神の言葉を取り次ぐ説教者であるために

2020年5月16日

礼拝説教の原稿を公開している教会があります。牧師が個人的にしている場合もあるでしょう。中には、それをしないタイプの人もいますが、宣教の手段として公開すればよいのにと思う反面、気恥ずかしいような感情や、自分の説教を誇るようなことはしたくない思いなど、それぞれの人で思うところがあるのかもしれない、とも思います。どちらが良いとか悪いとか言うつもりはありません。しかし、ここから相当に厳しいことを申し上げます。反論もありましょうし、感情的になる方も出てくるのではないかと思います。そもそも何を偉そうに、と非難もあるでしょうが、いま或る法案についての是非よりも、そんなことを発言するなという声が言論を圧迫していることに関心がおありの方は、どうぞ事柄そのもののほうに目をお向けください。私が如何に高慢であったとしても、言った内容そのものに意味がなくなるわけではないと思うのです。
 
もちろん多くの方は、こんな乱暴な理屈を超えて、すばらしい働きをなさっています。各方面からなされるメッセージに私も慰めを受けており、感謝しています。しかし例外というものはあるもので一部、残念にも指摘に当てはまる方もあろうかと思います。その方にこそ届けたいのに、その方こそお読みになってくださらず、また読んでも自分のこととは気づかない、という結果が待っていることも、ほぼ分かっています。それでも、黙っていることはできない、大切なことであるのだ、とも考えます。礼拝説教について誠意を以て臨む、心ある方は、内容についてはご理解戴けるものと信じています。
 
福音を伝えようという思いからか、せっかく公開してある説教原稿ですが、中には残念なものが見受けられます。かつて私も一時そうしたものを聞かされて苦労しました。そうしたものが語られている場を、礼拝ではなく、聖書講演会だと称したことがありました。でも考えてみれば、あれは聖書講演会にもなっていませんでした。むしろ、聖書講演会をなさる方に失礼な言い方だと反省もしました。
 
聖書について一定の知識があれば、聖書講演会はできます。近頃は、信仰をもたない人が聖書についての解説書を書いて、ベストセラーになることもままあり、むしろキリスト教書店でしか並ばないような意義ある信仰書よりは、よほど世間の人に読まれている、といったことも起こっています。確かによく勉強されているのですが、信仰からしか見えないものもありますので、一方的に聖書はこうだ、と言い切ってしまうとき、どうしても外から見ているものでしかないように見えます。もちろん、そのような視点はキリスト教世界には必要です。が、その解説が聖書のすべてでは到底ありません。そういうことを踏まえた上でですが、こうした方が、呼ばれて壇上で語れば聖書講演会になることもできます。そして、直接その聖書講演会なるものを聞いたことは私は文面のほかにはたぶんないのですが、地域でゲストを呼んでの諸種の講演会は何度か拝聴しました。いや、実に面白いのです。その講演者ならではの経験と立場から、聴衆を引きこむ、楽しい話を長い時間聞かせて愉しませてくれるのです。
 
語り慣れている、というのもあるかもしれません。しかし、それだけではないと思います。それは、講演者が「どこに立って、どんなものを見ているか」がはっきりと伝わってくるからです。講演者は、一般的に、事典に書いてあるものの棒読みをするようなことはありません。その人でなければ体験できなかったことを、その場での講演者と聴衆との関係の中で告げてくるので、ある意味でプライベートな関係がそこに形成されることになる、と言えるかもしれません。ともかく、そこに講演者がいて、その人となりを感じながら、どこからその話が生まれてくるのかもよく把握しながら、話の内容を解釈もできる、そんな関係の場がそこにできる中で、愉しめるということになります。
 
大学のとき、ある教授の授業は、ひたすらノートを書くというものでした。著名なベテランの方なので、書きためた講義ノートがあります。それをひたすらゆっくりと読み進むというのが、一年間続いたのでした。学生としては90分間とにかく書きまくります。ごく稀に、ちょっと立ち止まって一言二言説明のようなものを補うことが、全くなかった訳ではありませんが、本当にその時間は僅かでした。その時にはとにかく単位が必要でしたから、一年間ノートを何冊か書きまくっていましたが、今にして思えば、その原稿を本にしてくれたら少しお金を出しても買いますから、講義中は別の話をしてください、と言いたい気がします。それだけの内容でしたら、本を読ませてもらえばそれで十分だったと言えるからです。どうしてひたすら口述筆記の修行を一年間しなければならなかったのか、今もって不思議な気持ちがします。
 
礼拝で語る説教は、この筆記の苦労は必要ありません。単位を取る目的もありませんから、もしその語る内容が、本を読めばよいというだけのものであれば、じっと長時間そこに座って聞く必要はない、ということになりかねません。もちろん、神を礼拝するというためにそこにいるわけで、説教を知識として会得するといった結果が目的ではありませんから、聞くことそのものに意味はありますし、さらに別にまた、説教というものは神の言葉であるとか、いのちの言葉が出来事になるのだからとか、説教についての理解がないからそんなことを言うのだろう、という批判もこの表現についてはあろうかと思いますが、さしあたり目を瞑ってくだされば幸いです。
 
要するに、ただ聖書事典からの引用であるとか、私が小学生あたりのころによく「自由研究」でやっていたように、何らかの資料の中から役に立ちそうな内容をほどよくまとめて模造紙に書く、というとかのレベルの「説教」が、実際にある、ということです。多少文章を書くことに長けた人であれば、そのようなまとめはほどよくできるのです。礼拝の教案誌が幾種類か出ていますが、その内容(それは筆者の個性を打ち出す場ではなく、できるだけ客観的な知識を中心に掲げることが多いと思われる)をそのまま用いるということは流石に見たことがありませんが、それ以下であるようなものはままあるように見えます。いろいろ調べたことを知識として紹介するかのように書き並べて読み上げる、そんな「説教」を見ると、残念でたまらないのです。
 
確かに、それが一定の「説明」になることは認めます。聖書の解説をただ施すという目的であれば、それはそれで役に立ちます。事典や辞書、またコメンタリーや説教集はよく出回っており、また現在はインターネット検索でずいぶん見つかりますから、ああこれはいい説明だと思えばいくらでも拾い集めることは可能です。聖書に書いてあることを会衆が知ること、理解することはもちろん大切です。これはこういう意味ですよ、このときこういうことが起こっていました、こんなふうに理解する人がいます、そうした「説明」そのものが無駄である訳ではありません。むしろ必要です。しかし説教として、メッセージとして成り立つものは、それだけで終わるものとは質的に異なります。甚だしい場合には、「ここにはこう書いてあります。するとなんと、こんなふうにイエスは言ったのです」だけで全部が終わっていたりするので、だから何を伝えようとしているのか、そこで説教者に何が起こったというのか、魂にどう響いたのか、そして会衆に何が起きてほしいのか、神はこの場でこの言葉で何をもたらそうとしているのか、そんなことが何も見えてきません。AIなら作文できそうな内容だとも言えます。AI、この視点は今後益々適切な検討事項になろうかと思います。説教がAI作文かそれ以下になってはならない点が意識されていくようになるのではないか、と。もちろん、神は生きているのでどんな情況でも働くことがあります。なんじゃこれは、と思えるような「説教」の中でも、聞く者が霊的に何かを受け止めて、ふと引かれた聖書の言葉の中でイエスに出会うことがありえない、などとは思いません。聖書の言葉そのものには命があり、ひとを生かす力があります。けれども、だからAI作文で構わない、と問われると、私は賛成の手を挙げることはできません。
 
そこには、聖書講演会と称するほどの、講演者の個性もないし、語る者と聴衆との関係ができることもありません。講義ノートを棒読みしていた教授のように、ただ一方的に、当たり障りのない知識をうまくまとめて聞かせるというだけの時間が過ぎていくのだとすれば、こんなもったいないことはありません。私はそのような原稿を、教会学校で話す内容をまとめたものだ、と考えたことがありましたが、それも教会学校の子どもたちには失礼なことだったと反省しています。教会学校のほうが、一人ひとりの子どもを見て、その場に相応しい語り方をするし、教師自身の体験も盛り込みながら、真剣な眼差しの子どもたちに向けて魂から語る、そういうひとときとなっているはずです。子どもは、本能的に、というと変ですが、大人の内心をちゃんと見抜いています。大人同士ならば互いに社交辞令と理解してにこやかにその場を和やかに済ませもしますが、子どもはつまらないものには興味を示しません。しかし自分のためになることを話す人、自分の味方になってくれる人には心開きます。命通い合う言葉や会話を、言葉によらずに知っています。かの講演者にもなれない語り手は、事典の内容をほどよくまとめた原稿を棒読みして、礼拝説教をこなした気分になっているだけですから、そこに命がありません。いえ、根本的な問題は、語り手が「どこに立って、どんなものを見ているか」が、その「まとめ」の中には全く存在しない、ということです。ただ資料から気に入ったものをつないでまとめただけですから、その人が「どこに立って、どんなものを見ているか」という問い自体が、存在しないのです。
 
今はインターネットで簡単に資料が見つかります。えてしてこのような仕方でつないでこしらえた原稿は、誤りを含むことがあります。ネットの情報が正しいとは限らないからです。また、諸説ある中で特殊なひとつに過ぎないのに、それが正しい知識ですよ、という口調で言ってしまいがちになります。いくら検索が簡単だからと言って、何万と上がってくる資料のすべてを見ることはできないために、よほど諸説を公平に紹介したものに触れることがなければ、特定の意見や誤った説が、さも普遍的な真理であるかのように見えてしまうと、「もらった」とばかりに自分の原稿に入れて、「こんなことまで知っているんだぞ」と示したくなる誘惑に襲われるであろうことは、苟も語る経験をしたことがあるならば、感じたことがあるはずです。しかしその罠に陥らないように気をつけていればよいのに、「もらった」と思ったまとめた末、にやにやしながらその偏った説を、常識であるかのように話してしまうというようなことも起こるわけです。自分の信仰的体験を踏まえてよく考えてみれば、他の可能性に気づくはずなのに、そのような過程を経ていないものですから、簡単に聞こえよく興味深い説明に、飛びついてしまうのです。
 
聖書の言葉を取り次ぐということは、語る者が聖書の言葉を通じて神と交わった実際を示すということです。自分が神から受けたものを、同胞とシェアするのです。一般的に書かれた事典の説明や見つけた資料をつないで説明をこなすことではないのです。どちらに「命」があるかは、言うまでもないでしょう。説教は、いのちの言葉が働く「場」になります。また、その言葉を受けて聞く者が変えられて、あるいは霊が呼び起こされ、新たな現実を創造する出来事に参与するスタートとなる経験です。その願いをこめない説教は考えられないとさえ思います。それがあるからこそ、説教が「神を礼拝すること」になると言えるのです。
 
ああ土曜日だ、締切に追われてとにかくまとめるぞ。人間ですから、牧師にもこうした経験が全くないとは言えないでしょう。構いませんとも。すべての場合に超一流のものを求めるのは気の毒です。野球でも一流の打者が4割ヒットを打つことはまずできないのであって、三度のうち二度失敗するとスター選手になれます。挫折感や後悔をたんまり味わった上で、牧師の説教も成長し、進展していくことがあるでしょう。そしてまた、実際に苦悩のうちで神の言葉を語ることができない、という時もきっとおありだろうと思います。そんな時にも語らなければならないという辛さを乗り越えておられる方々を本当に尊敬します。
 
けれども、開き直って、どうでもいいやというのが普通になってしまったら怖いなと思います。いえ、分からないという人には分からない。そもそも説教とはどういうものか、知らないという人も中にはいるのです。イエス・キリストとの出会いがなく、知識だけで説教をするものだということしか知らない人も、現に何人か見てきました。でも、聞く方も、そういう人の語る説教しか聞いたことがないと、その狂いに気づきません。かにかましか食べたことがない人は、かにの味もこれと同じだろうとしか思えないのと同じです。私はそれがまた怖いと思います。そして現実に、そういう偽物を説教と思い込み、そこから得たものが信仰だと勘違いをしている例、多々あるように感じています。そしてえてして、かにかまだけの人が、本物のかにを知って、こんなのはかにじゃない、と得意そうに批判さえするのです。
 
そこで誰も、優れた説教に触れる必要があります。いまは良い説教の原稿を読むこともできるし、音源も手に入れることが可能です。インターネットで見聞することもあるでしょう。単なる文字ではない、声の力というものもありますから、文字だけではよくない、と説く人もいます。それでも、文字からでも一定のものは与えられます。なにしろ私たちクリスチャンは、聖書という文字から神の声を聞くという能力を与えられた者たちです。書かれた文字、見た文字から、神の声を聞いたことがおありでしょう。そうでなければ、信じるということは自分の頑張りに過ぎないかもしれないし、自分の思い込みに過ぎない可能性だってあります。ともかく、いろいろな説教を見たり聞いたりしていくことです。講演会でもなく、学習発表会でもない、いのちの言葉が出来事となるために語られる礼拝の場、神を称え神と出会う場が備えられることでしょう。聖書が本当に救いとなることを改めて実感することでしょう。「これを知ってほしい」「ここに気づいてほしい」と説教者は語ります。救われてほしい、力を受けてほしい、との祈りをこめています。聞く耳をもつ者には、それが分かります。伝わってきます。「主は言われる」と預言者がまず口を開いた、あのような精神が、現代にも再現するはずです。
 
説教者は、あるところに立って、あるものを見ています。それは、諸説ある中でのひとつの説であるに過ぎないかもしれません。けれども、それでよいのです。説教者は一人なのですから、その一人のキリスト者が神とどう出会ったのかを知ることは、聞く者を生かす力をもちます。聖書の学問的研究の場ではないのですから、それでよいのです。いけないのは、諸説の中のひとつを、さも普遍的な真理であるかのように説明してしまうことです。「どこに立って、どんなものを見ているか」を、自らを飾ったりしないで正直そのままに語る説教者は、そんなことはしません。できません。ただ一つの事実を語ることによって、そこから普遍への入口とします。いかにも普遍的そうに見える知識を提示して、説教だと思わせるようなことに我慢ができません。自分の中で起こった一つの事実、それはとても辞書や事典には載せられないだろうが、しかし神との関係の中で確かに起こった真実なのだと告げ、聞く者にもそのような出会いができるのだということを確信を以て語る。そんな説教者が、世の中にはたくさんいます。私はそういう説教者のいる教会を抜け出ることは決してないのです。



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