【メッセージ】教会の一人として

2020年5月24日

(使徒8:1b-8)

さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。(使徒8:4)
 
聖霊の力を得て逞しくなったキリストの弟子たち、特に選ばれた12人をルカは使徒とずっと呼びます。賛同者も多く現れ、かつてのイエスのように、人々を癒すことも始めたので、評判はよかったようです。ユダヤ当局に目をつけられていて、時折妨害に遭いましたが、なんとか活動は続けていられました。
 
そんな中、重要な教会組織についての情報があります。
 
6:1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
 
一致してひとつの心であったなどとしきりに書かれる教会ですが、内情は一種の分裂があったことが分かります。ユダヤ教に帰依した者をユダヤ人と呼びますから、ユダヤ人というのは肉体的な血筋や特徴で決まるものではないとされます。当時すでに、「ギリシア語を話すユダヤ人」と「ヘブライ語を話すユダヤ人」とがいて、うまくコミュニケーションがとれていなかったふうな点が明らかにされています。これらをしばしば、それぞれ「ヘレニスト」と「ヘブライスト」と呼び分けます。言語が全く通じなかったというわけではないと思われます。しかし育った生活環境や文化理解が異なったのは確かでしょう。喩えはよくないかもしれませんが、他国で生まれ育った人が日本に帰って住まうようになったときの異文化感覚を思い浮かべると、いくらか雰囲気が理解しやすいかもしれません。なお、キリスト者たちは当時はユダヤ教の一部のような働きをしていたと見なされますので、ここに「ユダヤ人」と呼ばれているのは、ユダヤ教を信じるという意味ではありません。
 
使徒たちはヘブライストです。そこで、日常の世話をする担当として、7人を選びましたが、これらは名前からするとヘレニストのように見受けられます。そのうちの一人ステファノが、目立った活動をしたに見えて、キリスト者ではないユダヤ人たちに捕らえられ、最高法院でリンチにあって死んでしまいました。今日の場面はその時から始まります。
 
8:1 その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。
 
まさにその日だといいます。ユダヤ人たちはローマ帝国の支配下にありましたから、正式な裁判で人を死刑にすることはできなかったと言います。そこでステファノの場合も、正式な裁判というよりはユダヤ人の間での憎しみある争いの中での私刑(リンチ)であると見なされうるかと思うのですが、これをきっかけに、ユダヤ教当局の間でキリスト者たちにくすぶっていた不満が爆発したような書きぶりです。明確な「迫害」だとルカは記します。
 
ここで注目したいのは「使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」という表現です。使徒たちはその場に残ったらしいのです。つまり、エルサレムにです。後にエルサレム教会としても立ち続け、パウロはそのエルサレム教会との関係でごたごたしてしまうのですが、とにかくエルサレムに一部のキリスト者は残り、それが使徒であったと記録されています。そして、使徒たち以外のキリスト伽は、エルサレムにいられなくなり、周辺へ散り散りになります。ユダヤはまだ近いユダヤ教の領域ですが、サマリアとなると、ユダヤ教とはひとつ壁をもった地域です。紀元前8世紀にアッシリア帝国に滅ぼされた北イスラエル帝国の地に、アッシリア帝国から移住者が入り、混血が進む中で、宗教も南のユダ王国とは少し違った様相を見せていきます。そのためユダ王国からすれば、サマリア地域は純潔でなくなった異端の宗教を信じていると見なされ、むしろ憎み合うような関係になっていきました。そこへも、使徒でないキリスト者の一部が散っていったというのです。
 
8:2 しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。
 
「しかし」は逆接というよりは「また」というような感覚だと思いますので、使徒たちや散った人々が信仰深くなかった、という意味ではありません。これは、基本的にユダヤ人を形容しない言葉で、異邦人ではあるのだがユダヤ教を信じている、というような立場の人々を表すのが普通です。リンチで殺害されたステファノの埋葬は、信仰をもってはいるが異邦人である者たちが行った、そして悲しんだ、と書いてあるのです。それくらい、キリスト者はおちおちしていられなかった様子が伝わります。早く散らないと、命が危なかったのでしょう。但し、この背後でエルサレムに残った使徒たちはどうだったのか、気になります。穿った見方をすると、ペトロを始め使徒たちは、当局となんらかの形でつながっていたのではないか、と考える人もいますが、ここではあまり裏の裏は考えないようにしておきましょう。
 
8:3 一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。
 
実は1節でも、ステファノの殺害にサウロ、つまり後のパウロが関与していたことが触れられているのですが、今日はこのサウロその人の働きや役割については深入りしないことにします。要するに使徒以外の信徒が散らされたのだということが描かれている、という理解に留めます。
 
そして舞台は、散らされた人々の働きに移ります。
 
8:4 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。
8:5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。
 
フィリポという名前の人物は、十二使徒の中にもいました。が一方、先にヘレニストと思しき7人選び出された役員たちの名簿の中にもいりました。
 
6:5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、
6:6 使徒たちの前に立たせた。
 
ではこの散らされた人物は、どちらなのでしょう。確定はできないかもしれませんが、使徒たちのほかが散らされたという言い方が先にありました。論理的に、使徒たちの中にも散らされた人がいても構わない表現なのですが、恐らく使徒ではないほうのフィリポではなかろうかと思われます。この8章で、エチオピアの宦官との出会いもフィリポであるとして記事が続くのですが、この後使徒21章で、カイサリアにあった「例の七人の一人である福音宣教者フィリポ」(21:8)の家にパウロやルカなどが行き、そこでフィリポの4人の未婚の娘たちと会っています。フィリポはこの後、聖書のどこにも登場しません。このように、使徒言行録においては、この7人の役員のひとりである方のフィリポが登場する様子を見ますので、この散らされた人物フィリポも、使徒ではないほうだと今日は理解しておくことにします。彼はサマリアで福音を宣教していた、というのです。また、散らされた人々も、ただ逃げたのではなくて、福音を語りながら、知らせながら巡り歩いていたといいますから、驚きます。大した根性だと言えないでしょうか。
 
8:6 群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。
8:7 実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。
8:8 町の人々は大変喜んだ。
 
フィリポはキリストを宣べ伝えただけでなく、不思議な奇蹟をも起こしていたといいます。また、その業が、フィリポの語る言葉に人々の注意を向けさせたようなふうでもあります。群衆はもちろんサマリアの人々ですが、この語についてルカはあまり良質の人間を思い描いてはいないようなので、事実この後、腹黒い魔術師シモンを相手にします。さらに、エルサレムからはペトロとヨハネが派遣されて、サマリアをキリスト者を生みだす地に変えていくことになります。サマリアは、ユダヤ教に対しては厳しく対立していましたが、どうやらキリスト者に対してはそんなに反感を覚えることはなかったふうに読み取れます。
 
さて、ひととおり今日の聖書箇所を見渡してきました。最初に、「ヘレニスト」と「ヘブライスト」とがいたことに注意を促していました。イエスを主と告白する新しいムーブメントの共同体の中に、2つのグループができていたことに注目したわけです。ユダヤの地にいるばりばりのヘブライストと、すでに他地域、あるいは外国に住んだり外国の文化に馴染み育ったようなヘレニストとがいて、エルサレム教会では、ヘブライストのほうが優遇されていたような向きがあったことで、ヘレニストの中からも有力な役員を選び出した経緯を確認しました。その中にいたステファノが殉教し、フィリポがサマリアに出て行って、宣教の成果をもたらしました。
 
ヘブライストは、エルサレムに留まります。ヘレニストは、エルサレムにいられなくなり、散らされて行きますが、その地で教えを伝え、信ずる者を得ます。果たしてこれほど鮮明に色分けができるものなのか、私は疑問に思います。が、何かしら対照的なグループが存在していたことは押さえておきたいものです。教会の中に、必ずしも折り合いのよくないグループがあるというのは、できれば表に出したくないことではありますが、それらを隠さず、またそれらを逆に強みにして、活動をしていくこともできるだろうと考えるのです。使徒のような弟子たちの中にも、落ち着いた者もいれば慌て者もいます。金持ちであったタイプと、そうでないタイプともいたでしょう。政治的に過激な思想をもつ者もいたし、差別的待遇を受けていた者もいました。それらのどれか一方や一部だけを取り出して、弟子たちは皆そうでした、と報告するのはやはりフェアではありません。ルカにしても、この使徒言行録において、ペトロを中心に綴ったり、パウロを主人公にしたりと、バランスを保ちながら教会の働きを描いています。
 
私たちは、教会という共同体を、あるいは広く言えばキリスト教世界全体を、何かしら一つの色で塗りつぶしてしまおうとしていないか、顧みる必要があろうかと思うのです。たとえばエフェソ書ではこんな箇所があります。
 
4:5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
4:6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
 
パウロは「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」(ローマ12:5)とも言っていましたし、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(コリント一10:17)とも勧告していました。けれども、「多くの部分があっても、一つの体なのです」(コリント一12:20)とあるように、キリストという大きな一つの体の中に、働きの異なる様々な部分があることは分かっていました。統一と多様性とがバランスよく理解されていることが大切であろうことが分かります。
 
この初期の教会においても、そのような理想は考えられていただろうと思います。ルカの筆致は、そんなことはあるだろうかと思えるほどの美しい夢のように描いているような気もしますが、実際は多くの問題を含んでいたであろうことが、注意深く読んでいくと思い当たります。今回の、ヘレニストとヘブライストとの気持ちのずれもそうです。しかしまた、それでよいのではないかと思います。
 
そのずれが、イエス以後初めての殉教者を出したこのとき、ばらばらにそれぞれの働きとして始まりました。「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(8:4)というその一つの働きは、なにげない表現ですが、散らされてただ逃げまどうのではなく、積極的に自らできることを見いだしていった様子が思い描かれる書き方です。このときは、パニックだったはずです。有力な役員がイエスのように無実で殺されたのです。迫害が始まったのです。どうしてよいか分からず、また神はどうしてこんな目に信ずる者たちを遭わせるのか理解できないという、先行き見えない中での不信感すら沸き起こりかねない情況でした。繰り返しますが、これはパニックです。
 
新型コロナウイルスの脅威が教会の働きを止め、人々を不安や恐怖に巻き込みました。他人を信じることができなくなり、他人の行動に目くじらを立て厳しく裁き合うような、ぎすぎすした世の中をも生みだしました。そんな中、良かれ悪しかれ仲良しグループをも育んできた教会が、組織的に活動ができなくなっています。教会員も孤独の中に追い込まれ、辛い気持ちに陥っている場合があります。パニックというと、行動だけでなく、「突発的な不安や恐怖による混乱した心理状態」を指すことができますから、まさに今世界はパニックに陥っていると言うことができます。それと同じような状態にあったステファノ後の教会のように、組織的に命じられて宣教できずに散っていったキリスト者が、福音を告げ知らせながら巡り歩いたことに、心を留めようではありませんか。
 
それでは私たちは自分をヘレニストの一人だとして読めばよいのでしょうか。確かに、ヘブライ人ではなく異邦人であるという意味で、ヘレニストであると考えるのはある意味適切でしょう。しかしまた、教会組織にしっかりと属し、教会を動かすメンバーであるという意味では、ヘブライストの立場にあると言えるかもしれません。教会から離れて自由に(ではないかもしれませんが)活動したヘレニストとは立場が違うとも言えるでしょう。あるいは、フィリポの不思議な業を目にしてその話に聞き入った、サマリアの群衆がいまの自分にはしっくりくるなぁ、と思った人も、この中にいるかもしれません。彼らはフィリポの話を聴いて「大変喜んだ」のでした。誰であってもよいのです。誰であってはいけないとか、誰でなければならないとか、そんな決めつけ方はしないようにしましょう。まだ洗礼を受けていなくて、でも心は聖書の神に向いていたり、信仰的な体験をもっていたりする人がいたとしたら、「信仰深い人々」であるのかもしれません。この人たちはステファノの埋葬を担当し、「大変悲しんだ」のでした。
 
悲喜交々、それぞれがそれぞれの場所で、それぞれの時の中で、つながっています。つまりは、こういうことになるかと思います。イエス・キリストという一点でつながっているならば、教会の中には、どんな人がいてもいい。その人はその人として居場所があるのです。あなたはあなたとして、教会にあって尊い。あなたであることだけが、教会の一部であることの条件であるし、教会に場所があるのです。居心地の悪い教会組織であれば、もしかすると「散って行った」としてもよいかもしれません。但し自分勝手に、人々の分からず屋、などと呟きながら自分だけが正しいんだぞと思い込むのではありませんように。どこまでもキリストが中心で、キリストを信頼し、キリストに従う歩みでありますように。あなたの口から出る言葉でなくてもいい。あなたの振る舞いが、行動が、キリストを知らせる福音、よいニュースでありますように。キリストの体という、見えない大きな大きな教会につながる一人として、あなたはあなたとして、生かされてここから今日、明日へと進んで行くのです。



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