【メッセージ】どう見るか、聖書

2020年5月17日

(使徒3:1-10)

ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。(使徒3:4)
 
今日は、「見る」という言葉に注目したいと思います。いま申しました「注目」というのも、「目」という漢字が入る言葉です。「目を注ぐ」といいますから、ほかのものに目移りしないで、そこをよく見る、そしてよく考えるという意味を含んでいるように感じます。「見」や「目」あるいは「視」のつく熟語を考えると、「拝見」「注目」「凝視」のように幾つか浮かんでくることでしょう。これらはえべて音読みであり、いわば漢語です。本来のやまとことばではありません。英語でも、中学では「見る」に当たる語として3つ、look at, see, watch を学び、その使い分けを理解するようになっていますが、もちろん英語でも様々な「見る」があるのであって、gaze(見つめる), glimpse(一瞬見る), glance(ちら見する), peep(覗く), stare(じろじろ見る), view(注意深く見る) 等々、たくさんの動詞があると言います。
 
そこへいくと、やまとことばとしては「みる」が基本で、バリエーションがあまりありません。それを漢字で「見る」「視る」「観る」「診る」「看る」などと書くことにより、ニュアンスの違いを表すことはするのですが、耳で聞くときには、不思議と私たちは意味を理解仕分けているように思います。
 
聖書の箇所は、イエスが復活し、天に還り、その後約束の聖霊が降りて、びくびく閉じこもっていた弟子たちが変えられて、仲間を増やし、大胆に信仰を証しするようにいよいよ外へ出て行くという場面になっています。ここに登場するのは、ペトロとヨハネ。たぶん教会でも中心人物と呼んでよかっただろうと思いますが、「午後三時の祈りの時に神殿に上って行った」(3:1)とあるように、ユダヤ教のやり方に従う生活をしていたことが分かります。なにも彼らは最初に、「俺たちはユダヤ教ではなくてキリスト教だ」のように考えていた訳ではないでしょう。ユダヤ教の一部、さらに言えば真のユダヤ教の姿なのだとしか思っていなかったことでしょう。ですからこの行為自体は不思議なことではないのですが、しかし逮捕や迫害を恐れて閉じこもっていた弟子たちの姿が一変したようには見受けられます。
 
そこに、「生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た」(3:2)のでした。施しを受けて生活していたのですが、親切な人だか業者だかが、神殿の境内の入口の「美しい門」のところへ連れてきてもらうわけです。障害を負った人やしばしば、このようにいわば物乞いで生活をしていたわけですが、必ずしもそれは極貧の惨めな姿であるばかりでなく、まるで一つの職業のようでもあったと考えられています。というのは、健常者はこうした人に施しを与えることで、徳を積むことになるため、むしろ進んで施すのが通例であったからです。施された方は、「あなたに神の祝福があるように」と言葉を返し、こうして施した方も少し良い気持ちになります。また、施しをした私は立派なことをしたのだよ、と周りの人々にも示すことでひとつのステイタスになっていったのかもしれません。
 
見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。(マタイ6:1-2)
 
イエスは偽善者だと言い切っていますが、逆に言うと、これが普通であったということです。こうしてそれなりの額がそこに集まりますので、もしかするとその「職場」にその人を運んでくる者も商売として成り立つかもしれず、「所場代」を取っていたのかもしれません。話は逸れますが、だからイエスが盲人や障害を負った人に「見えるようになりたいか」「よくなりたいか」と問うとき、私は少し戸惑いを覚えます。彼らは見えたら、そして立てるようになったら、もうその仕事ができなくなるのです。一市民に還るというのは差別されない安心もある代わりに、社会生活を一から造り直さなければならない厳しさもあったのではないかと思うのです。――戻りましょう。
 
3:3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
 
この男にとって、ペトロとヨハネは特別な存在ではありません。施しをくれるかもしれない、いわば客の候補の一人です。誰に対するのとも同じように、施しを求めたのです。ここに「見て」と訳された語があります。私はギリシア語のニュアンスまで知り尽くしているのではありませんから、辞書その他の力を借りますが、これは「horao」、一般的な「見える」ことで、新約聖書に何百も使われている語です。認める・知るなどの雰囲気をもつこともあり、現れる様子を伝えることもあるそうです。男の目に、ペトロとヨハネが映ったわけです。
 
3:4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
 
今度はペトロとヨハネが、男を「じっと見」ます。これは「atenizo」が使われています。「凝視する」様子を表し、新約聖書では十数回しか出てきません。続いてその男にペトロが呼びかけた言葉に、自分たちを「見なさい」とありました。これは「blepo」で、130回ほど登場します。視覚的に見ることに始まり、理解したり考えたり、広い範囲で用いられ得る語であるようです。とはいえ、視覚的なイメージがつきまとうのではないかと感じます。
 
3:5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
 
そこで男がペトロとヨハネを「見つめて」いたと言いますが、これは「epecho」で珍しい語だと言え、新約聖書では5回しか使われていません。「注意を向ける」感じを強くもっています。こういうケースだと、何か言いがかりをつけられるのかと困惑していたのかもしれないかと思うのですが、どうやらこの男は、この人たちが自分に施しをくれるのかな、と期待していたように、聖書は記しています。
 
ここで、一旦「見る」言葉は途切れます。この後は、ペトロが「銀や金」――ギリシア語では銀が先に出されるのですが、確かに日本語では金銀の順ですね――はないが、イエス・キリストの名はここにあるから、さあ立ち上がり、歩け、と宣言することで、男は「躍り上がって立ち、歩きだした」(3:8)といいます。ペトロもまた、イエスのように奇蹟を起こすことができたのです。男は「歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」(3:8)とあり、この男にとっては、立てるようになったことが喜ばしい出来事であったことが伝わってきます。この神の力をうんと強調して、信仰の力をお話しするのもひとつの味ですが、今日はそこには「注目」しないことにさせて戴きます。
 
3:9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
 
こんどは主語は、周りの人々です。足が不自由で毎日毎日ここへ来ていた男が、走り回って喜んでいる。これはただ事ではありません。民衆はこの出来事を目撃します。この「見た」は、先に最も一般的だといった「horao」です。この「horao」はたとえば有名な個所としては「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)にもありました。視覚を強調しているわけではなく、心や魂で深く神を知るときにも使えるわけです。さて、「見えた」という程度なのか「深く知った」という意味なのか、それは読み手である私たちに任されているとしておきましょう。書き手の意図も何かあったかもしれないし、神も何かに気づかせようとしているのかもしれませんが、書かれたものは、受け取る一人ひとりの側で、自分の問題として捉えていく必要があります。
 
聖書の描写としては、民衆がこの男の素性を思い起こしてたいそう驚いたという記事で終わっています。そこで、もう一度今日「注目」した「見る」とした言葉に集中しましょう。こうして振り返ると、日本語で「見る」が5度現れたのですが、そこにはなんと4種類の語が使い分けられていました。確かに、それなりに「じっと見る」とか「見つめる」とか工夫はされていましたが、それでも「わたしたちを見なさい」(3:4)がまた違うことを発見すると、聖書の読み方がまた少し面白くなるのではないかと思います。
 
さて、先ほど、もしかするとこのまま施しを受けるままのほうが、職業として安定するであろうから、足が治ればそれでうれしい、という心理ではなかったのではないか、と私は勘ぐりました。しかしこの男は、治ったことで喜び躍りました。立てるようになったことで、もう施しは得られないでしょう。今度は自分で職を見つけて、技術を身につけて、一から人生を始めなければならないような羽目に追い込まれます。そんな不安も、私なら心に浮かびます。単純には喜べないな、と計算してしまいそうです。だのに、男は喜びました。
 
施しの生活は、それなりに生きる糧を与えてくれます。だからこそ、今日まで生きて来られたのです。しかしそれは、まともな人間だと扱われないことを意味しました。この男は障害がある。罪があるからだ。神はそのように罰した、つまり神の選び、神の祝福に漏れた哀れな存在なのだと軽蔑されていたのです。しかし、歩けるようになったことで、もうそのような扱いを受けずに済むようになった、それを思ったのではないか、と私は想像しました。神の前に、また人の前に、堂々と生きていける。神に見捨てられたような人間ではない、との自信が生まれたかもしれません。いずれにしてもこの男は、生き方においても「足やくるぶしがしっかり」(3:7)のです。
 
もちろんこのように理解することは、障害が残る人が依然として神に見捨てられているのだ、などといったことを意味するものではありません。ただこの男の身の上に、そのような喜ばしい出来事が舞い込んだのではないか、ということが言いたいだけです。それどころか、私たちもまた、いえ私もまた、生まれながら挫けた心をもっています。自分には生まれつき、どうしようもないものがある。直せない性癖があったり、否定できない黒い過去があったりします。誰かそれを直してよ、助けてよ、と心の奥では叫んでいるのに、とりあえず生きる環境を保つためにへつらいの言葉を並べたり、好まない仕事を日々続けたりしています。この物語の男と、本質的に差がないことに気が着きます。
 
聖書があるよ。教会においでよ。「え、そうしたら何かいいことありますか」と、施しを乞うような眼差しでぼんやり見ていたことがありました。しかしイエスは、私を凝視していました。そして、私のこの手の傷を、十字架の私をよくまずその目で見なさい。そしてそれがどんな意味をもつものか考えなさい、深く知るようにしなさい、と迫ります。私は、男が2人を見つめたように、心の注意を向けました。すると、イエス・キリストの名が宣言され、与えられたのです。立ち上がらせたというのは、時に復活のことを指す場合もある語でした。死んでいた私が、蘇らされたのです。――私は、神を賛美するものに変えられました。周りの人々は、それを確かに見ていました。驚いていたのでした。
 
このようにして、聖書において出来事を記録したもの、物語のように描かれたものから、ほんの一つの日本語「見る」に注目しただけで、生き生きとその世界の中に自分の身を置くことができました。どうぞあなたも聖書を、いろいろな仕方で見てください。ぼんやりもよし、凝視するもよし、何か知ろうとして見るのもよいし、じっくり理解することを求めて見るとさらによいでしょう。聖書は今日も私たちに、「この聖書を、あなたはどう見るのですか」と問いかけてきます。「どう見るか、聖書」は、私たちの生き方を変える力をもつ問いかけになることができるのです。



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