【メッセージ】天を見つめて

2020年5月3日

(使徒1:3-11)

ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。(使徒1:11)
 
星座に詳しいということはなくても、星空を見上げるというのは気持ちのよいものです。住んでいるところが都会ではないからでしょうか。月の写真も時折撮ります。窓が東を向いているので、満月は撮影しやすいのです。――さて、いまの文、意味が分かりますか。満月が東側に見える時刻、ご存じでしょうか。そう、日暮れ時から真夜中までは、東半分の空にかかっています。いまの子どもたちに月について教えるときにも、月を見るという体験が殆どないので厄介です。
 
復活した主イエスを、弟子たち――ルカは使徒と呼びますが――は天に見送った、という場面を、今日ご一緒に聞きました。
 
1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
 
幻想的な画が頭に浮かんできます。弟子たちは、イエスがするすると天に上がっていくのを見上げて、恐らく呆然としていたのではないかと思います。たぶん、口が開いていたのではないでしょうか。続いてこのようにルカは記しています。
 
1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
 
そう、確かに天を見つめていたのです。そこへ現れた定番の、白い服の人、これは天使と呼ぶしかなく、神の使いであるのですが、受胎告知や復活の知らせなど、不思議な出来事の要所要所で登場して、物語の展開を導いてくれます。まるで物語の語り手であるかのようですが、登場人物に、事態の自覚を促す役割を果たしています。ここでも、「なぜ天を見上げて立っているのか」と問いかけ、ぼうっと見上げているんじゃねぇよと戒めて、またイエスは来るのだから、と付け加えました。
 
弟子たちに「ガリラヤの人たち」と呼びかけています。確かにガリラヤの出の人たちばかりなのですが、中にはよく分からない人もいないわけではありません。しかしルカは、この時の弟子が、ガリラヤに本拠地をもつ者たちであることに、ひとつの意味をもたせていたように思われます。それは、イエスが最後にこんなことを言ったからです。それは、弟子たちがメシアがついにイスラエルのために王国を復活させてくれると期待していたが故に、それはイエスが死者の中から復活した、今こそであるのか、と尋ねたときです。
 
1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
 
弟子たちは、いまガリラヤの者なのです。それが、この後聖霊が降ることによって、このエルサレム、ユダヤ地方全般、またいまや外国となってしまったサマリアのすべてに、さらについに地の果てにまで広がっていくという進路を、明確に告げているわけです。ガリラヤにいた者が、世界へ突き進んでいく、このダイナミックな幻を、ルカは使徒言行録という舞台のスタートに置きました。ここからの物語は、この地図に従って展開していくことになります。
 
聖霊という言葉が出てきました。ルカにとって聖霊という言葉は、重要な役割をもつ言葉の一つだと言われます。受胎告知の場面は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(ルカ1:35)と書かれていました。バプテスマのヨハネの両親はそれぞれ「聖霊に満たされ」(ルカ1:41,67)てその誕生を喜びました。イエスの誕生を祝ったシメオンもそうでした。
 
聖霊について深い話をもちかけるつもりは、いまはありません。キリスト教世界では、伝統的に、聖霊を「神」と同一視すべきだとされてきました。もちろん呼び名を変えるのですから何もかも同じとは言えないでしょうが、神そのもののある種のかたちを指していると考えられます。ちょっと不適切な喩えではありますが、こんなことを今風に言うことがあります。ゲームで信じられないような現象が起こったとき、「神降臨キター♪」なんて。あれに少し近いものがあるんじゃないか、というのは不謹慎でしょうか。
 
さて、今日の聖書箇所の最初のところで、こんなふうに言われていました。
 
1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
 
復活のイエスは、四十日といいますから十分なる日数だという評価でしょうが、神の国について弟子たちに改めて教えたのだと言います。十字架と復活を知るまでにも、すでに言い伝えていたことであるはずなのですが、このそれらを知ってイエスの言葉を聴くと、弟子たちもいろいろと気づいていったのではないでしょうか。しかし親しい食事の最中だというのですが、イエスは弟子たちに、聖霊が降るまで、エルサレムに留まるようにと命じます。エルサレムで、聖霊の降るのを待て、と言っているのです。それは「聖霊による洗礼」(1:5)でした。バプテスマのヨハネが水で、新しい人生をやり直すことへと導きましたが、これからは、聖霊によって新しい人生が始まると言うのです。
 
その聖霊を待って、このエルサレムに留まっていよ、と言います。つまりイエスの計画によると、弟子たちは、「ガリラヤ→エルサレム→ユダヤ→サマリア→地の果て」へとこれから出て行き、イエスがどういう方であるのかを伝えるようになるわけです。そしてその瞬間、イエスは天に上げられます。興味深いことですが、この文に「天」という言葉は原文には入っていません。単に「上げられた」としか書かれていないのです。そこで、この場面で「天」という語が確かに入っているのは、次の箇所だけです。
 
1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
 
ここに4つ「天」という訳が見えますが、原文でもここは代名詞ではなくすべて「天」という語を使っています。しつこく繰り返されるこの語は、聴く者の耳に強く響いたことでしょう。この後私たちは、この「天」という語に注目してみることにします。
 
弟子たちは「天を見つめて」いました。すると2人の人、つまり天使でしょうが、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」と呼びかけました。これは何故か、と理由を訊いているのではありません。反語的に、「なぜ天を見上げて立っているのか。そんなことをする必要はない、やめなさい」と言っているようにしか見えません。
 
「天」を見つめていることは、いいことなのじゃないのでしょうか。イエスがその天へ行ったのです。そうやって見たままの姿で、またイエスは地上に来るのですよ、と言うからには、その「天」は良いところのはずです。正に「天国」とも呼べるかもしれませんが、「神の国」であるとか、「父の許」であるとか言うこともできるでしょう。ということは、言うなれば「天国を見つめていた」というのは、信仰のためには大切なことであるように思われるのです。天国を目指して走り抜けることは、パウロの生き方の理想でした。弟子たちはそうした天を見つめていたのに、なぜ見上げているのか、やめとけ、と天使に叱られたということになります。聖書は何を大切にしているのか、分かりにくいと私は思っていました。
 
ところが手間を惜しまず辞書を開いてみると、この「天」という言葉には、別の意味合いが含まれうるということを教えられました。もちろん、マタイは有名なように、「神」の名を呼ぶことをためらい、しばしば「神」と言うべきところを「天」と呼び換えています。「神の国」と言いたいところも「天の国」です。もちろん、ここで調べる「天」の語ですが、ここではそのマタイの「神」という意味を言いたいわけではありません。
 
イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。(マタイ16:2-3)
 
ここで「夕焼け」とあるのは原文では「空が赤い」であり、「朝焼けで雲が低い」とあるのは「(朝に)空が赤くて曇っている」とあり、「空模様」は「空の顔」のような言葉ですがまさにその通りです。ここで三箇所「空」と書かれているのが、「天」とほかで訳されている語なのです。そう言われてみれば、「天が開け」て聖霊が降りてくるとか、「天からのしるし」とか、恐ろしい現象が「天に現れる」とか、同じ「天」でも、普通に「空」と言い換えても殆ど問題がないようなところは沢山あります。もちろん、ただの「空」ではなく神の業の出現としての意味をもたせるには「天」は相応しいかもしれないのですが、先の朝焼け云々はどう考えても「天」とは関係がないはずです。そこで「空」と言い換えてみます。
 
1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは空を見つめていた。
 
弟子たちは、イエスが引き上げられていったとき、神を感じていたのではなく、ただの「空」を見ていたのではなかったのでしょうか。天使であろう2人は、そんな弟子たちに戒めのように発します。これも「空」と言ってみます。
 
1:11 ガリラヤの人たち、なぜ空を見上げて立っているのか。
 
日本語とは違いますから、この「空」に「空虚」の意味をもたせることはできないのですが、それでも、弟子たちはイエスを見ているようで、何もない空虚さを見つめていたのです。この「見ていた」は、かなり凝視していたイメージを伝える語が使われていて、すっかりそこに心を奪われている様子が伝わってきます。弟子たちの心は、決して神に心を集めていたわけではなく、イエスが消えていった何もない空に心を奪われていたのだと思います。だから天使たちは、イエスのことを思うように促します。
 
1:11 あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。
 
これについては、ルカではなく、マルコやマタイですが、小黙示録とも呼ばれる終末の様子について、たとえばマルコのイエスは次のように語っていました。
 
イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」(マルコ14:62)
 
私たちは、イエスがやがて来られるという、その天を見たいと思います。イエスが消えた、ただの「空」に気を取られるのではなくて、やがて起こる「天」の現象を、信じる心の内に見たいと思います。心が沈むときにも、うつむいてばかりでなく、空の星や月を見上げるように、神の約束を信じて見上げていたいものです。そうです、本当の天を見つめましょう。ただ、それは自分を誇り心を膨らませて見上げるのであってはなりません。ルカだけが記しているように、「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈るようにしていたい、とも思います。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18:13)と。



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