哲学を毛嫌いしていると……

2020年6月29日

えらく肩入れしているのですが、Eテレ・100分de名著はこの6月、予定より一カ月遅れで、カントの『純粋理性批判』を読んできました。4回目は22日に終えたのですが、6月の月曜日は29日にももう一度あるので、第4回をもう一週放送することになっています。
 
西洋近代の思考の道をひとつ備えたカントの思想は、ある評者をして、すべての西洋哲学の流れはカントに注ぎ、カントから出るとまで言わせたほどで、私も個人的には概ねそのように捉えているので、哲学ではカント研究と決めて始めたのでした。全然論文にもなりはしませんでしたが、一度は統覚、後には自由論を考えました。こうした経験は、その後聖書に触れ神に救われていった後も、ものごとを考える上で非常に助けになったと理解しています。
 
信仰の世界は哲学とは違う、そのように仰る現場の牧師や伝道師がいます。確かに違うのです。しかし違うというのは、哲学は否定されるべきもの、知らなくてよいもの、という意味ではないはずですのに、どうやら哲学などには全く興味を示さない方も少なくありません。それどころか、端から哲学はくだらないとか、悪魔の道具だとか言って、自分が学びたくない気持ちを正当化したいのか、それとも信仰というものを誤って理解しているのか、分からないようなタイプの人も見たことがあります。
 
「だましごとの哲学」という聖書の翻訳が、ひとつそうした偏見を助長しているようにも思えます。いまはその箇所については触れませんが、迷惑な話ではあります。そして、哲学をすることを妨げる、実に悪い影響を及ぼしているとも考えられます。
 
たとえば、熱心な宣教者が、こんなふうにメッセージを送ります。「皆さん、神は存在します。聖書に書いてあることからすると、神の存在は、かくかくしかじかで証明されるのです」などと。まさか今どき、と思われるかもしれませんが、これだけ数多な団体や宣教者がいると、こんなことを確信している人が、大きなイベントであれ、小さな説教であれ、こんなふうに漏らすことはきっと珍しくないのであろうとも思われます。
 
そうでなくても、教会を訪ねて来た人が、つまり教会用語で「求道者」が、「神はほんとうにいるんですか」と問うてくるのを、多くの牧師は恐れているのではないでしょうか。そして、そのときに相手を説得しようとして、「神の存在はかくかくしかじか……」と話を始めることは、十分予想される範囲のことではないかと思うのです。
 
すると、そんな説明をする牧師などは、その時点ですでに「信用ならない人」だという烙印を押されるかもしれません。その人が二度と教会を訪ねなかった場合、「分かってもらえなかったんだな」と溜息をつくことになるかもしれませんが、もしかすると、哲学を知らなかったがために当然の結果そうなったということになったのかもしれません。それに気づかないでいると、同じことがまた繰り返されるということになるのです。
 
神の存在証明が証明ではなくなっているということは、もう何百年も前に明らかになっています。例えばカントはそのようにして、証明を破壊してしまいました(念のために申し添えておきますが、カントは神を否定したのではありません。神を「要請する」という形で必要としています)。カントを批判する哲学者はその後いくらでも現れていますが、神の存在証明ができる、というようなことを言う人は、現れてはいないだろうと思います。そもそもそのようなことについて、「証明」ということが成立しないのだということを、人間は学んでしまったからです。
 
では、神は存在するとは言えないのでしょうか。聖書は、神の存在を証明などしていないのでしょうか。これほど聖書を信じている私たちは、聖書による神の存在証明がないままに、何をやっているのでしょうか。
 
結論的に言えば、確かに聖書は神の存在証明などしていません。聖書というものは、そもそも神の存在を疑いはしないのであり、神の存在を前提としてのみ存立している文書なのです。だから、聖書から神の存在を証明する、などという発想自体に意味がないことになります。
 
哲学は、かつては物事の原理や本質を考えるところから始まりました。キリスト教神学すら、哲学なしには成立しえないものだったはずです。そして特に近代になり、自らを吟味する営みともなりました。人間主体と対象世界との二元的対立に基づく世界像を前提する思考には幾多の問題があり、現在の世界的危機をもたらす因ともなりましたが、このような構造そのものをも考えるべき問題として立て、検討したのもまた哲学でした。信仰による神学から始まったとも言える自然科学の発展は、その後、もはや神学の領域では解決できない巨大なものとなり、聖書に基づくオイコノミアとして始まったともいえる経済学でさえも、すでに聖書を基準に組み立てるわけにはゆかなくなりました。
 
神学理論にしても、たとえば解釈学的手法を抜きにしていけば、ただの独断論に陥るようなことになるのは必定です。そもそも独断論と経験論というのもカントがなんとか統合しようとした対立する思考法でしたが、哲学を知らないと、信仰について語るときですら、そのレベルで誤りを堂々と語り続けているということもあり得るものと考えられます。多少の知識がある人がそれを聞けば、キリスト教のメッセージというのはなんとも知識のない、五百年か千年前の人間と同じ時代錯誤なことを嬉しそうに喋るものなのだな、と一蹴されるだけとなってしまうでしょう。
 
このように言うと、牧師が哲学を一から学び直すというのも大変だ、無理だ、そのように言う人がいるかもしれません。それもまた学びたくないことの正当化である、と言えなくもないのですが、それはやはり気の毒です。すべての哲学思想や哲学者についての知識を持て、ということではないのです。まさにソクラテスが闘ったように、ソフィストという職業的知識人が、なんでも知っているかのように振る舞い、その技術を教えていたあり方に対して、本当に知るとは何か、そもそもそのことは一体何であるのかを徹底的に問おうとする営み、それを「知を愛すること」と呼んだこと、それが「哲学」なのだ、ということさえ、へたをするとご存じない方がいらっしゃるかもしれません。ここでの「知」は生き方をも含んでおり、だからこそソクラテスは自分に正直に生き、最期は毒杯を仰いで自らの「知」に従った「死」をすら迎えました。
 
私たちは、ファリサイ派や律法学者、あるいはサドカイ派という、いわば職業的宗教人を福音書で知っています。イエスはソクラテスのように、より原理的な信のあり方をぶつけました。そのことで妬まれた挙げ句、自らの教えに沿う形で、十字架刑で殺されることとなりました。ソクラテスとの並行性を見ることも可能です。そして日本の哲学者・梅原猛は、この2つの怨みのようなものを背負って成立した西洋思想の怒りの図式を問い、もはや西洋哲学に依拠せず日本思想の原理を求めるという道を歩んで行ったのでした。
 
いまもなお、職業的宗教人としての牧師が、もしかすると、ファリサイ派の役割を果たしているのかもしれません。知を愛することを気にかけないで、独善的なソフィストのように、いい顔をして理屈で人を言いくるめられると慢心し、先生と慕われ、取り巻きに囲まれて心地よい生活を送っているような人が、いるかもしれません。もちろん、皆がそうだなどと言っているのではありませんし、いたとしてもごく一部でしかないとは思います。しかし、そんな人はひとりもいない、とは私は言えないような気がします。証明はできませんが。
 
牧師は大変です。聖書を学ぶことが最大の課題であるとはいえ、心理学や経営学、教育学や法律学も弁えておかなければ動けない仕事です。そのうえ哲学なんて、と文句を言われそうですが、さて、哲学とはそもそもそうした学問全部を含むものであったというところまで、思いが馳せた方はいらっしゃるでしょうか。カントですら、自然科学者でもあり政治学者でもあり、現代にも影響のある大きな業績を成しています。ソクラテスかプラトンか境界線は引きにくいのですが、プラトンの著作にも、実にさまざまなテーマが盛り込まれていて、その後のすべての哲学はプラトンの注釈書に過ぎない、とまで言った人もいるほどです。哲学は神学のはしため(差別的用語かもしれませんが歴史的な表現としてお許しください)と呼ばれた時代もありましたが、だとしても、哲学は神学に必要だったという証拠にもなるでしょう。
 
では、その哲学を営んだとして、それで自分の信仰というものが成り立つのだろうか。そのように問われることもあるかと思います。荒井献先生は、学問的神学というものについてでしたが、まさにその問いを自らに発し、それに応える形の文章も綴っていました。それが適切であるのかどうかは分かりませんが、少なくとも当人はそのように問題意識をもち、自分で答えを保ちつつ、信仰と学問との折り合いをつけていたことは確かです。それでよいと思います。
 
中には、学問的に聖書を扱いすぎて、信仰を棄てたと宣言した人もいます。それは少し悲しいことですが、多くの場合、信仰による出会いや確信は、きっと別の次元のものとして、アポリアに陥るようなものではないものだと私は信じます。そう、この「信じます」そのものが信仰であるわけです。そしてあのカントですら、彼の場合は道徳法則という自由の権化についてではありましたが、現象界において成立する自然科学に対して、それを超えた叡知界における人間の生き方と希望とをつよく信頼していたのです。『カント 信じるための哲学』というタイトルの本さえあるほどです。つまり、その気になれば如何様にもできるということであるし、できるように思考可能だと言えるように思います。
 
あまりにも「考えない」ために、すでに陳腐になっているような理屈を振りまいて、語るほうがいい気になっていても、もう役立たないだけの教養や情報を、多くの人が身に着けた時代になっているのだ、ということくらいは、まずは弁えておくというのは如何でしょう。



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