警察

2020年7月3日

一年の半ばを超えました。高々人間の定めた区切りではありますが、2020年という始まりに夢をもっていた半年前とは、うってかわった様相を帯びた世界に私たちは確かに生きています。別の意味で、夢のようです。悪夢のような。
 
最近は「マスク警察」なるものが市井に散在するようで、マスクをしていない人を見ると居丈高に叱りとばすのだとか。WHOでも中途から方針を変え、「公共交通機関や店舗、難民キャンプなどの他人と距離を保つのが難しい場所では、人にうつさないために手作りのマスクで顔を覆うこと」を推奨するようになりました。しかし日本社会では、していないと怒鳴り散らされるような場合が見られ、そのニュースが抑止力をもつようになって、外へ出られなくなるような人まで現れたのだとか。厚生労働省は、夏の熱中症の懸念から、「屋外で人と少なくとも2メートル以上の距離が保てるならマスクを外す」ように求めているくらいですから、マスク着用の不要な状況はいくらでもあるはずです。また、過敏症やその他の病的などの理由で、マスク着用が難しいタイプの人もいます。ろう者はコミュニケーションの手段をますます奪われることになり、画一的に多くの人が思い浮かべるマスク姿を強要することはできない、としなければならないはずなのですが、典型的な農耕民族の掟のように、みんなと同じでないものは強制的に一律同じようでなければならない、とするのでしょうか。
 
戦時中のことを伝える多くの証言は、みんなと同じでないものは「非国民」呼ばわりされ、悪質ないじめ、村八分に遭っていたように告げています。秀吉の末期から江戸時代に組織されていった「五人組」の後を継ぐような「隣組」が機能して、思想においても統制をとっていた歴史がある民族では、「マスク警察」くらい当然すぎるほど当然の現れであるのかもしれません。
 
自分が「正義」であると一旦思い込みが確立したら、それに逆らうものはすべて「悪」であり「賊」であると見なし、場合によっては「天誅」などと称して自分が処罰を下してもよい、というような考え方をする人は、世の中に必ずいるものです。ネット社会を見ているといくらでも見つかります。そのために傷ついて誰が死のうが、少し時間が経てばまたむくむくと同じことが起こり蔓延します。ウィルスよりよほど感染力が確かで感染率が高いものと思われますが、自覚症状がないので攻撃は止まりません。
 
ですから、最近急に「怖い人」が増えたというわけではありません。ふだんそう目立たなかった、つまり症状が出ていないふりができていた人々の、本性が露呈してしまっただけなのです。
 
見ているSNSには、自称だけかもしれませんが、多くのクリスチャンの声が流れて入ってきます。心優しい人はもちろんたくさんいるので、いろいろ困らされているという嘆きもそこに現れます。あるとき、マスク警察という世間の現象をとりあげて、ネットの中にも、「信仰警察」や「聖書警察」がたくさんいる、という指摘がありました。私もまったくその通りだと思っていましたので、短くお返事して付け加えましたら、強い同意を示してくれました。
 
「〜すべきだ」「〜しなければならない」のような姿勢に凝り固まり、自分の信仰観・聖書観に反する考えや行動を、問答無用に悪だと決めつける。悪魔呼ばわりもするし、威圧的に否定し、またいやらしい揶揄をもって一笑に付す。明らかに冒涜的なものをそう扱うのではなくて、普通に見て、聖書の理解の違いや、教会の立場の違いに過ぎないような事柄に関しても、意見の異なる相手を罵倒したり、馬鹿にしたりするというのが、本当によく見られるのです。
 
中には、その人が明らかに聖書を知らなかったり、思い込んでいたりして、情報としては嘘を主張しながら、他人をひたすら攻撃しているのもあり、しかもその人をかつて直接知っていたため、本当はこんな人だったのにあの時見抜けなかったので、教会が大変なことになってしまった、と悔やまれる例もあります。
 
しかし、あまりこんなことばかり言っていると、私自身がその自治警察を勝手にやっているかのように見えてしまいましょう。言うなれば、誰もが脛に傷持つ身。弱さを抱える者どうしでつながるものとして、「教会」が始まったとすれば、そのような「教会」であり続けたいものです。歴史の中で、教会は権力と結びつき、「警察」以上の存在になっていったこともありました。その点は本当に反省し、悔い改めなければなりません。それはまだ終わっていないと思います。
 
また、この世の「教会」にはいろいろなタイプの人がいるし、私自身が悪辣で残酷な人間でありながら許されてその片隅に忍ばせてもらっているくらいなので、そこに集う人間を天使か何かのように期待する、というのも間違いでしょう。教会にどうしてこんな人がいるのか、こんなことを言われるのか、と落胆する人もたくさんいます。が、ある意味でそれは当たり前のことなのです。そんなことに出合ったら、この人は私よりまだマシなのかもしれない、というくらいに構えているくらいがちょうどよいのかもしれません。その程度の考え方が、実のところ「ゆるし」というものの実態ではないだろうか、とも思います。
 
警察にしろ裁判所にしろ、その行動は「法」に基づいています。聖書には様々な「律法」が記されています。どうぞ深い意味で読み取って、私たちの従うべき「法」を知る知識を与えられようではありませんか。市民も当然その「法」に従うのですから、ちゃんと学ぶ必要があるでしょう。それはイエス・キリストにより、「新しい法」としてももたらされています。実に激しい犠牲の上に、私たちの心に刻みこまれているのです。



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