【メッセージ】清くない物、汚れた物

2020年5月31日

(使徒10:9-16,44-48)【ペンテコステ礼拝】

すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」(使徒10:15)
 
2019年に発行された『クルアーン やさしい和訳』を購入しました。イスラム教の聖典を「クルアーン」といいます。「コーラン」で覚えておられる方もいるでしょう。けれどもこの『クルアーン やさしい和訳』は、残念ながら「聖典」ではありません。
 
何を言っているか分かりにくいですね。「クルアーン」と呼ばれているものは、ムハンマドが神から言葉を受けたものを、口伝で記憶したものを、恐らくムハンマドが存命中だと思われますが、後に書記者が記録したと言われています。言語はアラビア語。そもそもアラビア地域で信仰されていましたから、そのままでしばらくよかったのですが、やがて他地域へも布教されるようになると、アラビア語を使わない地域の人々に「クルアーン」を翻訳するかどうかが問題になりました。いろいろ議論があったそうですが、結局、神の言葉は最初のアラビア語だけでありそれだげか「聖典」であるとし、翻訳したものは、解釈の書であるという理解で落ち着いたそうです。それが現代まで引き継がれています。
 
これで、私の手許にある『クルアーン やさしい和訳』が「聖典」ではない、という意味がご理解戴けたでしょうか。
 
これが「聖書」だったら、どうでしょうか。「聖書」は、キリスト教側で「旧約」と呼んでいるものについては、大部分がヘブライ語、一部アラム語で書かれているものが原典だとされています。旧約聖書続編については、ギリシア語やラテン語由来のものもあります。「新約」はギリシア語です。但し、イエスやパウロの時代、今と同じ形で「旧約」の部分がまとまった扱いを受けてはいなかったと思われ、またユダヤの人々が手にしていた「旧約」に当たる聖書は、恐らく基本的にギリシア語に訳された、いわゆる「七十人訳聖書」と呼ばれるものであっただろうと思われます。これですでに、原典としてのヘブライ語聖書は翻訳という形で信仰の書として扱われていたことを私たちは知ります。
 
そもそも聖書は、丁寧に書き写されていました。そのようにして増産された聖書を「写本」と言います。特にヘブライ語は、「一点一画」まで驚くほど正確に書き写されていたことが分かっています。
 
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。(マタイ5:18)
 
ヘブライ文字が「一点一画」まで丁寧に写されたというのは、たとえば漢字であったら、「トメ・ハネ・ハライ」まで正確に書いた、というイメージで捉えてみると少し近いかもしれません。しかし、いくら注意深く写したと言っても、しょせん人間の業です。書き間違いもあったでしょうし、ちょっと訂正したり書き加えたりというようなこともあったと見られています。そのため、写本には様々な相違が存在しており、無数の「本文」があると言われています。何を以て「聖典(正典)」とするかを決めることは不可能です。
 
それでも「旧約」は、選ばれた民としてのユダヤ人本位の信仰の書でした。それが「新約」になると、ユダヤ人に限らず、世界中の人々へ救いの知らせを告げるものとなりましたから、さまざまな言語に翻訳されなければならないようになりました。
 
そうです。イエス・キリストの救いの出来事は、世界へ拡がっていくのです。そのきっかけとなったのは、ペンテコステの日の、聖霊が轟音を立て、炎のような舌となって弟子たちに降りてきたあの出来事でした。霊を受けると外国語を話し始めたというのが、ユダヤから外に離れた地域の国々の言葉であったというわけです。その「ペンテコステ」を記念する礼拝をいま献げています。
 
ペンテコステというのは、日本語に置き換えると「五十」という意味の名前の祭です。過越祭から数え始めて五十日目、麦の収穫の祭です。福岡は小麦の産地で、この「麦(の)秋」の時季、小麦色というよりは黄金色に輝く麦畑が、福岡県に拡がるところがいくつかあります。小中学生にはこの小麦の生産のことも教えますが、なにぶんこの「麦(の)秋」という季語が春夏秋冬いつなのか、は学習上必須の知識です。「秋」という漢字が季節を表すようになったのは後のことで、最初は収穫を意味しました。多くの作物の収穫がなされる季節も同じ漢字で表すようになったのは、英語で秋を fall と呼ぶのと事情が似ていると思います。
 
さて、このペンテコステ当日の出来事から、今日は少しずらした時の場面を描く聖書箇所を開きました。いよいよ外国人、ここでは異邦人と表記されていますが、その外国人へ救いをもたらす福音が、いわば初めて伝わっていくシーンです。
 
ここで少し時間旅行をします。この異邦人へ福音が伝わったのは、イエスが十字架に死に復活した時から少し後のことと言えるでしょう。しかし恐らくルカがこの場面を記録したのは、それから半世紀ほども経った頃ではないかと推定されています。半世紀前の出来事について、よく調べて書いたとは思います。それから、異邦人へ宣教したという点では、パウロが浮かび上がってくることでしょう。パウロはいま訪れた2つの時代の、ちょうど中間にあたる時期に手紙を盛んに書いています。この異邦人が聖霊を受けて神を信じたという事件は、パウロよりも前なのです。しかしルカは、パウロがすでに異邦人に福音を伝えて各地に教会ができていることを知っていて、それよりまただいぶ後にこの使徒言行録を書いています。この書いた時点で知っていることや感じていることを、半世紀前の時の記録につい混ぜてしまう、あるいは影響を与えてしまう、というのはありうることではないでしょうか。
 
聖霊を受けてイエスを主と告白し、水で洗礼を受ける。恐らく教会は、こうした手続きを経て仲間に含み入れていたと思われます。ここにペトロがいろいろ説明するのを聞いて異邦人が神を信じたというところに、さりげなく、教会での洗礼の仕組みのようなものを書き込んだ、という推理は、果たして外れているかもしれませんが、記録書としてはありうる子とではないでしょうか。
 
10:45 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。
 
やはりユダヤ人以外に聖霊が注がれて救いがはっきりするというのは、びっくりすることだっただろうと思います。今ではごく普通にもなってきましたが、外見が白人の方が日本語を話すと、驚いて「日本語上手ですね」なんてことを言いたくなりませんか。イエス自身、イスラエルの救いのために教えていたと弟子たちも理解していたのでしょう。ユダヤ人を歴史の中で導いてきた神とその言葉の実現たるキリストの救いが、異邦人へもたらされる、これは新たな視点を与えられただろうと思います。
 
ペトロはこのことを少しだけ早く受け容れていました。それはこういう事情によるものでした。コルネリウスという百人隊長、つまり異邦人ですが、神を信じていたといい、そこへ神の天使が声をかけます。ペトロと会うように命ずるのです。その一方で、ペトロはユダヤの教えのままに祈る準備をしていましたが、腹が減ったのだそうです。この辺り、かなりリアリティのある生々しい感覚を伝えますが、よほど腹が減ったのか、ペトロは忘我状態となったところ、幻を見たことが記されています。
 
ペトロは「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見」ます。そこには「あらゆる」獣や鳥などが入っていました。これらを食べよ、と声がします。しかし、律法には、食べてはならない動物が規定されています。清くない物、汚れた物は口にすることができません。豚もそうですが、私たちのようにタコやイカはダメなのです。
 
10:14 しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」
 
ペトロは注意深く、「食べたことがありません」と言っています。非常に曖昧な返事です。「食べません」などと、神の命令を拒否する言い方をしないのです。このペトロの気持ちには私たちはなかなか同調できない気がしますが、自分が生まれ育った環境での社会規範は、どうしようもなく身についていますから、それを破れと言われても、確かに「はい」と腰を上げはしないものなのでしょう。声のほうは、そのペトロの言葉の「清くない」という部分にしっかり噛みついてきます。
 
10:15 すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
 
私はこのペトロと点からの声のやりとりの様子を、横から眺めることができず、いつの間にかその応答の最中に飛び込んでいました。そして3つの体験をしました。それをシェアできたらと願います。
 
天の声、これはもちろん神の声と位置づけましょう。つまりペトロはいま、神と向き合っています。神と差し向かいで対話をしています。このような場面にいま私たちはいます。
 
このときまず、屠って食べよという神からの命令に対して、それはとんでもないと言い、「清くない物、汚れた物」という言葉を持ち出しました。これは、神から与えられた律法の規定を根拠に持ち出したということです。つまり、まずペトロは、「神に言われたことに従えないのは、神の与えた聖書の規定に反するからだ」と答えたことになります。
 
私たちは、「聖書に書いてある」として、物事の判断を聖書のせいにすることがあります。「せいにする」というのは語弊があるかもしれませんが、特に罪、しかも「他人の罪」については、これをすぐに持ち出す癖があるように見えます。「〜は罪です」とSNSにあるとすれば、その殆どすべてが、自分についてでなく、他人のすることについて言及しています。しかもそれは、「聖書に書いてある」として、他人のすることを罪にするのです。
 
いやまさか、そんなに簡単にはしないだろう、ひとを裁くようなことは。そうお思いかもしれません。私はくどくどと人間の心理をいまここで暴こうとはしないことにします。問いかけるに留めます。歴史の中で、そして恐らく今もなお、「戦争」は相手を悪魔呼ばわりし、自分は正義であるから悪魔を叩き潰す、簡単にいうとそういう論理で行ってきたのではないでしょうか。その根拠は「聖書に書いてある」と、相手が悪であることを証明するのです。時には不思議な力をもっているという理由で「魔女」のレッテルを貼ることで、多くの人を殺してきました。性的少数者を罪人呼ばわりして虐待してきたのは、聖書を根拠に強弁する教会でした。今の時代に、恰も性的少数者のずっと味方であったかのように振る舞っている向きもありますが、私は根本的な悔い改めと謝罪をすることが先決であると考えます。
 
私たちが聖書を根拠にして、如何に自分を正当化しやすいものなのか、問われている。ペトロの言葉に、まずそのように気づかされました。
 
次に、ペトロが「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来る」のを見たことについてです。見えた幻は、開いた天から下りてきました。つまり、私たちの課題となるものは、神から与えられる、神から来ているということです。
 
この獣などは、ペトロがこれから課題としていく問題である、異邦人を表していました。これまで清くないと考えていた外国人たちです。そもそも「清くない」というのは、確かに「不浄な」という訳がほかに多いことからしても、次の「汚れた」と基本的に同じことを言おうとしている語ではあるのですが、ユダヤ教の感覚からすると恐らく、神のものとして特別にとっておく「聖」の反対のことを思い描かせようとしているのではないかと私は捉えます。特別に選ばれたのがイスラエルの民であるならば、異邦人は特別ではないありふれたただの人間たちということになります。いったい神の特別な律法とその完成たるイエスを通じての救いは、そのような異邦人にもたらされるのでしょうか。この課題とペトロはここから向き合うことになるわけです。それは、神がもたらしたということに目を留めたいのです。
 
私たちの、いえ、私の、そしてあなたの、課題は何でしょうか。それは自分で考え出したものでしょうか。たぶん自分の外から与えられたものではないかと思います。それは時に、辛い与えられ方であるかもしれません。苛酷な環境に追い詰められ、その問題にもがいているかもしれません。どうしてこのような目に遭わなければならないのか、と苦しんでいる場合もあるでしょう。けれどもそれは、天からもたらされたと受け止めることで、慰めを得ることができると思うのです。神がこんな苦しい目に遭わせるなど信じられない、そう思いがちなところを、ひとつこらえて、神が与えたのではないだろうか、と思い直すことはできないでしょうか。というのは、それが悪魔からのものであれば私たちがそれを乗り越えるには悪魔に打ち勝たなければならないのですが、神からのものであれば、神はその困難を越えることもおできになる、と考えることもできるからです。神を信頼するならば、神はこの壁を壊してくださる、神はこの向こうに喜びを備えていてくださる、と思うこともできるかもしれないのです。
 
最後に、私はこの場面のどこに登場しているだろうか、と考えたとき、私はこれだな、とすぐに思えたものがありました。皆さんはどうですか。ペトロですか。それもいいですね。ペトロの話を聞く人々であるかもしれませんね。私ですか。私は、まさにその「清くない物、汚れた物」が自分だと思いました。だってそうなのです。自分はなんと泥にまみれ、汚いことばかり浮かぶ心を有し、だらしないことばかりしているものなのか。ひとを傷つけ、高慢になり、無能な失敗ばかり繰り返し、周りの人を不快にさせることばかりしかできない。一体どこが清いでしょう。どんな道徳規準をもってきても、到底合格できないような者です。「清くない」ではありませんか。「汚れた」者ではありませんか。神の前にそう告白せざるをえない者であるのに、この天の声はこう言ったのです、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と。
 
不思議とこのように「神が清める」というような表現は、パウロは殆ど使いません。僅かに見られるコリント二7:1も、自分を清め、のような使い方をします。新約聖書では実はそのようなふうに使うことが確かに多いのです。しかし、確かに次のような言い回しもあります。テトス書です。
 
2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
 
神が私たちを清める。このことがよく表れているのが、ヨハネの手紙第一です。
 
1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
 
キリストが献げられたからには、私は清められている。私の目には自分はぼろぼろであるにしても、神の目には価高く(イザヤ43:4)、神は私を洗い、罪から清めてくださいます(詩編51:4)。そしてテトス書ではこのようにも言ってくださいます。
 
3:5 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
 
イエス・キリストの十字架の血は、その血で洗うことにより私たちの衣を白くする(黙示録7:14)とまで言われます。自分は汚れた者だ、つまらない者だ、そのように嘆き、今日「清くない物、汚れた物」という言葉に、それは自分のことだ、という思いを懐いた方であれば、必ずやここから清くされることでしょう。キリストの十字架は、自分が汚れた者だち嘆く人の目の前に、血だらけで輝きます。そして、神がその人を清めます。すると「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と全世界に宣言するのです。
 
最後は、ペンテコステの収穫祭の話に寄せて、イチジクとブドウの風景と重なるイメージで、今日のお話を閉じましょう。6月になる頃でしょうか、イチジクの実が成り、ぶどうの花が咲くでしょう。イスラエルはこのぶどうの樹に、様々な思いをのせて、神を思い、喜びを与えられてきました。雅歌という男女の恋愛を描く美しい詩が、恋人を称え、誘います(2:13)。
 
いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。
恋人よ、美しいひとよ
さあ、立って出ておいで。
 
さあ、立ち上がりましょう。もう清くしたから。私の傷から流れ出る血が、あなたを清めたから。あなたはもう美しい。だから、立ち上がり、歩き始めなさい。



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