自由の概念

2020年6月14日

「自由」について人が口にするとき、それぞれに違った意味を理解して述べていることが多々あります。「手紙」という文字で日本人はレターを想定して話しますが、中国人はトイレットペーパーと考えて話をします。これでは噛み合うはずがありません。自由についても同様です。
 
完全な分類には至りませんが、いまここで、いくつかの観点をご紹介しましょう。
 
「〜からの自由」、これは「消極的自由」とも呼ばれます。束縛から解放されていることを考えています。
 
「〜への自由」、これは「積極的自由」とも呼ばれます。自ら発言し政治運営に参加していくことを意味しています。
 
これらは人々と共通に平和な社会を築くための考え方で、古代ギリシアのアテナイで民主政治が営まれるときの基本的な考えの枠組になります。もちろん、これは自由市民故にできることであって、奴隷制などの背景があった背景もありますが、いまはそのことについて触れることは致しません。
 
政治の場面を離れて自由について考えると、思いつくのが「選択の自由」です。私たちはどちらを選ぶかという自由ですが、これを「選択意志の自由」と呼ぶほうが現代人にはしっくりきますが、古代ギリシアではなぜか「意志」という概念はなかったように見受けられます。近代文化の産物であったのかもしれません。「選択の自由」は、良いように取れば、自分で立てた目的のために選び択ることになるでしょうが、他方、誘惑や欲望によりそう選択するように仕向けられたままに、自分だけが自由だと思い込んでいるという状態をも生みだす可能性があります。いわゆるマインドコントロールはこれを利用した人心の支配をいうのでしょう。
 
「道徳的自由」という考え方もあります。パウロの考えもこれに近いように見えますが、理性や魂が善と知るものに従うべきだという理解をしながらも、なかなかそれに従えないのが人間というものです。人間はそういう傾向性の中にありますが、それでもその欲望になびかず、その支配から逃れて、それに逆らって、神の教えなど正しいものに従うことができる、そんな自由をもっているのだ、とするのです。
 
神の掟を知りつつも、悪に従ってしまう意志がもつ働きをも自由と呼ぶことにすると、意志はここで分裂します。それでも神に従うのだという自由を考えるならば、意志は二つの自由の間でジレンマに陥ります。非常に深い問題であり、これを巡って古来多くの哲学者が自由について論じてきました。
 
これが現実には再びまた、社会的な自由の場面でこうした問題と結び合わされて考察しなければならなくなってきます。日本国憲法の学習でも聞きますが、自由権と社会権という概念があり、時にこの社会的な自由が個人的な自由と齟齬をきたすことがあります。公共の福祉と自由権の問題です。最近でも、表現の自由と展覧会の閉鎖などの対立が起こりました。
 
そもそも人間には自由があるのかどうか。この問題について挑んだ18世紀の哲学者カントは、自由について、他の科学的な事柄のように結論を下すことはできないのだという論じ方をしました。しかしそれは、自由がないとするものでもないし、他方また科学的な命題のように、自由がある、と決めつけるものでもありませんでした。決めつけることはできないが、人間は少なくとも自由を否定してしまう必要はないということから、逆に自由の存在の可能性を護り、それを希望して自分自身としては、何ものかに支配されるようなことなく、悪いものから離れること、正しいと心が叫ぶことに従って歩むこと、それができるという自由を噛みしめ、その先に希望があるのだと謳うようにするのでした。
 
「真理はあなたたちを自由にする」とのイエスの言葉も、人それぞれに、深く味わって自分の生き方を明るくしてくれるものだと信じます。くれぐれも「労働は君たちを自由にする」というもじりを掲げてユダヤ人を大量虐殺へと導いた歴史の繰り返しを、私たちが許したり、あるいはまた私たちが実行したりすることがありませんように、と願いながら。



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