教会はLGBTQの味方、でよいのか

2020年5月22日

当事者の立場にある方に不愉快な思いをさせてしまう表現を含みます。寛大に受け止めてくださればありがたい、というような甘えた言い方しかできませんが、私自身を含めて、何らかの欺瞞の存在を確認し、それを撤廃するため、また、どんな壁をもできればつくることのない社会でありたいと願う中での言及であるという意味でお察し戴ければ幸いだと思っております。お許しください、としか申せません。
 
戦争は過去の日本人がしたこと。いまは平和をぼくらは希求する。他国を支配し残虐なことを日本人がしたとしても、ぼくらには関係がない。平和がすばらしい。ぼくらは平和を支持する。さあ、ぼくらは平和のしもべだ。
 
確かに、このように考える人も、世の中にはいます。しかし、多くのキリスト者は、こうした考えは取らないだろうと思います。罪という概念が救いの根底にある以上、このような考え方はそぐわないように思われるからです。
 
いや、過去の日本人がしたことも、自分と関係がある。いまこの自分が直接手を下したというのとは違うが、ある種の責任を覚える。中には、いまの自分たちの罪でもあるという自覚をもつ人もいる。自分たちが戦争に負い目をもつことで、これから先の真の平和を考えていくことができるのだと思う。
 
これに近い方向で考えることが、キリスト者には多いように思われます。けれどもそれは、もしかすると、同じ日本人の中で、日本人に向けて語っている、そういう場面の中での言葉であるような気がします。戦勝国に向けて、あるいは日本人から残虐な仕打ちを受けた国々に向けては、語りにくいのではないでしょうか。
 
何が言いたいかというと、戦争のことではないのです。戦争についてどう思うべきか、ということはいまは問題にしていません。キリスト教の歴史そのものを問おうとしているのです。
 
不思議でたまらないのは、昨今キリスト教界で、LGBTQなどと呼ばれる人たちを強く支持する声が挙がっていることです。もちろん、それと反対の意見もいます。聖書の記述に従い、同性愛や獣姦などを罪だと詩的する声です。次はいずれもレビ記です。
 
18:22 女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。
18:23 動物と交わって身を汚してはならない。女性も動物に近づいて交わってはならない。これは、秩序を乱す行為である。
 
20:15 動物と交わった男は必ず死刑に処せられる。その動物も殺さねばならない。
20:16 いかなる動物とであれ、これに近づいて交わる女と動物を殺さねばならない。彼らは必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。
 
そればかりでなく、次のように申命記では、聖書は異性の服を着ることまでも禁じています。
 
22:5 女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。
 
すると、「確かに書いてあるが、【罪】だという文字はそこにはない。だからこれは【罪】ではない」という声も見たことがあります。法的概念の解釈についての大学の講義を思い起こします。
 
これは旧約聖書からの引用でしたが、新約聖書のローマ書にも次のような熱い言葉があります。
 
1:26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、
1:27 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
1:28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。
 
少し整理します。キリスト教界は、こうした記述を根拠に、これまでの歴史で、いまLGBTQのように呼ばれている人々、あるいは性的少数者たちのことを、一方的に断罪してきたということ、これをまず押さえなければなりません。続いて、今は「弱い立場の人の味方」のような顔をしているということ、これはすべてのキリスト教会がそうだとは言いませんが、多くがそのように言っていると見なしてよいだろうと思われます。人権を守る、結構です。イエスが現代にいたら慈しみ助けるだろうとか、差別されている人を救うのがキリストだとか、いろいろな理由や背景が説明されることがあります。
 
しかし聖書の記述自体を変更することはできませんから、やはり先に挙げたような箇所を認めざるをえず、だから聖書の一言一句をそのまま信じると宣言する立場からすれば、マイノリティを認めないということになり、それではいけないと思う立場からすれば、聖書の解釈を考え直さなければならなくなります。それは、何を信仰するかという根本的なところにまで関わってくる問題だと言えます。
 
現代社会で、これら少数者を糾弾するということは、言うなれば反社会的な思想ということになりそうです。それで人権などの考えを、聖書より優先するための捉え直しが必要になってくることは必定です。但し、こうしたことは性的少数者の問題に限りません。特に旧約聖書に満ち満ちている、殺せという神の言葉、略奪をせよという命令、多民族への差別など、枚挙に暇がないほど、聖書の中の言葉は現代社会にそぐわないものばかりです。新約聖書はその点かなり現代に近くなっていると言えるでしょうが、それでもパウロの手紙などにある男女差別の著しさは、やはり現代社会ではとんでもない思想だと見なされることでしょう。
 
それでも、人を愛するという、何よりも尊重すべき教えを軸にするならば、やはりマイノリティと共に生きていきたいものです。その前提で踏み込みますが、だからこそその際、必要なことがありはしないか、ということ、これが今回考えたい事柄の核心です。
 
その人たちが「差別された」などと、どうして他人事のように言うのでしょう。キリスト教界が率先して、あるいは根拠を示すことで、「差別した」のではないのでしょうか。いろいろ良心的な声も聞かれますが、根本的に「悔い改めます」という宣言がも表に出て来ないような気がするのです。少なくとも、キリスト教界がこの問題で自ら苦しめてきた罪を悔い改めます、という声が真っ先にあって、それからの支持という順序が必要なのではないでしょうか。
 
最初に挙げた戦争に対する姿勢で、俺は関係がないと逃げていることを今キリスト教界はけしからんと言うことがある、と言いました。しかし、そのキリスト教界が自らしてきたことから逃げているのではないか、という視点を提供するのが、ここでの私の使命です。もちろん、一律に、画一的に決めつけているつもりはありません。心ある活動をしたり、また当事者の立場で牧会される方がいたり、多くの努力がなされていることを理解はしていますが、それでもこのようなことを提言する意義はあるのではないか、という思いはあってもいいのではないか、と考えました。
 
戦争責任を追及せよとか、戦争被害者への補償を蔑ろにするなとか、戦争に関することを過去にしようとする政治当局に対して、厳しい意見を突きつけるキリスト教界の勢力があるのは事実です。それも大切なことだとは思います。しかし、そのように他人に厳しく迫っていながら、キリスト教が過去の歴史にどんなに酷いことをしてきたか、そして性的少数者を弾圧してきたか、ということには自ら触れようとせず、あまつさえ、キリスト教はずっと性的少数者の味方です、のような顔をしているようなふうにはしてほしくない。そのためにはもっと明確に、謝罪を宣言しなければならないと思うのです。あなたたちのことを酷く扱ってきた、痛めつけたのは私たちです、ごめんなさい、と弁明なしに言わなければならない、と。
 
そう、もちろん、私もです。私は個人的に、様々な意味で「弱さ」を抱える人、強いられる人に対して共感を覚える傾向がありますから、せめてその反対の立場で叫ぼうという意図はありませんが、それでもいつしかどこかで強者の側からものを見ていたり、発言していたりするのだろうと思います。そして、過去のキリスト教界が犯してきた過ち、いえもう分かりやすく言うと「罪」を背負おうと覚悟します。私の信じているその信仰の歴史は、残酷なことをしてきた歴史でありました、と。決して、「敬虔な」「善人」のようなふうには呼ばれたくない、おぞましい存在でした。旧約聖書が特に、人間の罪の歴史を刻んでいる、と言われることがあるように、キリスト教界の歴史もまた、罪の歴史でもあって構わないし、そうに違いないのだ、というくらいの悔いる心を以て、それでもなお、自分の出会ったこの神の言葉を真実として握り締めるしか、自分の命はないのだ、という、ある意味で悲壮な魂で、向き合い、礼拝を献げ続けるばかりの、愚かな一人として、いまここに立っています。


※さる方からご批判を戴きました。では当事者はどうすればよいのか、という点のご指摘を戴きました。確かにその通りです。それでお応えをした点も併せて掲載することと致します。

愛あるお言葉をありがとうございます。分かったようなつもりで言うのではありませんが、その「苦悩」がどのようなものであるか、によって、道は様々あるのではなかろうかと思います。ご自身に信仰なり肯定感をもたれているときにある苦悩は、社会の側の無理解や制度的差別などであるかもしれません。ご自身に対して嫌悪感をもつような方がおられたら、たとえば神が愛しているなどという肯定的な自認ができるとよいと切に思います。こうした苦悩のほかに、歴史的にも、もちろん聖書やキリスト教だけではありませんけれども、近代社会制度へ絶大な影響を及ぼしてきた西欧文化が、そしてしばしば教会の教えがもたらした苦悩もあるのではないか、私たちはそれを引き受けないではいられないのではないか、こちらに焦点を当てるのが今回精一杯でした。確かに、当事者を救う道の配慮がありませんでしたことは、お詫び致します。その方の求める「出口」は、もちろんその「苦悩」からの出口という意味だと思われますが、自己自身に強い苦悩を抱えていないような方々にも、先ほど申し上げた社会制度など、何らかの苦悩を強いられていることを想像しておりました。特に近年は、若者文化を中心として、明るい(?)BLや百合ものがかなり拡がっていること、また文学や一般の映画でも多く取り上げられるようになっている(綿谷りささんの『生のみ生のまま』は傷つきながらも希望あるラストが心に残りました)ことから、変化はきっとあるだろうと思うし、変化しなければならないだろうと個人的には思っています。まだ私も模索中です。しかしいつも心に問題意識を抱えております。今回はご指摘のとおり甘えておりましたが、結論や提言ができているわけではありません。仰るとおり、どう歩めばよいのか、またそれに対して私たちが、私が、どう生きればよいのか、そこを考えなければ道は拓けません。よろしかったらそれに協力して戴けませんか。ご意見や見聞もあればそう願いたいし、祈るということもありがたく思います。いずれにしても、お読みくださり、ご意見を投げかけてくださったこと、深く感謝致します。



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