サードプレイス教会論

2020年6月25日

著作を読んでいるわけではないのですが、レイ・オルデンバーグ氏の著作から生まれたという「サードプレイス」という語が気になりました。「家庭・職場とは別の第三の居場所」というような意味合いをもつのだそうで、自由に出入りできてそこにいるのが心地よい場所、信頼できる人がいて活気ある会話ができ、明るく遊べる雰囲気と、家族的な存在を感じさせる、そうした幾つかの特徴を有するように説明されていると聞きました。
 
日本だと、地域の共同体がかつてはそのような役割を果たしていたものと考えられます。もちろん、ぎすぎすしているとか、柵だからとか、そういう目で現代ならば見てしまうでしょうが、かつては、そうした共同体としての意味合いがあったと見てよいのではないでしょうか。時代劇や落語をご存じの方は、長屋住まいにはそういうものがありそうだと思いませんか。昔は「サードプレイス」が地域社会という形で機能していたように見えます。
 
そう、現代ではそういう共同体が壊滅しているのです。地域社会というのが、無理やり踏襲している町内会が有名無実化し、習慣的に集められる町内会費は役員の飲み会の費用などになっているという歪みもあります。学校のPTAも、完全に厄介ものとなっている現状があります。それで、カルチャーセンターのようなものに人が集まるというのは、かつての地域共同体を、自ら選びつくろうという営みであるように解釈できるように思われます。地域だとその地域に住むという共通項があったのですが、カルチャーセンターであれば、同じ趣味をもつ人が集まるので、話も弾み、居心地がよく、また生活環境にしても共通なものが多い可能性が増します。たんに同じ区域に住んでいるというだけでは、趣味も生活レベルも様々であって、結びつくことが難しいのではないでしょうか。
 
人は、社会的動物であるとも言われ、何らかの形で協力できるグループをつくりたいと考えるものだと見なされます。農村社会では否応なく協力するという背景がありましたが、今の地域社会では「家庭」というレベルで協力し合い結びつくということが難しくなりました。「職場」はどうでしょう。同じ目的で集う社員で協力しやすいでしょうか。以前の会社はそのように家族的なものを作ろうとするムードもありました。社員旅行などで親睦を深めるというのが当たり前だった時代がそうです。しかし今はそうした雰囲気をもつ小さな会社が目立つよりも、会社というところは心許せない場所であり、また地位や世代の差異が協力し合うという理想を失わせているのが普通になっているように見受けられます。
 
こうした時代環境の変化により昔の「サードプレイス」は失われてしまいましたが、そうしたものを必要とするのも人間社会の一つの必然性であったようで、たとえばアメリカ社会では、孤立する個人を結びつけるためのそうした共同体を積極的に築こうとすることから、小社会が作られていった、と見る人もいます。うろ覚えなので違っているかもしれませんが、ドラッカーが、アメリカ社会の知恵として様々なサークルやサロンの形成を語っていたような気がします。その一つとして、教会のような組織、あるいはNPOのような非営利組織のための著作があったと記憶しています。
 
さて、こうして長々と「サードプレイス」のイメージを描いて戴いたことで、もう予感してらしただろうと思いますが、教会というところがこの「サードプレイス」として機能する可能性ということを考える価値があるだろう、というのがまず考えてみたい点であります。
 
「家庭」「職場(ないし学校)」とは違う、第三の場所。教会はそこでこそ、心開き信頼し合える関係の中で安心できる居場所でありたい。牧師や役員は、きっとこのような考え方の点で、「サードプレイス」の考え方に共鳴できる部分が多くなったのではないでしょうか。教会は、人にとり第一の基盤となる「家庭」ではありません。しかし「職場・学校」ほどの緊張感が必要な場所でもありません。もっと気楽に、自由な雰囲気があって、信頼関係を比較的保てながら交流できるところであり、そこには自分の居場所というものを強く感じることができるところなのではないでしょうか。少なくとも、そのような居場所でありたい、あってほしい、と思うものではないでしょうか。
 
ところが、です。いま「サードプレイス」の「サード」に注目します。もちろんそれば「第三の」であり、自分が本来の自分でいられる「家庭」、(将来の)生活のための修行の場であるような「職場・学校」という基盤の次に位置する、他人との関係を広げつつほっとできることをモットーとする場所であることを意味し、それが教会であるとか、少なくとも教会であってほしいとかいうようにして、教会を位置づけることを可能にするものだと思います。
 
もちろんこうした図式は、単純に誰でも同様に当てはめて満足できるというものでもありません。もしその「家庭」または「職場・学校」のうち、どちらかを精神的に欠いていると意識する人がいたら、どうなるでしょう。たとえば、独り暮らしをしている人の中には、一人部屋にいるときに「家庭」もですが「居場所」を感じないという人がいるかもしれません。ひとり家にいると寂しいとか孤独を感じて辛いとかいう人もいるわけです。この場合、「家庭」という「第一の」場所は無きに等しいか、あるいは否定したい場所であると意識されているかもしれません。また、「職場・学校」は、もちろんなんらかの自己実現のための場として機能しているのであれば広く捉えて戴きたいのですが、仕事がなかったり、学校に行けなかったりして、そのような場をさしあたりもっていないという人がいるかもしれません。自分にとり居場所感をもつことがそこにできなかったら、「第二の」場所であるというエントリーができないわけです。
 
今でも、仕事こそ生き甲斐だとして、職場が「第二の」位置にあるというよりも、「第一の」ものであるような人もいることでしょう。これはまた、当人がそう思うという場合と別に、他人がどう見るかという点も考えてみる必要があると言えます。一般の私たちは医師に対して、自分の生活よりも何よりも第一に患者の命のために働いてほしいとの願望を抱きがちです。テレビドラマや映画の中の医師の像はえてしてそうでしょう。しかし、たとえばアメリカの映画だと、非常にビジネスライクな医師も登場するような気がします。そもそも勤務時間外では契約外だからと仕事をしない、そういう考え方も進んでいるイメージがあります(現実にそうかどうかは知りません)。だとすると、日本人の目から見て、それは冷たい人間のように映るものではないでしょうか。当人にとってはそれは「第二の」場所としての職場であるはずなのですが、社会は「第一の」ものとして働いてほしいと勝手に期待している図式がどうやらあるような気がします。これが現れたのが、新型コロナウイルスの医療現場に対する私たちの態度でもありました。医療従事者へのリスペクトは決して悪いことではないし、拍手を否定などはしません。しないよりはしたほうがずっとよいのです。しかしその一方で、自粛生活に我慢できず安易に人混みの中にふらふらと出歩いたりしているとなると、リスペクトしているというその口先と行動とが正反対ということになり、感染を増大し、医療現場を窮地に追い込む可能性のあることをやっておきながら、拍手などというのは、偽善でしかありません。医療従事者は全てを犠牲にして感染症のために働くべきだ、という決めつけの心理が背後にあることも容易に認められるだろうと思います。他人には厳しく、自分には甘く。この精神がそこかしこにあるとすれば、医者なり教師なり法律家や警察官なりに対して、私たちは、その職務を第一とせよ、と圧迫する他人の集団を形成していることになるでしょう。自ら「第一の」場所と考えることは大いに結構ですが、他人に「第一の」場所とせよと迫りがちになる私たちの性質について、よくよく気づいておく必要があると考えます。
 
さて、ここから教会という場所に目を移します。教会に来て、自分の居場所を見つけた。これはすばらしいと、教会にいる者としては歓迎したいところですが、上の例の場合、つまり「家庭」と「職場・学校」のカテゴリーのうちどちらかを欠いていると思しき人にとっては、教会は「第二の」場所であることになります。自分の居場所としては「第二の」役割をもつところに、教会がなってしまっている、ということもありうるという点を考えてみました。このとき、教会は「セカンドプレイス」の位置にいるようなことになります。
 
では、教会が「第一の」場所になるというケースはあるのでしょうか。これは特に少し以前の威勢のいい牧師や伝道者の中には、わりとよく見られたのではないかと思います。いえ、今でもいると言うべきでしょう。加藤常昭先生がボーレン教授の言葉として、「あなたは教会のために死ぬ覚悟がありますか」を紹介していました(『み言葉の放つ光に生かされ』)。そして第一テサロニケ2:7-8の言葉を引いて、いのちを注いで説教するパウロの姿を描くのでした。このような説教者・牧師にとって、教会はまさに「第一の」場所になっています。榎本保郎牧師もまた、家庭を顧みず、と言ってよいくらいに教会と伝道に熱心であったように聞いており、ついには伝道の旅先で客死することになるのですが、これも教会が「第一の」場所であるように姿であるようにも見えます。そこまでいかなくても、教会のことで胃が痛くなるほど悩み辛い思いを抱えている牧師は少なからずいるのであって、しかも考えてみればこの場合、「職場」が教会であるために、教会はすでに「サードプレイス」ではありえない構造に最初からなっています。その上で「家庭」そのものが教会に同化していくとなると、牧師にとって教会がすべての居場所としての「ファーストプレイス」であることは否めなくなります。牧師の中には、音楽や釣りなどの趣味にかなり没頭する人が少なくないのですが、それも、このように教会がすべての居場所となってしまうことを、無意識的に避けているのではないか、とも考えられるように思えます。
 
もっとよくないことには、先の医療従事者に対する、他者からの圧力的要求のように、教会員が牧師に、教会を「第一の」場所とせよ、と迫る現実があると感じます。牧師なのだから当然……と扱う。もちろん、牧師は「僕」として立てられたという思いがありますから、仕えて当然と言えば当然です。しかし、教会員一般は、牧師を偶像的に立てることも間違っていますが、召使いのように扱うことも間違っていやしないでしょうか。牧師の職務というものはありますし、大いに労を負ってもらわなければならない点は多々あります。しかし、心労絶えない牧師に必要以上の重荷を負わせたり、時に人権を無視しているのではないかというような圧力をかけたりする、そうした事実もあるわけです。実際ビジネスライクな牧師もいるという話もありますが、時間外の相談は受け付けないでいいようにするということさえ、実際にはなかなかできないでしょう。それは牧師の側もまた同じ。たとえ教会員が牧師に気を配ったとしても、それでもなお、多くの誠実な牧師は、教会を「第一の」場所であるかのように思い悩んでいるという現実を、押さえておくべきではないかと思います。
 
不思議なものです。キリストの弟子の共同体、救われた者の集う場所、そして神の原理が支配するべき、神の国の大使館あるいは地上における神の国、こうしたものを具現したもの、あるいは少なくとも具現すべきものとしての教会が、ある人々には「サードプレイス」であり、ある人々には「セカンドプレイス」であり、ある人々には「ファーストプレイス」であるという、それぞれ別々の位置づけを有する居場所となっているということになります。
 
そこには温度差もありましょうし、そもそも構造上・立場上の視座と視野の相違がありましょうから、同じ「教会」という語を用いて話していても、想定する内容や目的、へたをすると定義に至るまで、3つの別々の場所で意識する3人の人には、全く違う印象や理想をもっているということは、ある意味で当然のことであると言えるように思われます。しばしば、牧師が教会員に厳しい要求をして、その熱意に引いた教会員が教会を去っていくという話を聞きますし、教会員が家庭や職場の悩みを牧師にぶつけても、どうも分かってくれないと不信感を懐くということもありがちです。その牧師に想像力が欠けているとか、愛がないとかいうのではないのです。同じ「教会」がどういう「プレイス」であるかについてのランクが違うのです。ランクという言葉が適切でなければ、一人称・二人称・三人称のような相違があるのです。互いに、なんで分かってくれないんだ、と不満をもったり、傷つけるような言葉を平気で言ったり、あの人には愛がないと非難したりする、そうしたいわば無用なトラブルを避けるためにも、それぞれの立つ場所の違いがそもそもあることを弁えておくとよいのではないか、というひとつの提言をさせて戴きました。



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