リモート礼拝の余波

2020年6月21日

教会によって様々ですが、非常事態宣言の解除に伴い、再び礼拝を通常の集会として開くという教会が増えてきています。傍目には、政府のかけ声ひとつに乗っているかのように見えないこともないのですが、安全を図る責任者たちのご苦労が偲ばれます。外国では宗教施設での集団感染もあった事例が報告されていますので、いまのところそのようなことが日本国内で取り沙汰されることがなく、ひとまずは安心されたのではないか、とも思います。
 
それまでは、いわゆるリモートによる礼拝中継・録画を提供する教会も多々ありました。いまもなお継続しているところもあります。高齢者や疾病を抱える方々は、感染のリスクがあるところに出て来づらいとも思われますので。
 
さて、このリモート礼拝ですが、実際に教会の会堂で過ごすよりは、緊張感に欠けることは事実だったように思われます。正座して同様に、という方もいらっしゃることでしょうが、私はそうではありませんでした。しかし、語られる聖書からのメッセージは受け止めようとしていました。というより、それこそがこの異常事態での指針でありましたし、見えない教会とつながっているという点は、まさにそこにあったであろうと捉えていたのです。
 
いよいよ集会再開となって、またメンバーの顔を直接見たとき、共に集まれることのなんとうれしいことか、感動を覚えました。パウロだと、心許ない現世でのつながりが、いよいよ顔と顔を合わせてはっきりと見た喜びが実現したようなふうに喩えられるかもしれません。
 
ところが、一部、教会員の中で問題が起こっている、という話も聞きます。具体的にどうだということは知りませんし、また知る機会もないでしょうけれども、できれば何かしらその問題をシェアしたいとは思います。しかし少し想像はしてみました。というのは、そういう問題が起こるのではないかという懸念はもっていたからです。
 
リモート礼拝には、聖書の言葉は届きます。牧師の説教も聞けます。ふだんから、礼拝でそこを中心に置いている私のような者は、リモート礼拝に意味を見出して過ごせます。しかし、教会にいつも集っていながら、説教のときには寝ている(疲れて寝ることを悪いと言っているのではありませんよ)とか、ほかのことを考えて説教は聞いていないとか、そんなふうに、説教に意味を感じていない人も、実際いると思われます。話が難しいから、というようなわけではありません。聖書の言葉や話を、美しい話やためになる話、心が洗われる話というレベルでしか聞いていなかった人が、確かにいるはずだということです。中にはちょっとした趣味や教養という程度の理解で教会に通い、自分はクリスチャンだと公言しているような人もいますから、リモート礼拝でその聖書に特化された礼拝の形には、何の関心も起こらないということになりかねません。
 
ではそのような人たちは、教会に何を求めていたのでしょう。たとえば仲良しクラブ。一般社会と比べると、まだ信頼できる人が多いし、悪口や悪意についてはさほど心配しなくてよい教会社会は、居心地がよいに違いありません。また、自分の得意なことを「奉仕」という形で提供することができるし、たいていそれは人に褒めてもらえます。妬みや否定的な仕打ちも、教会では世間ほどには起こらないのが普通です。
 
これは仮にという前提で進めますが、そこにのみ、教会に行く意味を大きくもっていたような人がいたとしたら、リモート礼拝は辛いはずです。自分の存在意義が見出せなくなります。そして、自分がいなくても教会のプログラムは続いている現実を見ると、自分は教会に必要ないのではないか、というように悩み始める人がいても、おかしくない、と思うのです。
 
すると、集会が再開しても、その気分の中で教会に行く気持ちが萎えるかもしれません。たとえば料理の腕を揮っていた人は、集会が再開しても会食はしないというあり方をする教会がいま多いわけで、教会に行っても自分の活躍できる場がありません。説教そのものに関心が強く、与えられた聖書の言葉に縋って一週間を生きていこう、などという姿勢が身についていなければ、教会に通う意味を自分の中に見出せなくなる可能性があるわけです。
 
教会に集う人々が、皆聖書の言葉を同じように受け止めて同じように信仰姿勢をもっているとは限りません。結びついていたものが、聖書・神の言葉であるかないか、この差は普段は明らかになることはなかなかありませんが、今回のように何か事があると、歴然と現れてくることがあります。非常時には日常分からなかった本質が明らかになる、ということは、いろいろな場面で今回はっきり分かってきたことですが、その人が何を第一にしていたか、という辺りで、違いが出てくる可能性は、大いにあったのです。
 
いろいろなタイプの人が教会にいてよいと思います。何もこのような信仰をもっていなければならない、と型に嵌めるつもりはありません。こうすべきだ、と規定しようとも思いません。だからむしろ、問題はここからです。そのやる気のなくなった方が、神の言葉に縋るようになっていくのか、それともそれがついに起こらず教会から離れていくのか、その分かれ道にあるということになります。ただ、それが判明したのは悪いこととは思いたくありません。毒麦が放っておかれ、いよいよのときに明らかになり手遅れとなってしまったという構図を描いてしまうことのないように、いまこうして問い直す機会が与えられたことでどうなるか、まだやり直すこともできるでしょう。
 
牧会する立場の方々は大変だとは思いますが、弱っている人がたんに弱ったというのではなくて、そもそも信仰というものがなかったという可能性を踏まえて、核心のところを見抜き、問いかける必要があろうかと思います。それを踏まえていないと、自分に力がないのか、などと牧会者が要らぬ苦しみを背負うことになります。表向きクリスチャンと振る舞っていても、中味が全くそれにそぐわない人が存在することを私は知っています。もうそうなると、委ねるしかない場合があります。それをつなぎとめられないのが牧会者の責任であるのではないのだと思います。神の導きを信頼して、どうぞお疲れのないように、目を覚まし、また委ねるというあり方で、教会を支えていくことができますようにと祈ります。



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