君の膵臓をたべたい

2020年5月3日

名作『君の膵臓をたべたい』は早くからアニメにすることが決まっていたといいますが、現実にアニメ映画となったのは2018年秋、それが2020年5月2日にNHK(Eテレ)で放送されました。実写版の映画はその一年前、これもテレビ放映されていたので、ちらりと見ていました。原作にない回想ものにしていたといいますから、アニメ版のほうが、より原作の趣に近いのかしら、という前提での感想です。
 
ストーリーはここでは辿りません。タイトルが巧く(以後「キミスイ」と表現)、引きつけるものがあり、若い人たちに感動を与えた、ということで多くの賞を手にした作品です。アニメだと自由に表現できる部分が多いので、後半はっきり分かったのは、これが「星の王子さま」をリスペクトしているということでした。しかし、そもそも大人向けのメッセージをこめていたのであろうというサン=テグジュペリの意図を、果たして読み込んでいたかというと全くないし、もしかすると戦争を背景にした思惑を含んでいたのではないかという近年の解釈も無関係のようですから、「星の王子さま」の中のいくつかの言葉からイメージしただけの、しかし明らかに「星の王子さま」の世界を描いていますよ、というような表現を表に出していたという気がしました。
 
不治の病を背負った女の子が、あまりにしきりに軽々と「死ぬ・死ぬ」を言葉に連発するのには、どうにもリアリティを感じられず、もちろん表向き言うのと裏腹に怖さがあるのだ、というような説明は加えられますけれども、本当に死と向き合っているようなリアリティが伝わってこないのは、余命が少ないというのに普通に学校生活を送り飛び跳ねていることを含め、(膵臓の不具合が致命的だと分かったというとかなり病状は進行しているのではないかと普通考えられるが)具体的な治療などについての言及がなく入院中も普通に元気に動き回っているなど、その肉体的な苦しみや痛みというものが全く描かれておらず、全般的に死というものが非常に抽象的・観念的にしか扱われていないということも、強く感じました。
 
親に嘘をついて博多へ旅行すること、友だちがそれをごまかしたあたりも、実際の生活の中では大問題となっていくであろうに、その辺りの軋轢や支障も描かれることなく、すべてが許されて思い通りになんとなく事が運んでいくのも、不思議な感覚でしたが、こういうのが全体的な傾向でした。病気の娘の頼みなら親は何でも聞くんだよ、という説明で、果たして何もかもが許されるという説明でよかったのか、疑問です。入院中の病院を夜に抜け出していくというのも、リアリティのない無謀なことで、それがばれることも何もない展開でよかったのか。事件の被害者にマスコミや学校関係者の取り囲みもなく、警察の捜査の様子もゼロで、事件後十日であまりに静寂で達観した親など周りの雰囲気も、リアリティがありません。主人公の男の子が、ひととの関係をもてないタイプであったというのは、物語全般が、社会との関係を全くもてない中で絵本の中の物語のようにしか展開していかないのとパラレルであったようにも思われます。どっぷりと浸かったムードについては矛盾がないように説明を加えるのですが、外部世界がそれをどう見るか、受け取るかという視点は一切捨象されているようにしか感じられませんでした。要するに2人だけの世界、せいぜいそのわずかな友人関係の中だけで世界のすべての事件が進んでいたというわけです。
 
そして一番の気がかりな点は、物語の中で、あらゆることをすべて丁寧に説明してしまうことでした。具体的には挙げませんが、あらゆる心理や出来事の言い訳なども、逐一説明をして示します。私は最近村上春樹の作品をいくつか読んでいますが、結局物語が終わったところで「僕」の名前は何だろう、と明かされていないこともあるし、あの件はそれでどうなったのだ、というのも読後の愉しみとさせてもらえる面白さがあることはよく分かります。時代を遡れば、まさに「藪の中」に「明暗」(これは未完ですが)が隠されていることがしばしばあり、行間の読み方で解釈が様々にあり得るというのは、文学の常道であろうかと考えておりました。それがこのキミスイでは、読者(映画でもまぁそう呼んでおきます)の目の前に、すべてのすべてが丁寧に説明されていて、全員が同じ解釈をするほかないようになっています。名前についても、物語は最後まで、互いの名前を出さない(女の子のファーストネームは友だちからも呼ばれるために明かされているが)ままに終わってもよかったのではないかと思うのに、最後の最後にその名前はね、と(意図がないわけではないが)取って付けたように明かされる訳ですし、悉く何の疑問も残らないように説明しきってしまうというのが作品のスタイルとなっていました。
 
つまりは、分かりやすいのです。これは、良い塾の授業のように喩えることもできると思います。生徒に考えさせたり、互いに検討したりすることなく、短い時間で知るべきことを完全に覚えさせるために、事細かく説明してしまいます。生徒のほうは、すべて丁寧に教えてもらえるために、考えさせる時間をもつ学校の授業より、塾の授業のほうが面白い、つまり聞いてすぐに分かる、という感想を漏らします。キミスイは、小説として、この効果を与えていると思うのです。そもそもラノベと呼ばれる世界は、そのようなものなのかもしれません。分かりやすく、誰もが一度読めば何のことか理解できる。それでいて、びっくりするような刺激的な展開で驚かせ、時にマジな人生観を語るような言葉をキャラに語らせる。これも、授業のポイントとしてこれが大事、という時には教師はそう分かるようなものの言い方をしますから、普通の口調と違って、いわばちょっと気取って、洒落たことを言う場面というのは、誰にでも分かるのです。従来の文学だと、分かる人には分かるが、ぼうっと読んでいくと見逃してしまうようなこともよくあったのですが、ラノベ的には、全員の心に響かせるということができないと、役割を果たすことにならないわけです。
 
近年、特に若年層の「読解力」の危機が懸念されています。若者には限らないかと思いますが、人工知能には恐らくできまいと言われている「読解」が、実は人間にもできなくなってきているという指摘です。何もかもを説明してしまわなければ適切に理解できない、というのがその懸念される実態ですが、「作品が難しい」と思わせないためには、何もかもを説明してしまうことが求められます。キミスイは、見事にこれを達成したから、受け容れられたのではないかと感じました。ラストの恭子との関係も、そこまで描く必要があるかしら、と思えるほどでしたが、そこまで描いてこその「分かりやすさ」だったのでしょう。(「星の王子さま」にもそこで使われた「仲良くなる」ことがひとつのキーワードであったかと思います。)

私もその分かりやすさを少しは考えて記しているのですが、どうやらなかなか難しいようです。そこで今回何が言いたかったかというと、教会のメッセージです。信徒に対しては、あけすけに一から十まで説明する必要はありません。すでに信仰があったり、聖書についてのある程度の常識めいたものは前提として理解されていたりするからです。もちろん、それでよいのです。だから私などもそうでしたが、説教を聞いても、全部が分かるわけではない。知識もないし、自分の霊的な経験からしてもついていけない。けれども、その分からなさの中に、何かが感じられる、何かあると思う、という期待も起こり、分からないからこそ求めたい、という脈絡があったと思うのです。しかし、よく分かった、だから感動した、というものがあってこそ、キミスイが受け容れられたように、礼拝メッセージが自分と結びつくのだ、としたら、どうでしょう。従来の、全部は説明はしないが何かがここにあると伝わってくれたら、という思惑は、若い人々には「分からない・難しい」だから「自分には関係のない世界だ」という結果しか生みださないことになりかねないのではないかと危惧してしまいます。かと言って、礼拝の中で一から十まで説明をしている時間はありません。時間が長くなるとまた別の意味で嫌になります。
 
何も、信徒獲得のために説教をするのではありません。初めて聞いた人が分かるように話さないと説教にならない、などと言っているのではありません。しかし、いつか分かってくれる、というような仄かな期待は、甘いのだ、と知ることは重要です。「一人ひとり自分で考えてごらんなさい」とか「分からないこともいずれ分かるようになります」とかいう気持ちでの話は、特に若い人々には全く伝わらない可能性を覚悟しておく必要があるのではいなか、ということです。漫然と話をするのではなく、ここだけは、この一つだけ聞いてね、というようなメリハリがあれば、まだよいと思います。塾の授業でも、理解の難しいところは当然ありますが、基本の基本については、誰一人分からないと言わせない、という決意で説明します。それさえ概念把握すれば、応用も理解できる道筋ができると分かっているからです。そこで話し方がずいぶん変わってきます。生徒も分かります。ああ、とにかくこれだけ覚えていたらいいんだな、と思うし、そこだけでも理解しようとします。礼拝説教も、一本調子でどこがヤマ場なのかよく分からないような話し方をしていて、「聞いていればここが大事だと分かるよね」というような構え方だと、恐らく何も伝わらない、ということをご理解戴きたいのです。
 
もちろん、説明をすればすべて伝わる要素ができるのだ、というようなことを言おうとしているのではありません。聖書の物語が出来事として成り立つに至るのは聖霊の働きによるのであり、同じ話を聞いても魂に響く場合もあれば響かない場合もある、だから話し方が工夫されたから伝わりやすいとか、心が開かれるとかいうテクニックでもないし、言うなれば拙い説明であっても神と出会う場を備えることは大いにあるわけで、流暢に話せばよいなどということでもありません。よい説明をしましょう、とか、よい説明をするにはどうすればよいか、とかいう提言をしているのでもありません。ただ、語るほうの思惑や願いがあまりにもズレているのに、伝わらないことに苛立ったり、悲しんだりするということがあるとすれば、気づきたいものだと思うわけです。その意味では、この文章は無責任です。伝わらなくても、悲しんだりもせず、飄々とただ流しているのであって、ぜひ伝えようという切実さがないのですから。もう少し苛立ったほうがよいのかもしれない、と、また考えを改めるべきなのだろうか、などとも思案中ではあります。
 
なお、このキミスイは2015年6月に発行されています。私はこの物語の内容を知ったとき、私の大好きな『四月は君の嘘』(君嘘と表記)と同じやん、と思いました。詳しくは言いませんが、物語の構造がほぼ全く同じなのです。あっと驚かす死の原因こそはキミスイならではですが、主人公級の3人のキャラクター設定と、それぞれの性格が、実にそっくりです。この君嘘は2011年から2015年3月号まで「月刊少年マガジン」に連載されていた作品ですから、キミスイの作者は十分知っている可能性があり、物語のラストシーンも、終わる数カ月前からうっすら見えてきていましたから、あまりに似ている物語構成が、果たしてどうなのか、実際のところを知りたいと思います。君嘘も、連載中からテレビアニメとなり、実に質の良い仕上がりとなっていましたし、その後2016年9月に、設定をだいぶ替えはしましたが、広瀬すず・山崎賢人で実写映画化されました。分かりやすさはありますが、説明がキミスイほどに細々となされてはいないのが特徴で、私は心震えました。しかし、これでもかと説明を突きつけてくるキミスイには、ついに感動を覚えることはありませんでした。キミスイのファンの方、気を悪くしたかと思いますが、作品を悪く言っているのではなく、多くの人に感動を与えたことで最初に「名作」と申し上げました。教会の説教をもっと「分かりやすい」ようにしたいという意図から綴りましたので、どうかご容赦ください。



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