニケの人々への命令口調であったのが、ここからは神への祈りとなります。そして、神はきっとそうしてくれるとの確信を示します。さらに、パウロのためにも祈ってくれ、兄弟たちの挨拶を絶やさず、この手紙を広く伝えてほしいことを強く命じると、神の祝福を祈るようにして手紙を閉じています。
 
なんとなく読んでいると、読み終わっても「ああそうですか」で終わるかもしれません。なんだか良いことを言っている、でおしまい。「いつも喜べ、なんて無理だよな」と笑みを浮かべて、終わり。どうしてこう、手紙というのは響いてこない場合があるのでしょう。それは自分に宛てた手紙ではないからです。他人への手紙ほど味気ないものはありません。興味はあるかもしれませんが、自分への言葉として切実に受け取ることかでぎません。モーツァルトの書簡集は面白いけど、他人のもの。夏目漱石の手紙も、デカルトの手紙も、過去の資料に過ぎないもの。テサロニケの信徒への手紙もまた、昔の誰かへの手紙に過ぎないのであって、ちょっとパウロが好きな人なら、パウロの初期の思想を知る有力な資料だ、というくらいに熱心になれるかもしれない、そういう代物になっていなかったでしょうか。
 
先ほど引用した、この結びの部分の中枢部、もう一度見てみましょう。
 
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
 
少し引用を変えました。お気づきでしたか。3つの命令を記したとき、パウロは「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と付け加えています。「これ」が単数ですから、これは感謝のことだけを指す、と受け取ることができるかもしれませんが、まとまったものとして「喜べ・祈れ・感謝せよ」という一連の命令を意味させてよいだろうと思います。「なぜならこれぞ神の望み、キリスト・イエスにおいて、あなたがたへ」というような書き方がしてある文で、きっぱりとパウロの気持ちがこめられているように感じられます。これこそが神の望みなのだ。この断言は強く迷いがないものとして響いてきます。これを私たちが受け取らなくて、いったい何のために聖書を読んでいることになるでしょうか。いま神が願っていることを真正面からぶつけてきたのです。「喜べ・祈れ・感謝せよ」と。
 
しかし、これは私にとり、重荷です。主よ、そんなにはできません、と正直叫びたくなります。私にそんなことを言われても、無理です、と逃げ出したくなります。
 
ところがふと気づきます。これは私個人へ宛てた手紙ではなかったはずだ。これはテサロニケの信徒「たち」への手紙なのではなかったでしょうか。ここは日本語の悲しいところです。標題にしても何にしても、この手紙は複数の人々に宛てたものです。だからまた、「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように」(5:27)と強く命じてもいるのです。だったら、私が個人的に聞くというよりも、これはやはり、教会員みんなで耳を傾けて聞き入るべきものではないでしょうか。つまり、このように聖書が開かれ説き明かすことを以ていま私たちは「説教」と理解していますが、このパウロの手紙自体、このように教会員が集まった場で、ひとりが読み上げ、読み聞かせたものではなかったでしょうか。すると、この手紙は誰それの個人で、こっそり家で読むというようなものではなく、教会という共同体の中で、いわば公的に、全員のために全員が一度に、そう、映画館で同じ映画を多くの人が見るみたいに、聴き取るべき言葉だったに違いありません。
 
これは、教会に宛てた手紙です。「あなたがた」と訳しているのも、確かにそのためではあるのですが、私たちは慣れてしまって、「あなたがた」という言葉を強く意識して聞く態度ができていませんでした。これを「教会」と呼ぶとどうでしょうか。「教会にお願いします」とくれば、少し襟を正すような気持ちにならないでしょうか。不思議なもので、個人的な響きを含む「あなたがた」というほうがどこか他人事になり、もしかすると他人事のように響きかねない「教会」という言葉のほうが、自分のことのように聞こえるのです。少なくとも私の鈍い心は、そのように反応しました。いつものように聞き流せないものとして、ひとつ新鮮に、私たちはこの聖書箇所を、「教会」と呼ぶパウロの言葉として、もう一度味わってみたいと思うのです。「教会」はまた「教会の人々」という意味をももつものとして聴き取ることができるかと思います。私はここで、ただ「あなたがた」を「教会」と置き換えるのではなく、少しばかり現在の私たちに相応しいような表現や筋道で、アレンジしてお読みしようかと思います。聖書の改竄だとお叱りを受けるかもしれませんが、パウロが私たちの教会に宛てた手紙としてお読みして、そしてこの説教を閉じようと思います。パウロは教会に、何を求めているのでしょうか。私たちの教会は、神から何を求められているのでしょうか。それを受け止めたいと願います。
 
パウロから、この教会へ贈る言葉。
 
教会の皆さんにお願いします。教会にはいろいろ重荷を負って奉仕している人がいます。神の言葉をとりつぐ牧師や役員さんたちもいますね。大切にしてあげてください。意見が違うこともあるかと思いますが、敬意を抱き、文句を言い合うようなことなく穏やかな教会生活をしてほしいと願います。
 
教会の皆さんに勧めます。だらだらしている人もいるでしょう。注意することも必要です。落ち込んでいる人、鬱々としている人や心を痛めている人がいると思います。慰め合い、励ますことが必要ならそうしましょう。貧しい人もいるでしょうし、何かと弱さを気にしている人がいるかもしれません。助けることができるなら、助けてください。人を見た目で判断したりきついことを言ったりしないで、誰にでも我慢した形で触れあうということが求められます。何か悪いことをされたようなことがあっても、仕返しをするというのは教会では避けてください。どんなときでも、悪いことよりは善いと思われることをするほうが、きっとよいのです。そう努力してみては如何ですか。
 
どんなときでも、喜んでいられますように。
どういう状況でも、まず祈ることができますように。
きっと何事も感謝する道が開かれているはずです。
そのようにすることが、神が教会に求めていることであるとは思いませんか。
 
教会は、聖霊に導かれていると思います。それを蔑ろにするようなことはしないようにしましょう。神の言葉が語られるとき、そして聖書に書いてあることを聞くとき、それを人間からくる知恵だとは考えず、教会の大切な指針として受け止めてください。安易に何でも受け容れたり、否定したりするのでなく、よく考えた結果、それが教会にとって良いことだと判断できたら、それを大切にしましょう。そして、それが悪いことだと思ったら、退ける勇気も必要です。このくらいいいじゃないか、としてしまうと、どんどんその悪いことがはびこっていく危険性がありますから。ただ、悪だというレッテルを軽率に貼り付けないように、よくよく思いを深めてください。
 
神は平和をもたらす神です。教会は平和の成り立つ場であるはずです。教会は、この世と同じ原理で動くものではありません。世の中とは一線を画しているはずです。教会がそうしたものでありますように。単純に社会の悪いところに染まってしまわないで、何かしら輝きを呈していることが求められているのです。教会は、小さなことから腐敗していくことがあります。「完全」であるというのは、完璧な人間になるとか、神のようになるとかいうことではありませんが、教会にはあれがない、これがないと悩むようなことがなく、神と向き合い、神のものとなって、聖書に書いてある様々な喜ばしいことが、教会において確かに実現可能であるということを忘れないでください。神はきっとそういう教会を求めていることだと思います。やがて神がこの世界の終わりをもたらす時がきたら、教会はその神の目に適うものであってほしいものだと思います。
 
そう。神は教会を、そのようにしてくださる方である、ということは確かです。神は真実なお方なのですから。その神が教会をここまで導いてきてくださったのです。その同じ神に導かれたこのパウロと、皆さんの教会はつながっていて一つです。どうかこのパウロためにも教会は祈ってください。教会は愛の場所ですから、平和の挨拶をずっと続けてくれますように。このメッセージはあなたの教会だけで留めるものとはせず、多くの仲間たちにシェアしてください。伝えてください。分かち合ってください。これはぜひぜひ、お願いします。私たちが共に拝する主イエス・キリストの恵みが、教会にいつも注がれていますように。



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