説教が豊かに響く道の試験的分類

2020年5月26日

「私」が神を信頼している(信じている)。そういう事態をここに表してみましょう。これを次の4つのパターンに便宜上分けてみます。「→」は、「信じている」という様子を意味します。このとき、( )は、そこに焦点を当てている、という意味の記号として使います。
 
A 「私」→ (神) ……神という対象についていろいろ考えている。
B 「私」(→) 神 ……いったい「信じる」とはどういうことなのかを考えている。
C (「私」→神) ……「私が神を信じている」という事態全体を考えている。
D (「私」)→神 ……信じているこの私とは何かについて考えている。
 
どれが正しくてどれが正しくない、などと言っているのではありません。聖書の中で「私は神を信じる」ということを言う場面には、いろいろな温度差、見る角度や視点の相違がある、つまりは意味合いの違いがある、ということを理解したいと思うのです。
 
A 「私」→ (神) ……神という対象についていろいろ考えている。
これは「神とは〜である」ということに関心が強い場合です。私がどう思うかなどとは関係なく、ただ対象としての神が如何なるお方かを気にします。神学の多くはこのようにして神とは何かを論じるでしょう。学として成立するためには、客観的に何か言う命題が必要となると思われるからです。
 
B 「私」(→) 神 ……いったい「信じる」とはどういうことなのかを考えている。 これは「信仰」とは何かに関心がある場合です。対象としての神がどのような方であるかを話題にするというよりも、自分が神を信じるその「信仰」とは何か、を問題にしようとします。これも、私がどうとかいうこととは関係なく、誰が主語であっても、「信仰とは……」のように述べたいケースです。
 
C (「私」→神)  ……「私が神を信じている」という事態全体を考えている。
「私が神を信じている」という出来事に関心があります。神を客体視しても自分とは無関係な存在であってはならず、単に「信仰」とは何かが分かっても、自分が信仰するということをせずにいるのではありません。この私が神を信じているということ全体がひとつの前提です。私が主体的に関わり、私の生き方が変革されるといった動きが期待されます。
 
D (「私」)→神 ……信じているこの私とは何かについて考えている。
最も関心があるのは、自分自身であるという場合です。人間の認識行為や信仰する働きを解明したいという欲求があります。冷たいように見えるかもしれませんが、この私がどういう存在や状態であるのかについて考えることがなければ、そもそも罪を覚えたり悔い改めたりすることがないかもしれません。
 
「私は神を信じている」と口にするとき、これらのうちどこかに強調点があるのではないか、あるいはどれかを特に問題にしているのではないか、という目で見つめるとどうなるか、少し立ち止まって考えてみては如何でしょう。
 
続いて、今度はこの神のことを誰かに伝える場面を考えてみます。ここにも主語としての「私」が関わるのですが、私にとり、神と「あなた」との関係が生まれてほしいと考えています。つまり、神と「あなた」との関係に焦点を置きたいと思います。そこで、今度は「→」は「伝えられる」という様子を意味するものとします。つまり今「神があなたに伝えられる」という出来事について、先ほどと同様に強調点を場合分けしてみます。
 
A (神)→「あなた」 ……神という対象がいわば知識としてあなたに伝えられます。
B 神(→)「あなた」 ……神があなたにどう伝えられているかに関心を寄せます。
C (神→「あなた」) ……神があなたに伝えられる事態全体を問題としています。
D 神→(「あなた」) ……神が伝えられるあなたのことに一番関心があります。
 
A (神)→「あなた」 ……神という対象がいわば知識としてあなたに伝えられます。
これも神学のレクチャーであってよいし、また大学などで神とは何かを論じるときになされているようなケースです。私が話そうとあなたが話そうと、誰が話題にしようとも、神は神であって、どうであるかということに関心があります。神という対象を問題にしているだけで、論じる者自身の意志や人生には何も関係がないのだと言えます。
 
B 神(→)「あなた」 ……神があなたにどう伝えられているかに関心を寄せます。
メディアをイメージすることができます。直接説明したり文書だったり、映画や音楽である場合もあるかもしれません。また、人生の中での経験で神のことが実感されていくならば生活の様々な場面にライトが当てられます。中には大自然を見て神を感じることがあるかもしれないし、夢の中で語りかけることもあるでしょうか。
 
C (神→「あなた」) ……神があなたに伝えられる事態全体を問題としています。
あなたの人格そのものに神が影響を与えている様子が想定されます。いくらBのように様々な場面で神が伝えられても、何も感じない人はいるし、心に響かない時もあるでしょう。しかしまさに神があなたに伝えられているその出来事全体が指摘されるというのは、あなたの心を揺り動かしたり、あなたに喜びが沸き起こったりする様子が想像されて然るべきでしょう。聖霊が働くと言われるのはこういう時が一番近いような気がします。
 
D 神→(「あなた」) ……神が伝えられるあなたのことに一番関心があります。
あなたはどうなのか。自分自身のことをよく考えよという様子ですが、時にそれが神のゆえであるのか本当に神が影響を与えているのか定かでないこともあるでしょう。また、私がともかくあなた個人のことを心配しているとか気にしているとかいう言動で寄り添うだけの事態をも含むかもしれません。
 
さて、「私が神を信じて、その神があなたに伝えられる」という一連の出来事を取り扱うとすれば、理論的にはこれらA〜Dの4通りが自由に組み合わされて、4×4=16通りの動きがあり得ることになりますが、恐らくスムーズに事が運ぶのは、同じAとAといったつながりになるのが自然ではないかと思われます。つまり対象としての神を私が思うとき、相手にも神を対象として説明するでしょう。信じるところに強い関心を寄せるならば、あなたが信じるという行為に至る場面が関心の的になるのではないでしょうか。私の生き方が変化するようなあり方があれば、あなたの生き方も変わるのだとアプローチしたくなるように考えられますし、自分とは何かを突き詰めるとき、相手も自分自身を見つめ、その営みを通して、神を知ることへと導かれていくかもしれないように感じます。
 
一口に神を伝える(伝道)などと言っても、いろいろなケースがあり、いろいろ思い描く構図が違うだろうかと思います。礼拝説教にしても、その語り手の得意な動きがあることでしょう。神とは何かを説き明かす個性もあれば、信仰とは何かに偏る人もいます。自分が変えられたという体験を証しする時もあれば、自分自身の中に沈潜する思索が得意な人もいるでしょう。しかし、どれか一つしか手段を持たないとなると、伝えられる「あなた」へのアプローチも制限されてしまうかもしません。そして、単にAしか話したことがない、というような心当たりがあれば、それは説教としては成り立っていない可能性がありますから、少し意識して改善を図ることが求められるかもしれません。そしてくれぐれも、そもそも「私」というものがなくて、「誰か他のクリスチャン」がどうとかこうとか、ばかり繰り返すだけの「噂話」のようにだけは、なってしまわないように、お気をつけ願います。そもそも神と自分とが向き合っていないなどというスタートは、もはや論外ですから、まずはそのステップをご確認されますように。
 
どうぞ語られる説教が、筋が通りながらも変化をもつ、豊かな厚みをもった響きで、様々な人へと伝わっていきますように。



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