マララさんの哲学

2020年6月20日

マララ・ユスフザイさん、卒業おめでとうございます。最年少のノーベル平和賞受賞者が大学を卒業したというニュースが流れてきました。若い方の熟慮と行動は、その与えられているであろうこれからの時間の長さの中で、この世界のために大きな力となっていくであろうことを祝福したいと思います。
 
マララさんは、大学で学んだことの先頭に「哲学」を挙げています。海外ではしばしば、オピニオンを発する方々が、大学で「哲学」を学んでいます。先般ご紹介した、イタリアの高校の校長先生もそうでしたし、私の読んだ本に描かれていた、性同一性障害と呼ばれる立場からそのことを訴えたいと考えた高校生も、大学で哲学を学ぶ道を進みました。著名な方を挙げればきりがありません。どうしてこのように「哲学」が重んじられるのでしょうか。
 
「哲学」をいくらかでも学べば、陥らないはずの誤りや加害的行為が、ネット社会には溢れています。それは、自らあると自己義認している「信仰」というものの中にも多々潜んでいます。ファリサイ派や律法学者を非難するイエスの姿が福音書で多く描かれていますが、熱心になればなるほど、私たちは彼らと同じになっていきます。そして、彼らがそのような自分に気づかなかったと同様に、私たちもまた、自分がそうなっていることに、気づかないのです。つまり「哲学」は自分を検討する視点をきっと有するのですが、これなしに自分の「信仰」があると考えている人が、一部ですが、確かにいるというわけです。
 
誰しもが、自分が傷つき、また他人を傷つけるリスクを減らすための「視点」が与えられうる機会、そこに「哲学」があると見ています。それは知識ではありません。哲学者の本を読むことが絶対に必要だという訳ではありません。「知を愛する」こと、「己自身を知る」こと、「まごころを尽くす」こと、いろいろなあり方があろうかと思います。「自分が正しい」を自分が決めて貫くことから、少しだけ離れて、そんな自分をも包み込むような見方ができたらいいのに、と自ら戒めつつ、思うばかりです。



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