勉強・カント・信仰

2020年6月11日

勉強って、何のためにするんだろう。誰しも、一度は考えたことがあるだろうと思います。勉強とは何か。これに悩むというのは、あってもよいはずです。なぜ勉強するのか、無批判に、人のいいなりにやっていくというだけでは、危険な可能性があることを否めません。反省的な思考停止は、他人を利用しようとする権力者にただ操られる道具となるでしょう。
 
かといって、勉強とは何か、ということばかり始終考え続けるというのも、困ったものです。それでは結局、何もしないことになります。たとえ自分の中で何か理想的な勉強の効果に気がついて満足感を覚えるかもしれませんが、結果的に何の作用も及ぼさない、無意味なままに終わってしまうことにもなりかねません。
 
イマヌエル・カントが、2020年6月のEテレ「100分de名著」で扱われています。真っ向から、その主著『純粋理性批判』に挑むという、勇敢な番組企画に拍手を贈りたいと思っています。カントは人間理性を「批判」しました。つまり、それはどういう働きをしているのだろうか、と吟味・検討しました。そのとき、外敵な対象からの刺激を受容する「直観」を想定し、認識の内容はそこにあると説明しました。他方、人間の側に具わっている一定の能力を「悟性」と呼び、それは特定の「概念」によって思考を整理し、判断するのだと理解しました。
 
18世紀、科学的知識は大きな成果を挙げ、成功を謳歌していたのですが、哲学は不毛な議論をするばかりで衰退の途を辿っていました。カントは、科学的認識は、これら「直観」を適切に受け容れ、人間のもつ「概念」で適切に把握することで、揺るがない新しい知識を得ることに成功したのだ、と捉え、他方哲学(形而上学)は、「概念」だけで「直観」の根拠なしに思弁を振りまいていたために、現実に検証できない虚ろな理論を空回りしていたのだと指摘しました。
 
当時の哲学は、大陸合理論とイギリス経験論とが大きく張り合っていたのです。大陸合理録は、この「直観」の根拠なしに「概念」で説明してしまおうとしたのだ、とカントは言い、他方イギリス経験論は「直観」という経験から知識が得られると説明したために、原理的な根拠の薄い、従って人が生きる目的やなすべきことなど、人間の本来的な問いに応えることができなくなっていた、と事態を解説したのです。
 
こうした事情を踏まえて、カントは「直観を欠く思想は空虚であり,概念を欠く直観は盲目である」とか、「内容なき思惟は空虚であり、概念なき直観は盲目である」とか述べています。
 
勉強とは何か。これに没頭することは、現実の勉強を蔑ろにして自分の中で理想ばかり思い描くことになりましょう。他方、勉強とは何か、という問題意識なしに勉強をただ言われるままにしていくことは、それを何のためにするのか、自分の中で納得した統一感をもつことなしに、奴隷のようにやらされることになりましょう。
 
キリスト教信仰をもつ人の中にも、このような振る舞いがないか、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。
 
「信仰とは何か」、聖書からものすごくよく考えて、調べたり研究したり、あるいは話し合ったりして究めようとしている人がいます。素晴らしいと思います。しかし、それが頭だけ、口先だけのもので終わり、実際の生活が伴っていないのだとしたら、「直観を欠く思想」や「内容なき思惟」となり、空虚なものだと言われましょう。ヤコブ書がそこを鋭く突いています。
 
他方、信仰生活はとにかくよくこなし、奉仕も充実して、あれもこれも頑張ってやっている人がいるとします。しかし、いろいろなものに振り回されていることがあるかもしれません。また、信仰とは何か、考えることが薄く、何かしら間違った信じ方にいつの間にかすり替えられ誘われ囚われていくという危険性を伴っているとも言えます。荒野の誘惑でイエスが拒んだのはよかったのですが、ああしたことが私たちを襲うと、しっかりした信仰の原理をもっていないと、誘うそっちのほうが正しいように思えてしまう場合があるということです。こうして、芳しくない「異なった信仰」に逸れていってしまうわけです。これは「概念を欠く直観」であり、実は見えていないということになります。
 
この「すり替え」というのは、実は悪魔の得意な技だと見られます。私たちは、尤もらしい説明に納得したり、自分の中の偏見や思い込みに支配されたりすることで、いとも簡単に、本筋を逸れていってしまいます。そもそも「悪」とか「罪」とかいうものの本質は、そこにあるのではないか、という考えも成り立つことがあるのです。創世記のいわゆる「原罪」について振り返れば、そういうことを感じないでしょうか。
 
聖書からよく聴くこと。実際に聖書を生きること。これは、聖書に書いてあることを自分が実際に生きる指針とすることです。完璧にそれをこなせ、などという意味ではありません。ガイドラインとすればよいのです。勉強する意味を自分で納得し、コツコツと勉強を営んでいくように、聖書から日々与えられるものにより、淡々と日常を生きていくことを大切にしたいものです。これをつなぐものが、恐らく「祈り」であろうかと思います。お願いをすることでもないし、一時間正座していることでもありません。瞬時瞬時、共にいる神と接していることを、置き去りにしないようにしたいものです。



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