母の日とは何か

2020年5月10日

毎年のように紹介される、アンナ・ジャーヴィスを巡る母の日の物語。教会で活躍していた亡き母を偲ぶアンナのもつ花が、人々の感動を呼んだとのこと。
 
けれども、アメリカの商業界がこれをただ眺めているはずがありません。花が売れる。一度にたくさんの花が、ビジネスチャンスを生む。いえ、花だけではありません。イベントの機会もできるし、花に限らず様々な贈り物の需要が伸びます。ビッグビジネスです。
 
この動きに、誰よりも抵抗したのが、当のアンナ・ジャーヴィスでした。そして華々しく盛大に祝われる経済アイテムとなった母の日の陰で、本来の意義に徹しようとしたアンナは、経済的に困窮し、病のうちに亡くなったといいます。生涯独身であったと伝えられています。
 
だから人間は神でなく金に仕えているのだ、けしからん、と私たちは言えるでしょうか。私たちのクリスマスはどうなっているでしょう。イースターも最近は大きな商業アイテムとなっています。キリスト教書店なども、こうした機会が経営を支えています。いえ、一切の商業がいけない、などと言っているのではないのです。私たちの「これくらいいいじゃないか」という感覚は、しょせん自分で自分を許しているだけに過ぎません。私たちの母の日の様子を見たときに、アンナだったらどう思うか、少しだけでも考えてみたいと思うのです。これはしてもよい、これはいけない、などと色分けをしようと提案しているのではありません。私たちはいつの間にか、しょせん商業的に、中身のないお祭りをするのが好きなただの人間となって、これが教会だ、と思いなしているのではないか、と省みる必要があると思うのです。
 
この精神は、教会に何をしに来ているか、ということになります。毎週あの人に会ってお喋りをするため。自分はこんなことができるんだぞ、と奉仕という名の自己顕示を愉しむため。儀式に出れば善人であるスタイタスをもてる自負心のため。説教さえ我慢して座っていれば居心地がよい場所で安心するため。――思い当たるふしはありませんか。妙な例を並べたとお思いでしょうが、これらには共通項があります。これらの目的には、どこにも神がいないのです。イエス・キリストを見ていないのです。
 
わたしは希望し祈ります、だれかが、いつか、あらゆる生活分野で人類に比類の無いサーヴィスを与える母を記念する記念の母の日をつくる。アンナ・ジャーヴィスに与えられた霊感は、このようなものであったそうです。自分のためでなく、ひとのためにあらゆる活動を献げている、それが母親ではないのか。その母親のことを覚えることを提案する、というのです。
 
それはまた、イエス・キリストもそうだったと言わざるをえません。母の日の精神は、イエス・キリストを称えることと重なるものだと捉える必要があると思われます。だから、自分を産みなによりも自分を守り育てた母親に感謝するこの母の日のスピリットを大切にしたいし、そして教会とは何かを根底的に捉え直したい、という思いを伝えたかったというわけです。



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