看護の日と待てない人々

2020年5月12日

まず、ノアの箱舟に乗り損ねた人々はどんな人だったか。
 
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(創世記6:5-6)
 
神もどこかわがままのように見えなくもありません。またこの前に、神の子らと地上の人の娘たちとの関係、またネフィリムという謎の存在など、突っ込み所も満載の箇所がありますが、それらを興味本位に探る暇があったら、今はもう少し深刻な人間自身のことを考えてみましょう。「人の悪」がはびこり、「常に悪いことばかりを心に思い計っている」ありさまは、まさに私自身を見るような思いがします。
 
次に、モーセの帰りを待てなくて金の子牛をつくり乱痴気騒ぎをしていたのはどんな人だったか(アロンの立場がいまひとつよく分からないけれども)。
 
彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」(出エジプト記32:6-8)
 
十戒を手に山を下ったモーセは、民のこの有様を目の当たりにすると、キレてせっかくの十戒の板を破壊します。その後これらの民三千人は粛正されるのですが、その残酷さ云々も今は問いません。
 
民はモーセが四十日経っても姿を現さないでいるのを、最後まで待つことができませんでした。このとき、待てないという心理が如実に表れているかと思います。ノアの場合は、待つという感覚ではないかと思いますが、ノアとその一家が黙々と、神に命じられたとおりに箱舟を造り上げていくことに、誰一人加担することがなかったことに気づきたいと思います。何かひとり熱心にやっているが、バカじゃないか、と冷ややかに見ていたのではないでしょうか。しかしこうした人々の様子を、神は次のような目で見ていたようです。
 
6:11 この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。
6:12 神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。
 
5月12日は、フローレンス・ナイチンゲールの誕生日である故に「看護の日」として記念されています。特に2020年は生誕200年という記念の年なのですが、記念式典のようなものは新型コロナウイルスの感染状況から行われなくなりました。残念です。ナイチンゲールは確かにクリミア戦争の現場に足を運びましたが、せいぜい一年半くらいの期間しか看護活動ができませんでした。但し、そこで画期的な働きを為します。野戦病院に清潔という基準で環境を改善することを提言し、戦争後も、イギリス女王にこのことを訴え続けます。また、それまで賤しい職業のひとつであった看護婦という仕事を劇的に改めていく道のりがここから始まったことも有名です。つまりナイチンゲールは、看護と医療に関する合理的で適切な方法を生涯をかけて追究し、実現を図った人物でありました。
 
ナイチンゲールの主張が広く収められた、主著ともいえる『看護覚え書』には、いまなお通用する多くの提言があるように見受けられます。最初に読んだときに感じたのは、その徹底した「換気」観念でした。とにかく換気・換気・換気、それが強調された本だと言えます。それほどに当時の病院環境は清潔から遠いものだったのですが、まさに今新型コロナウイルス対策でも、この換気は一つの重大な鍵として認められています。空気の流れができれば、室内に富裕したウイルスがどんどん流れ去ってしまう様子が検証されているテレビ番組がありました。残念ながらこの本には、「手洗い」についての言及は特にありませんでした。但し、病人の皮膚の清拭については具体的に書かれており、「看護師は自分の手を洗うこと。しかも一日に何回も洗うこと。同時に洗顔も行なえば、さらに良い。」(11/8)と言及した後、石鹸と温湯で洗うことの必要性と、アルコールの効果にも触れられています。そして大切な命題として、「換気も皮膚の清潔も、その目的はほとんど同一である。――すなわち、身体から有害物質をできるだけすみやかに取り除くことなのである。」(11/4)と書かれています。看護学校(学科)ではこのような教育が基礎として徹底していますので、医療従事者のいるわが家では毎冬はもちろん、基本的に一年中このような衛生観念で生活が営まれており、うがい・手洗いを欠かさず営む私は、お陰で殆ど風邪などにもかからず、ありがたい限りです。
 
#StayHome という合い言葉、英語を使うなよ、などという声もありますが、ハッシュタグを使うSNSの世界では世界中の声とつながることができて、悪いことではないだろうと思います。おかしなもので「外出しないように」という日本語が、家の外に出ることを意味するのではないことを、皆さん了解しているようです。言葉通りであれば、家の外に出てはいけないように思えるのですが、散歩は構わない、などというと、原則に従おうとするタイプの人は戸惑います。だって「外出」という言葉を使うのですから。メルマガの「購読」という言葉にも私は馴染めません。「購読」と言いながら大抵それは無料なのです。変ですが、文字通りの原則には従わないという、日本に風土のいい加減さ(それはそれでよい面もあるのですが、そもそも「原則」という言葉は、「例外」を許さないものであるはずなのに、日本語で「原則として」と使う場合は必ず「例外」が存在することを前提しているものですから、私はいつも頭を悩ませてしまいます)がそこにあるのかもしれません。
 
しかし「外出」は外に出てもいいんだよ、という軽い思いが、ずいぶんといい加減な態度を許すことにもなっていました。密になるところも、少しくらいいいじゃん、とか、それで商売している人を助けるんだよ、とか、むしろ正義であるかのように開き直ったり、あまつさえ、それをうれしそうにSNSで発表したりする人が、けっこういました。自分は常に例外だと誇っているのか、それともそれを見た人がどんな気持ちになるかの想像力を決定的に欠いているのか、よく分かりません。軽率な行為で感染した場合には、医療従事者を追い込み感染拡大を助長することになるというリスクも、懸念する気配が全くないというその行為について、あまりに過激に糾弾するというのもどうかしてはいますが、ひとつには、「待てない」心理があるような気がしてなりません。
 
少なくとも聖書では、そのような人は、神の思いとは反対側にいるタイプとして描かれています。聖書は「待つ」信仰です。手をこまぬくという意味で「待つ」のとは違うかと思いますが、「すでに」と「いまだ」との狭間を旅する私たち信ずる者たちは、いつと知れることのない約束を「待つ」ことで、今日も生かされているということを、忘れないようにしたいと願います。
 
『看護覚え書』の「おわりに」において、看護師(を目指す人)へ向けてのメッセージをまとめて記していますが、その最後は、次のように締め括られています。ナイチンゲールは、修道会のよう、宗教的な愛の考えによって看護技術を広めようとは考えませんでした。もっと科学的・合理的に、たとえどんな宗教を信じていようとも、人の命を守るために必要なことができるような方法を提言していたのです。それでも、最後にはこう言うのです。



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